ひどく貧乏、だけど豊か
自分自身の競技セーラー時代のことを話し始めたFの口から、その頃の先輩、ライバル、後輩たちの名前が、次から次に尽きることなく流れ出てくる。
まともなセーリングウェアなどは存在せず、ほとんど着の身着のままで海に出ていたその頃のヨット部の学生たち。合宿には自分が食べる分の米と、毛布1枚を持って集合した。選ばれた学生セーラーたちは卒業すると企業所属の選手になり、毎日海に出て練習することが許された。会社の費用で海外遠征に行っては惨敗して悔しがり、冬のさなかに練習を繰り返して、その翌年に雪辱を果たしたり、返り討ちにあったりしていた。今から40年以上も前の話である。
Fの言葉の中で、彼らは生き生きと蘇り、浜から海にヨットを押し出し、セールを操って風に乗り、レースでつばぜり合いを演じ、整備を終えた愛艇の横に座って酒を飲み、そして楽しそうに笑っていた。
彼らは皆、戦争を知っている世代である。食べたい物を食べることができず、着たい服も着ることができない、貧しい時代の日本で育った世代だ。海外遠征には極めて限られた選手だけしか行くことはできず、その選手にしても、航空券が高すぎるために飛行機には乗れず、自分のヨットと一緒に貨物船に乗って海を渡った。写真を見ると、みんな可哀想になるくらい痩せこけている。しかし、そんな半世紀近く前の日本人セーラーたちが、元気いっぱいに日本のセーリング界を引っ張っていたのだ。
Fの話の中には、第二次世界大戦中、元海軍大臣から依頼されて、横須賀にあった武山海軍基地で若い士官たちにセーリングを教えていた人物のエピソードも登場する。
横須賀武山海軍基地の名前は、戦争末期に神風特攻隊として若い命を散らせた青年将校たちが、出撃直前に書いた手紙や日記を集録した『きけ わだつみのこえ』という本の中に、作者たちの所属基地として頻繁に登場するが、悲惨な戦争の犠牲になった学生や青年たちが、戦場に駆り出される前に、佐島の沖でヨットに乗ってセーリングを楽しむ時間を持ったということは、初めて聞く話だった。
セーラーとして
Fの本格的なセーリングのキャリアは、早稲田大学ヨット部に入部することから始まった。その1年前、浪人時代に、荒川に架かる千住大橋の袂にあった貸しヨット屋で借りたA級ディンギーに乗ってセーリングの面白さの虜になって以来、大学に受かったらヨット部に入ってやろうと決めていたのだ。
それにしても昭和20年代に、東京都内の下町を流れる川に貸しヨット屋……。かつての東京は、今の東京よりもよほどセンスのある街だったらしい。
早稲田大学のヨット部は、当時厳しい練習で知られていて、Fと一緒に55名入った新入部員が、1年後には3名になってしまうほどだったが、「皆が嫌がる艇の整備作業さえ楽しかった」というFは、その頃の花形クラスだったA級ディンギーですぐに頭角を現した。
Fが4年生の時に、早稲田大学は全日本学生選手権で優勝する。早稲田大学の優勝は16年ぶりのことだった。
FはA級ディンギーでその優勝に貢献したが、その活躍が見込まれて、T工業ヨット部に引っ張られることになった。大学卒業後に家業を継がなければならない立場だったにも関わらず、Fはその話を受けることにした。家業を継ぐために諦めるには、セーリング競技はあまりに魅力的でありすぎたのだ。
T工業ヨット部の一員として、ほとんどプロのセーラーのような待遇でセーリングしていた日々のことを、Fは「素晴らしい時間だった」と振り返る。T工業の創業者であるS.Y.と二代目のY.Yは、セーリングと若いセーラーたちに惜しみなく熱意と資金を注ぎ込んだ。
FはA級ディンギーやスナイプ級だけでなく、1960年のローマオリンピックの候補選手としてスター級にも乗った。そしてT工業が1964年に開催される東京オリンピックに自社チームの選手を送り込むことに照準を合わせてからは、集中してドラゴン級に乗るようになる。スキッパーとして1962年のドラゴン級全日本選手権に優勝したあとは、クルーとして2年後の東京オリンピックを目指すことになった。
1962年にはT工業ヨット部として、1963年には日本ヨット協会の強化選手として、Fたちはヨーロッパに遠征して世界レベルのセーリングの技術を磨いた。
そして1964年の1月から始まった選考レースで、Fの乗るチームは20レース中、1位17回、2位3回という圧倒的な強さを見せ、その年の6月には、4カ月後に開催される東京オリンピックへの出場権を早々と獲得した。
自分たちの圧倒的な強さに自分たち自身で驚きながら、Fは「もしかしたらメダルに手が届くかも知れない」とさえ思っていた。
だが、早い段階で代表権を得たことが、逆に負の要因になった。本番までの長い準備期間を過ごすうちに、Fのチームはメンタル面においても技術面においても、調整に失敗する。選考レースの時に保持していたトップコンディションとは程遠い状態で、東京オリンピック本番を迎えてしまったのだった。
(続く)
自分自身の競技セーラー時代のことを話し始めたFの口から、その頃の先輩、ライバル、後輩たちの名前が、次から次に尽きることなく流れ出てくる。
まともなセーリングウェアなどは存在せず、ほとんど着の身着のままで海に出ていたその頃のヨット部の学生たち。合宿には自分が食べる分の米と、毛布1枚を持って集合した。選ばれた学生セーラーたちは卒業すると企業所属の選手になり、毎日海に出て練習することが許された。会社の費用で海外遠征に行っては惨敗して悔しがり、冬のさなかに練習を繰り返して、その翌年に雪辱を果たしたり、返り討ちにあったりしていた。今から40年以上も前の話である。
Fの言葉の中で、彼らは生き生きと蘇り、浜から海にヨットを押し出し、セールを操って風に乗り、レースでつばぜり合いを演じ、整備を終えた愛艇の横に座って酒を飲み、そして楽しそうに笑っていた。
彼らは皆、戦争を知っている世代である。食べたい物を食べることができず、着たい服も着ることができない、貧しい時代の日本で育った世代だ。海外遠征には極めて限られた選手だけしか行くことはできず、その選手にしても、航空券が高すぎるために飛行機には乗れず、自分のヨットと一緒に貨物船に乗って海を渡った。写真を見ると、みんな可哀想になるくらい痩せこけている。しかし、そんな半世紀近く前の日本人セーラーたちが、元気いっぱいに日本のセーリング界を引っ張っていたのだ。
Fの話の中には、第二次世界大戦中、元海軍大臣から依頼されて、横須賀にあった武山海軍基地で若い士官たちにセーリングを教えていた人物のエピソードも登場する。
横須賀武山海軍基地の名前は、戦争末期に神風特攻隊として若い命を散らせた青年将校たちが、出撃直前に書いた手紙や日記を集録した『きけ わだつみのこえ』という本の中に、作者たちの所属基地として頻繁に登場するが、悲惨な戦争の犠牲になった学生や青年たちが、戦場に駆り出される前に、佐島の沖でヨットに乗ってセーリングを楽しむ時間を持ったということは、初めて聞く話だった。
セーラーとして
Fの本格的なセーリングのキャリアは、早稲田大学ヨット部に入部することから始まった。その1年前、浪人時代に、荒川に架かる千住大橋の袂にあった貸しヨット屋で借りたA級ディンギーに乗ってセーリングの面白さの虜になって以来、大学に受かったらヨット部に入ってやろうと決めていたのだ。
それにしても昭和20年代に、東京都内の下町を流れる川に貸しヨット屋……。かつての東京は、今の東京よりもよほどセンスのある街だったらしい。
早稲田大学のヨット部は、当時厳しい練習で知られていて、Fと一緒に55名入った新入部員が、1年後には3名になってしまうほどだったが、「皆が嫌がる艇の整備作業さえ楽しかった」というFは、その頃の花形クラスだったA級ディンギーですぐに頭角を現した。
Fが4年生の時に、早稲田大学は全日本学生選手権で優勝する。早稲田大学の優勝は16年ぶりのことだった。
FはA級ディンギーでその優勝に貢献したが、その活躍が見込まれて、T工業ヨット部に引っ張られることになった。大学卒業後に家業を継がなければならない立場だったにも関わらず、Fはその話を受けることにした。家業を継ぐために諦めるには、セーリング競技はあまりに魅力的でありすぎたのだ。
T工業ヨット部の一員として、ほとんどプロのセーラーのような待遇でセーリングしていた日々のことを、Fは「素晴らしい時間だった」と振り返る。T工業の創業者であるS.Y.と二代目のY.Yは、セーリングと若いセーラーたちに惜しみなく熱意と資金を注ぎ込んだ。
FはA級ディンギーやスナイプ級だけでなく、1960年のローマオリンピックの候補選手としてスター級にも乗った。そしてT工業が1964年に開催される東京オリンピックに自社チームの選手を送り込むことに照準を合わせてからは、集中してドラゴン級に乗るようになる。スキッパーとして1962年のドラゴン級全日本選手権に優勝したあとは、クルーとして2年後の東京オリンピックを目指すことになった。
1962年にはT工業ヨット部として、1963年には日本ヨット協会の強化選手として、Fたちはヨーロッパに遠征して世界レベルのセーリングの技術を磨いた。
そして1964年の1月から始まった選考レースで、Fの乗るチームは20レース中、1位17回、2位3回という圧倒的な強さを見せ、その年の6月には、4カ月後に開催される東京オリンピックへの出場権を早々と獲得した。
自分たちの圧倒的な強さに自分たち自身で驚きながら、Fは「もしかしたらメダルに手が届くかも知れない」とさえ思っていた。
だが、早い段階で代表権を得たことが、逆に負の要因になった。本番までの長い準備期間を過ごすうちに、Fのチームはメンタル面においても技術面においても、調整に失敗する。選考レースの時に保持していたトップコンディションとは程遠い状態で、東京オリンピック本番を迎えてしまったのだった。
(続く)