集英社<戦争×文学>第2巻「ベトナム戦争」の収録作品中で、韓国に関係するものが1つ。
堀田善衞の小説「名を削る青年」です。これは1970年刊行の戦争の中での人間を扱った3つの短編からなる連作「橋上幻像」の中の1編です。
堀田善衞(1918~98)は、ウィキペディアにもあるように、ベトナム戦争中に脱走米兵を自宅(別荘)に匿ったこともありました。
この「名を削る青年」も、そんな彼自身の経験に基づいた作品です。
この作品についてなんらかのことを書く場合、2通りの書き方に大別されます。
1つは、作品自体に即した文学的な観点。もう1つは、その素材となった事実について。
どちらも私ヌルボの能力と生来のナマケ心からすれば厄介な作業で、2週間ほど前に読み終えた短編なのに、なかなか書き始めることができませんでした。
今回は、最初の方の観点からということで、とりあえず作品の梗概を記します。
ジンギス汗が男の家へあらわれたのは、正月早々のある日曜日のことであった。
という冒頭の一節から物語は始まります。
本文には記されていませんが、1968年の正月です。「男」は堀田自身とみなしてよく、「あらわれた」とあるのは、具体的には脱走兵の支援をしていたベ平連メンバーが、ジンギス汗(作品内での仮称)を隠れ家である「男」の家に連れてきた、ということです。ただし、この作品では、「ベ平連」という言葉も「脱走兵支援組織」という言葉も記されていません。1970年は、脱走兵をめぐってはまだ68年と同じ状況にあったため具体的記述を避けたということでしょう。また文学として、より抽象化した表現が採られたということもあるかもしれません。
さて、「男」の家にかくまわれることになった脱走兵ですが、ウィリアム・ジョージ・マクガヴァーンという名で紹介された米兵とはいっても、見た目は「日本人、あるいは東洋人然たる東洋人」で、彼をつれてきた「男」の友人によると、「別の名をパク・チョン・スーとも言います」とのこと。
つまり、彼は韓国生まれで、朝鮮戦争で孤児となり、その後アメリカの養家にもらわれていった海外養子(韓国でいうところの)「入養児」だったのです。
作品内で彼自身が語る経歴は次のようなものです。
1945年ソウルで生まれた。朝鮮語は「完全に忘れた。」
朝鮮戦争で北朝鮮軍がソウルに入ったとき、孤児になった。
「父母が死んだのかどうかさえわからない。要するに気がついてみると、街頭にたった一人でいただけだ。私は五歳だった。朝鮮で学校に行ったことは一度もない。そういう浮浪児は、当時数百人もいたと思う。生活は米軍基地から投げ棄てられるものや、盗みでまかなっていた。・・・九歳のときに、アメリカ人たちの組織している、戦災孤児を養子に迎える会、といった組織に拾われて、ロサンゼルスへ移された。私はアイオワ市の実業家(多くのガソリンスタンドの持ち主)の家へ送られ、その家での最年少の第七番目の息子ということになった。」
最初に洗濯=シャワー、薬品で消毒、医者の身体検査、・・・で「合格」。教会で洗礼を受け、ウィリアムと名付けられる。
・・・彼はすでにこの時点でこの新しい名前に対してまったく納得が行かず、「これであなたはウィリアムになったのよ、神様が認めて下さったわ」という養母の言葉に動顛し、「なぜぼくがウィリアムなんだ、パク・チョン・スーで何がわるい?」と問い返したりします。「なぜって、あなたはマクガヴァーン家の人になったのですから」というのが養母の答えでした。
高校時代に、彼にとって一つの「事件のようなもの」が起こります。派手な事件を起こした等ではなく、タナカが来たことを契機に彼は自問するのです。「なぜ彼はタナカなのに、自分はパク・チョン・スーではないのか?」と。そう思いはじめた彼はアメリカの名前で呼ばれることに耐えられなくなり、4日後に家出します。
「ぼくはぼく自身になりたかった。ぼくがぼく自身でつくった、そういう自己自身(identificataion)がほしかったんだ」と早口で、しかも次第に甲高くなって行く話を聞いていて、「男」も「一種異様な感慨に突き落とされて行く自分」を感じます。
しかし、青年は「パク・チョン・ス―にも戻れない」と考えます。
「米軍基地にたかって残飯を手づかみで食べる浮浪児には二度と戻りたくない・・・。」
家出後、保養地のモーテルで1年ほど働いていた彼は、家出捜索会社に見つかってしまいます。しかし養家は寛大で、居所を通報することを条件に自由にしていいと言われ、その通りにします。養家が住所の通報を条件にしたのは、徴兵カードが来た時に居所がわからず宙に浮くようになったら家の名誉に関わるから。
はたしてその後徴兵カードが来て、彼は従軍します。またウィリアムがついてまわります。サンフランシスコで入営し、訓練後まずドイツ、そして朝鮮に移送されます。
ところが・・・。
「朝鮮で、ぼくは物凄く不幸だった。・・・浮浪児の一人だったぼくが、今度は十一年後に、米軍の兵士の一人として、金網の内側の人として、そういう女を買い、浮浪児に物を投げ与える側の人間として、名前までウィリアム・ジョージ・マンガヴァーンとなって、戻ってきたわけだ。いまのぼくは、たしかに脱走兵だけど、本当は脱走兵というものでもない、そのずっと以前のところで、ぼくは国というものがいやなのだ。いらないんだ。・・・
金網の内側でも外側でも、少しも仕合せではない。しかし少なくとも、ぼくは朝鮮にいて金網の内側であってはならない、と思った。」
しかし、金網の外側で朝鮮人として暮らすことも出来ない彼、「アジア的不潔さ」には耐えられず、「キムチなんぞという朝鮮人としての自己検証(アイデンティティ)に絶対必要なものなんか、汚くて手にするのも見るのもいや」という彼は、求めてベトナムへ転属されます。
ここまで、梗概というには長々と書いてしまいました。
要は、この作品の眼目は、アイデンティティと、その基底に据えられることの多いナショナリティ、さらにはそのナショナル・アイデンティティとも関連しつつ、より深い層で個のアイデンティティの拠り所となる「名前」についての省察ということ、・・・と私ヌルボは理解しました。
「男」は、青年のいないところで家族の全員に質問をします。
「姓名がある、名前がある、それを自分のものとして承認をしているということは、それ自体で、何かを持っている、所有をしているということなのだろうか?」
娘の一人は「アーッ、アタマがヘンになった! アタマにキタぞおッ!」と絶叫をして自分の部屋へ駈け出して行きます。
朝鮮名もアメリカ名も拒否するという青年。そんな「最低の、人間であるための条件」を拒否するということはどういうことか。
「男」はふと気付きます。「あの青年は、ひょっとして<橋>なのではなかろうか」。
青年は米軍の身分証明書(アイデンティティ・カード)を燃やします。そして「犬の鑑札(ドッグ・タグ)」と言っていた銅製の兵籍番号票を「男」に渡します。青年が「この世界」につながる最後の一枚である「犬の鑑札」を握って、「男」は思います。
「「この青年が人間であっておれは国家人なのか・・・。」 男もまた、男の娘のように、わぁーッ、と叫びたくなった。」
「そうだ、署名をしよう」と言って彼が書いたサインは卐(ナチスの鉤十字)と、✡(ユダヤの六芒星)と、ソ連の国章の鎌と槌。
冒頭の一文の「ジンギス汗」は、青年の求めに応じて「男」が彼につけた仮称です。小説のラストで、2人はジンギス汗の将来について語り合います。
「将来、どこかで中華料理屋をひらきたい」という彼。「北欧のあの国にも中華料理屋はあるかしらん?」と、あえて「スウェーデン」の名は避けています。樹木のある国は花粉のアレルギーがあるからだめ、という青年は、「彼」のアドバイスにしたがって結論を語ります。
「そうか、じゃモロッコへ行って中華料理屋をやる」
ジンギス汗は、男の家へ来てはじめて明るく、白い歯を見せてくったくなく笑った。
「向こうへ行って落ち着いたら、ぼくはぼくのための、適当な名前を自分でつくるつもりだ。・・・
その後青年は「彼」の家を出て行きます。
裸の男を送り出したかの感があった。
葬儀のときの、出棺、というに近い感があった。
男の家では、しばらくはテレヴィジォンだけが喋っていた。
・・・「出棺」とは、言いえて妙だと思いました。
本書が刊行された1970年当時の日本では、まだアイデンティティという言葉は一般的ではなかったと思います。
その後、一般的にいえば日本人にとって国の存在が薄れていき、個々の「アイデンティティ」の揺らぎがさまざまな形で社会問題として表出するようになって、この言葉も一般化してきました。
同じ1970年、「文芸」8月号に発表された古井由吉の「杳子」(71年芥川賞受賞作)はいわゆる「内向の世代」の作品で作風は全然違いますが、思えばやはりアイデンティティの問題を扱った、文学史的・社会史的に意味のある作品だったかもしれません。
ただ、戦争というのは、「国」の側から一方的にナショナリティを迫るもので、確固たるナショナル・アイデンティの持ち主は「使命感」に燃える一方、脆弱な「国民」は精神的にも実生活面でも追いつめられることになります。脱走兵はまさにその代表例で、この作品はそんな脱走兵が外から飛び込んでくることによって否応なく自分自身のアイデンティティを考えることに立ち至った「男」が主人公で、その後の日本のアイデンティティがらみの作品とは性格が異なりますね。
「ナショナリティ」と密接に結びついた「名前」をめぐるアイデンティティ確立の問題としては、70年代以降、在日の間で進められた、主に教育現場での「本名を呼び、名のる運動」が思い起こされます。これについては、まさに社会的な問題なので、機会があれば別記事で考えてみることにします。
本題の最初に戻って、この「名を削る青年」の2通りの書き方の後者の方、その素材となった事実すなわち実在の脱走兵金鎮洙(キム・ジンス)をめぐっては、「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)などにかなり詳しく載っています。
続きでは、彼や当時のベ平連のこと等について書く予定です。
(このテの記事は疲れるなー・・・。)
堀田善衞の小説「名を削る青年」です。これは1970年刊行の戦争の中での人間を扱った3つの短編からなる連作「橋上幻像」の中の1編です。
堀田善衞(1918~98)は、ウィキペディアにもあるように、ベトナム戦争中に脱走米兵を自宅(別荘)に匿ったこともありました。
この「名を削る青年」も、そんな彼自身の経験に基づいた作品です。
この作品についてなんらかのことを書く場合、2通りの書き方に大別されます。
1つは、作品自体に即した文学的な観点。もう1つは、その素材となった事実について。
どちらも私ヌルボの能力と生来のナマケ心からすれば厄介な作業で、2週間ほど前に読み終えた短編なのに、なかなか書き始めることができませんでした。
今回は、最初の方の観点からということで、とりあえず作品の梗概を記します。
ジンギス汗が男の家へあらわれたのは、正月早々のある日曜日のことであった。
という冒頭の一節から物語は始まります。
本文には記されていませんが、1968年の正月です。「男」は堀田自身とみなしてよく、「あらわれた」とあるのは、具体的には脱走兵の支援をしていたベ平連メンバーが、ジンギス汗(作品内での仮称)を隠れ家である「男」の家に連れてきた、ということです。ただし、この作品では、「ベ平連」という言葉も「脱走兵支援組織」という言葉も記されていません。1970年は、脱走兵をめぐってはまだ68年と同じ状況にあったため具体的記述を避けたということでしょう。また文学として、より抽象化した表現が採られたということもあるかもしれません。
さて、「男」の家にかくまわれることになった脱走兵ですが、ウィリアム・ジョージ・マクガヴァーンという名で紹介された米兵とはいっても、見た目は「日本人、あるいは東洋人然たる東洋人」で、彼をつれてきた「男」の友人によると、「別の名をパク・チョン・スーとも言います」とのこと。
つまり、彼は韓国生まれで、朝鮮戦争で孤児となり、その後アメリカの養家にもらわれていった海外養子(韓国でいうところの)「入養児」だったのです。
作品内で彼自身が語る経歴は次のようなものです。
1945年ソウルで生まれた。朝鮮語は「完全に忘れた。」
朝鮮戦争で北朝鮮軍がソウルに入ったとき、孤児になった。
「父母が死んだのかどうかさえわからない。要するに気がついてみると、街頭にたった一人でいただけだ。私は五歳だった。朝鮮で学校に行ったことは一度もない。そういう浮浪児は、当時数百人もいたと思う。生活は米軍基地から投げ棄てられるものや、盗みでまかなっていた。・・・九歳のときに、アメリカ人たちの組織している、戦災孤児を養子に迎える会、といった組織に拾われて、ロサンゼルスへ移された。私はアイオワ市の実業家(多くのガソリンスタンドの持ち主)の家へ送られ、その家での最年少の第七番目の息子ということになった。」
最初に洗濯=シャワー、薬品で消毒、医者の身体検査、・・・で「合格」。教会で洗礼を受け、ウィリアムと名付けられる。
・・・彼はすでにこの時点でこの新しい名前に対してまったく納得が行かず、「これであなたはウィリアムになったのよ、神様が認めて下さったわ」という養母の言葉に動顛し、「なぜぼくがウィリアムなんだ、パク・チョン・スーで何がわるい?」と問い返したりします。「なぜって、あなたはマクガヴァーン家の人になったのですから」というのが養母の答えでした。
高校時代に、彼にとって一つの「事件のようなもの」が起こります。派手な事件を起こした等ではなく、タナカが来たことを契機に彼は自問するのです。「なぜ彼はタナカなのに、自分はパク・チョン・スーではないのか?」と。そう思いはじめた彼はアメリカの名前で呼ばれることに耐えられなくなり、4日後に家出します。
「ぼくはぼく自身になりたかった。ぼくがぼく自身でつくった、そういう自己自身(identificataion)がほしかったんだ」と早口で、しかも次第に甲高くなって行く話を聞いていて、「男」も「一種異様な感慨に突き落とされて行く自分」を感じます。
しかし、青年は「パク・チョン・ス―にも戻れない」と考えます。
「米軍基地にたかって残飯を手づかみで食べる浮浪児には二度と戻りたくない・・・。」
家出後、保養地のモーテルで1年ほど働いていた彼は、家出捜索会社に見つかってしまいます。しかし養家は寛大で、居所を通報することを条件に自由にしていいと言われ、その通りにします。養家が住所の通報を条件にしたのは、徴兵カードが来た時に居所がわからず宙に浮くようになったら家の名誉に関わるから。
はたしてその後徴兵カードが来て、彼は従軍します。またウィリアムがついてまわります。サンフランシスコで入営し、訓練後まずドイツ、そして朝鮮に移送されます。
ところが・・・。
「朝鮮で、ぼくは物凄く不幸だった。・・・浮浪児の一人だったぼくが、今度は十一年後に、米軍の兵士の一人として、金網の内側の人として、そういう女を買い、浮浪児に物を投げ与える側の人間として、名前までウィリアム・ジョージ・マンガヴァーンとなって、戻ってきたわけだ。いまのぼくは、たしかに脱走兵だけど、本当は脱走兵というものでもない、そのずっと以前のところで、ぼくは国というものがいやなのだ。いらないんだ。・・・
金網の内側でも外側でも、少しも仕合せではない。しかし少なくとも、ぼくは朝鮮にいて金網の内側であってはならない、と思った。」
しかし、金網の外側で朝鮮人として暮らすことも出来ない彼、「アジア的不潔さ」には耐えられず、「キムチなんぞという朝鮮人としての自己検証(アイデンティティ)に絶対必要なものなんか、汚くて手にするのも見るのもいや」という彼は、求めてベトナムへ転属されます。
ここまで、梗概というには長々と書いてしまいました。
要は、この作品の眼目は、アイデンティティと、その基底に据えられることの多いナショナリティ、さらにはそのナショナル・アイデンティティとも関連しつつ、より深い層で個のアイデンティティの拠り所となる「名前」についての省察ということ、・・・と私ヌルボは理解しました。
「男」は、青年のいないところで家族の全員に質問をします。
「姓名がある、名前がある、それを自分のものとして承認をしているということは、それ自体で、何かを持っている、所有をしているということなのだろうか?」
娘の一人は「アーッ、アタマがヘンになった! アタマにキタぞおッ!」と絶叫をして自分の部屋へ駈け出して行きます。
朝鮮名もアメリカ名も拒否するという青年。そんな「最低の、人間であるための条件」を拒否するということはどういうことか。
「男」はふと気付きます。「あの青年は、ひょっとして<橋>なのではなかろうか」。
青年は米軍の身分証明書(アイデンティティ・カード)を燃やします。そして「犬の鑑札(ドッグ・タグ)」と言っていた銅製の兵籍番号票を「男」に渡します。青年が「この世界」につながる最後の一枚である「犬の鑑札」を握って、「男」は思います。
「「この青年が人間であっておれは国家人なのか・・・。」 男もまた、男の娘のように、わぁーッ、と叫びたくなった。」
「そうだ、署名をしよう」と言って彼が書いたサインは卐(ナチスの鉤十字)と、✡(ユダヤの六芒星)と、ソ連の国章の鎌と槌。
冒頭の一文の「ジンギス汗」は、青年の求めに応じて「男」が彼につけた仮称です。小説のラストで、2人はジンギス汗の将来について語り合います。
「将来、どこかで中華料理屋をひらきたい」という彼。「北欧のあの国にも中華料理屋はあるかしらん?」と、あえて「スウェーデン」の名は避けています。樹木のある国は花粉のアレルギーがあるからだめ、という青年は、「彼」のアドバイスにしたがって結論を語ります。
「そうか、じゃモロッコへ行って中華料理屋をやる」
ジンギス汗は、男の家へ来てはじめて明るく、白い歯を見せてくったくなく笑った。
「向こうへ行って落ち着いたら、ぼくはぼくのための、適当な名前を自分でつくるつもりだ。・・・
その後青年は「彼」の家を出て行きます。
裸の男を送り出したかの感があった。
葬儀のときの、出棺、というに近い感があった。
男の家では、しばらくはテレヴィジォンだけが喋っていた。
・・・「出棺」とは、言いえて妙だと思いました。
本書が刊行された1970年当時の日本では、まだアイデンティティという言葉は一般的ではなかったと思います。
その後、一般的にいえば日本人にとって国の存在が薄れていき、個々の「アイデンティティ」の揺らぎがさまざまな形で社会問題として表出するようになって、この言葉も一般化してきました。
同じ1970年、「文芸」8月号に発表された古井由吉の「杳子」(71年芥川賞受賞作)はいわゆる「内向の世代」の作品で作風は全然違いますが、思えばやはりアイデンティティの問題を扱った、文学史的・社会史的に意味のある作品だったかもしれません。
ただ、戦争というのは、「国」の側から一方的にナショナリティを迫るもので、確固たるナショナル・アイデンティの持ち主は「使命感」に燃える一方、脆弱な「国民」は精神的にも実生活面でも追いつめられることになります。脱走兵はまさにその代表例で、この作品はそんな脱走兵が外から飛び込んでくることによって否応なく自分自身のアイデンティティを考えることに立ち至った「男」が主人公で、その後の日本のアイデンティティがらみの作品とは性格が異なりますね。
「ナショナリティ」と密接に結びついた「名前」をめぐるアイデンティティ確立の問題としては、70年代以降、在日の間で進められた、主に教育現場での「本名を呼び、名のる運動」が思い起こされます。これについては、まさに社会的な問題なので、機会があれば別記事で考えてみることにします。
本題の最初に戻って、この「名を削る青年」の2通りの書き方の後者の方、その素材となった事実すなわち実在の脱走兵金鎮洙(キム・ジンス)をめぐっては、「となりに脱走兵がいた時代」(思想の科学社)などにかなり詳しく載っています。
続きでは、彼や当時のベ平連のこと等について書く予定です。
(このテの記事は疲れるなー・・・。)