一昨日(1月4日)徳島から横浜に戻りました。
朝徳島駅前から高速バスに乗ると、昼頃大阪駅に着きます。1998年明石海峡大橋が開通するまで、私ヌルボは大阪なんばから南海電車で和歌山を経由し、小松島港まで南海汽船に乗って行くのが定番のコースでした。大阪からだと約4時間かかるので、時間的には首都圏から大阪まで行って「道半ば」でした。
※徳島県内を自在に周遊しよう等の目的がある場合は、東京港からの長距離フェリー。バイク(原付)を載せて夕刻経つと、翌日昼頃徳島に着きます。これは今もたまに利用しています。
昼頃大阪駅に降り立って、そのまま横浜直行してもとりたてて予定があるわけでなし、数時間大阪で道草することがこの7、8年ほど前から通例になってきました。それも最近はとくに韓国・朝鮮に関係ある所。2010年の記事<大阪のコリアタウン・猪飼野と、統国寺を訪れる>は、その一例です。
今回行った所は金漢重(キム・ハンジュン)の墓です。下の写真参照。

【説明版がないので、事前に情報を仕入れておかないとわかりにくい。】
金漢重は1764年に徳川家治就任祝賀のために来日した通信使一行に小童(主君の雑用等を担当)として随行した人ですが、大阪で病に倒れ、竹林寺(現大阪市西区)で養生していましたが、結局22歳の若さで亡くなってしまいました。→コチラのブログ記事によれば、その間「故郷に残してきた二人の子供をしきりに懐かしがっているのを見かねた大坂の町人たちは顔かたちのよく似た少年を選んで看病させました」とのことです。
また、その時の通信使の一員で、遺失物を巡るトラブルで対馬藩の通詞鈴木伝蔵に殺された崔天淙の供養も竹林寺で行われ、彼の位牌もこの寺の本堂にあるそうです。
(金漢重、崔天淙の遺体は、塩漬けにされて日本の船で釜山まで送られた。)
彼ら2人については、詳しく書かれているサイトもあるし、今回の記事の本旨ではないので、説明はここまでにとどめておきます。
この墓のある竹林寺の最寄駅は、地下鉄だと九条、または西長堀駅。私ヌルボは西長堀から歩きました。木津川の橋を渡ってすぐです。
この寺には、1945年3月13~14日第1回大阪大空襲で黒焦げになったという「焼け地蔵」でも知られています。

【竹林寺の山門と、「焼け地蔵」。】
その竹林寺の前が松島公園ですが、野球場から大通りを越えた側にあるのが下の碑です。「九条島と朝鮮通信使」についての説明が記されています。

【松島公園の入口すぐの所にある「九条島と朝鮮通信使」碑。(野球場の側ではないので注意。)】

【説明文を入力する手間がちょっと面倒なので、そのまま写真を乗せます。読みづらくてすみません。】
ところで、この金漢重の名を知っている人はどれくらいいるのでしょうか? 崔天淙の事件の顛末については、検索すればいろいろヒットしますが、私ヌルボも金漢重同様彼の名前も知りませんでした。
実は、この竹林寺に行くことを思い立ったのは大阪に到着した直後。昼食を食べながら読んだ「パギやんの大阪案内 ぐるっと一周 [環状線]の旅」(高文研.1890円)に出ていたからです。
<浪花の歌う巨人・パギやん>こと趙博さんが書き昨年9月に発行された本です。

【昨年11月の新聞書評欄で知り、即購入して正解でした。】
題名通り大阪環状線の19の駅について、多様な見所を、パギやん自身の思い出、エピソード、いろんなウンチク、歴史等々を交えて紹介しています。
また、随所にパギやんのメッセージが盛り込まれています。
「ピースおおさか」を応援してください!(森ノ宮駅)とか「リバティおおさか(大阪人権博物館)」に行ってみてみ(今宮駅)とか・・・。
「龍王宮」跡地と大阪拘置所(桜ノ宮駅)では、2010年大阪市が「不法占拠」を理由に龍王宮を撤去した「暴挙」や、拘置所近くの差し入れ屋のこと、そして代用監獄制度の問題についても書いています。
韓国・朝鮮、在日にかかわる記述もあります。
たとえば、コリアタウンへ続く「比売許曽(ひめこそ)神社」(鶴橋駅)では、「古事記」の記事も紹介して「比売許曽神社の神さまは朝鮮半島から来たことがわかります」と記しています。
そして、上述の金漢重の墓等のことは西九条駅の所に写真入りで記されています。
文章スタイルもパギやんらしい表現がいっぱいで、たとえば「釜ヶ崎暴動」については次のとおり。
1986(昭和61)年に起きた大暴動の際に、西成署の屋上から実況中継する某放送局のアナウンサーが「みなさん、ここは本当に日本でしょうか」とホザキよったんですけど、テレビに向かってみんなで「ニッポン国・釜ヶ崎ぢゃ、ぼけ!」て、言うたりました。
一般の観光ガイドには載っていないような所がたくさん紹介されているこのガイドブック(?)には、大阪を愛し、庶民の側に立ち、平和を希求し、人権を尊重するパギやんの熱い気持ちにあふれています。
朝徳島駅前から高速バスに乗ると、昼頃大阪駅に着きます。1998年明石海峡大橋が開通するまで、私ヌルボは大阪なんばから南海電車で和歌山を経由し、小松島港まで南海汽船に乗って行くのが定番のコースでした。大阪からだと約4時間かかるので、時間的には首都圏から大阪まで行って「道半ば」でした。
※徳島県内を自在に周遊しよう等の目的がある場合は、東京港からの長距離フェリー。バイク(原付)を載せて夕刻経つと、翌日昼頃徳島に着きます。これは今もたまに利用しています。
昼頃大阪駅に降り立って、そのまま横浜直行してもとりたてて予定があるわけでなし、数時間大阪で道草することがこの7、8年ほど前から通例になってきました。それも最近はとくに韓国・朝鮮に関係ある所。2010年の記事<大阪のコリアタウン・猪飼野と、統国寺を訪れる>は、その一例です。
今回行った所は金漢重(キム・ハンジュン)の墓です。下の写真参照。

【説明版がないので、事前に情報を仕入れておかないとわかりにくい。】
金漢重は1764年に徳川家治就任祝賀のために来日した通信使一行に小童(主君の雑用等を担当)として随行した人ですが、大阪で病に倒れ、竹林寺(現大阪市西区)で養生していましたが、結局22歳の若さで亡くなってしまいました。→コチラのブログ記事によれば、その間「故郷に残してきた二人の子供をしきりに懐かしがっているのを見かねた大坂の町人たちは顔かたちのよく似た少年を選んで看病させました」とのことです。
また、その時の通信使の一員で、遺失物を巡るトラブルで対馬藩の通詞鈴木伝蔵に殺された崔天淙の供養も竹林寺で行われ、彼の位牌もこの寺の本堂にあるそうです。
(金漢重、崔天淙の遺体は、塩漬けにされて日本の船で釜山まで送られた。)
彼ら2人については、詳しく書かれているサイトもあるし、今回の記事の本旨ではないので、説明はここまでにとどめておきます。
この墓のある竹林寺の最寄駅は、地下鉄だと九条、または西長堀駅。私ヌルボは西長堀から歩きました。木津川の橋を渡ってすぐです。
この寺には、1945年3月13~14日第1回大阪大空襲で黒焦げになったという「焼け地蔵」でも知られています。


【竹林寺の山門と、「焼け地蔵」。】
その竹林寺の前が松島公園ですが、野球場から大通りを越えた側にあるのが下の碑です。「九条島と朝鮮通信使」についての説明が記されています。


【松島公園の入口すぐの所にある「九条島と朝鮮通信使」碑。(野球場の側ではないので注意。)】


【説明文を入力する手間がちょっと面倒なので、そのまま写真を乗せます。読みづらくてすみません。】
ところで、この金漢重の名を知っている人はどれくらいいるのでしょうか? 崔天淙の事件の顛末については、検索すればいろいろヒットしますが、私ヌルボも金漢重同様彼の名前も知りませんでした。
実は、この竹林寺に行くことを思い立ったのは大阪に到着した直後。昼食を食べながら読んだ「パギやんの大阪案内 ぐるっと一周 [環状線]の旅」(高文研.1890円)に出ていたからです。
<浪花の歌う巨人・パギやん>こと趙博さんが書き昨年9月に発行された本です。

【昨年11月の新聞書評欄で知り、即購入して正解でした。】
題名通り大阪環状線の19の駅について、多様な見所を、パギやん自身の思い出、エピソード、いろんなウンチク、歴史等々を交えて紹介しています。
また、随所にパギやんのメッセージが盛り込まれています。
「ピースおおさか」を応援してください!(森ノ宮駅)とか「リバティおおさか(大阪人権博物館)」に行ってみてみ(今宮駅)とか・・・。
「龍王宮」跡地と大阪拘置所(桜ノ宮駅)では、2010年大阪市が「不法占拠」を理由に龍王宮を撤去した「暴挙」や、拘置所近くの差し入れ屋のこと、そして代用監獄制度の問題についても書いています。
韓国・朝鮮、在日にかかわる記述もあります。
たとえば、コリアタウンへ続く「比売許曽(ひめこそ)神社」(鶴橋駅)では、「古事記」の記事も紹介して「比売許曽神社の神さまは朝鮮半島から来たことがわかります」と記しています。
そして、上述の金漢重の墓等のことは西九条駅の所に写真入りで記されています。
文章スタイルもパギやんらしい表現がいっぱいで、たとえば「釜ヶ崎暴動」については次のとおり。
1986(昭和61)年に起きた大暴動の際に、西成署の屋上から実況中継する某放送局のアナウンサーが「みなさん、ここは本当に日本でしょうか」とホザキよったんですけど、テレビに向かってみんなで「ニッポン国・釜ヶ崎ぢゃ、ぼけ!」て、言うたりました。
一般の観光ガイドには載っていないような所がたくさん紹介されているこのガイドブック(?)には、大阪を愛し、庶民の側に立ち、平和を希求し、人権を尊重するパギやんの熱い気持ちにあふれています。