今日も、サンデル氏の ”JUSTICE What't the Right Thing to Do ?”(『これからの「正義」の話をしよう』 早川書房 2010.5)を考えます。
A.サンデル氏は、正義は道徳的真理だと言います。(参:11月27日ブログ 「法と正義 2」)
この言明(げんめい)は正しいでしょうか?
既に(11月20日)見ましたように、正義の内容は、人・場所・時代、そして、その人の属する集団の掲げるアイデンティティによって、異なります。
1.アメリカに反捕鯨団体・シーシェパードがあります。
彼らの活動の根っこを形成している部分は、恐らく、彼らの一人一人が、元来持っている反社会的なアウトサイダーとしての要素なのでしょうが、それが対外的な「海洋環境保護」・「反捕鯨」を名目にして、活動の先鋭化に現れています。
彼らは、「自分たちの行動は正義だ」と、思っている事でしょう。
12月9日の産経新聞は、日本の「鯨類捕獲調査」に対するシーセパードの妨害行動の差し止めと調査船団への接近禁止を求めて、日本鯨類研究所がワシントン州連邦地裁に対して提訴したことを、伝えています。
良いことだと思います。
日本の国内法で言えば、明らかにシーシェパードの行動は違法なものですが、連邦地裁に提訴してその行動の違法性を明らかにして行くということは、日本とアメリカの規範の同一性を求めて行くということにも繋がり、それが判例となりますから、結果がどうあれ非常に良いことだと思います。
2.「調査捕鯨」ということに関して言えば、日本政府は今年(2011年)2月18日、シーシェパードの妨害を理由に、3月まで予定していた南極海での実施を取りやめると発表しました。この時の目標捕獲数は900頭で、実績は170頭です。
このサンプル数900というのはどうなのでしょう。鯨の母集団に対するサンプル900という数字は、母集団を解析するにあたって、母集団の推定数から出した統計学上の数字なのでしょうが、それではあまりにも杓子定規過ぎるように思います。
母集団の動向と他の魚類の消長増減は、現代の科学をもってすれば、900頭のサンプルを現地捕獲しなくても、鯨が食べるオキアミや魚類などのエサは、鯨の種別に2頭から10頭の捕獲解体と世界の魚類の水揚げの統計から、その内容は把握できるでしょうし、遊泳範囲は標本の鯨に発信器を取り付ければ、人工衛星で追跡できます。(この人工衛星から鯨を追跡する研究は千葉工業大学で行っています)。
同一現地での900頭というサンプル捕獲は、かえって、世界の海を深海から海上まで遊泳する、母集団の把握を偏らせてしまうのではないかという、素人ながらの危惧も持ちます。
私の子供のころは、鯨は普通に食卓に上るものでした。しかし、上京してからは、お土産(みやげ)で、一度、鯨の干物をもらったという記憶があるくらいで、あとは食べたことがありません
世界の趨勢(すうせい)は地球環境の保護に向かっています。日本も捕鯨は伝統的に伝わる地場の捕鯨のみにするべき時が来ているのでしょう。
そして明らかに、鯨の増減消長と魚類増減の相関を調査する方法は、現在の「調査捕鯨」ではあまりにも古い方法だといえます。
国際的は非難に晒(さら)されてまで「調査捕鯨」を続けるよりも中止し、調査は他の方法に変えることが国策としても利に適(かな)っているように思います。
そして、地場は産業転換を行わなければなりません。
3.次に、道徳的真理とは何でしょう。
その前に真理とは何でしょうか? 真理とは、考え出すと厄介な言葉です。生に意味有るものを求めることが、私たちが考え、或いは、対象(都市・学問・化科学・世界・国・自治体・会社・家庭等、私達の周りに有るもの全て)を作り出す作業の全てだと、易(やさ)しくシンプルに考えましょう。福沢諭吉はこれを実学と言っています。
そして思考方法として、懐疑は有効な方法の一つです。常識を疑い、科学者や宗教家、歴史家がもっともらしく語っていることを疑ってみる。そして考える。そうすると常識とは異なった対象へのアプローチの方法や世界が見えて来ます。
私たちの子供のころ教えられたのは光りは直進するというものでした。しかし、今では光は磁場や重力場で曲がるいうのが常識になっています。光速が一番早いというのも、ニュートリノが光よりも早いという実験結果が先だって発表され、話題となっています。
弁証法も有効な思考方法の一つです。「弁証」という言葉から、その思考方法は何一つイメージできませんが、易しく弁証法と云うものを考えてみますと、何か問題があった場合、その問題を対話法によって解決し、新しい視点を見つけ出して行く方法と言って良いと思います。
つまり、仮にAさんという方がいらっしゃり、問題Xを解決したいと思っていらっしゃる。そしてBさんがいらっしゃる。(このBさんは最初は問題Xを共有していらっしゃってもいらっしゃらなくてもかまいません)。Aさんは問題Xの解決方法を考え、それをBさんに提起される。そして今度は、BがAさんの提起された内容を踏まえて、別の視点から問題Xの解決方法をAさんに投げ返される。そしてより良い解決法を見つけ出して行く。この対話法は弁証法と言って良いと思います。ソクラテスの対話もこの方法を取っています。
そうなんです。私たちが家庭や職場で普通に問題解決の方法として取っているものと一緒なんです。
懐疑=疑問とそれに解答を与えようとする方法は、地球上にあまたの発見をもたらし、世界を変えて来ました。
4.そして今度は、人間が過去・現在・未来において生きて行く上で有意味であり、且つ、人が守るべき規範=道徳があれば、それを道徳的真理と呼んで、考えて見ましょう。
7月31日に記しましたモ―ゼの十戒を再掲します。
1.神は一神であること
2.偶像を作って仕えてはならないこと
3.神の御名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を憶えてこれを聖とすること、六日の間働き、七日目を安息日とすること
5.父母を敬うこと
6.殺してはならないこと
7.姦淫してはならないこと
8.盗んではならないこと
9.隣人に対し偽りの証しを立ててはならないこと
10.隣人のものを欲しがってはならないこと
この内、5から10は人間が守るべき戒律として普遍性を持ちます。
では、5から10の戒律を守ることが正義を行うことなのでしょうか? 少し物足りません。やはり正義とは、人の守るべき戒律=道徳を守って、尚、人の実現すべき幸福・平和・富・善・中庸の社会を実現しようとする行為を、その名で呼ぶのが最もふさわしいようです。
雑木林の木々の間を射しこむ夕日