今夜もふたりで散歩に出たが、たいして歩かなかった(6日夜)
☆癌を呪うよりも…
シェラの毎日の体調のバロメーターとして、シェラの「食べたい」という意欲、すなわち食欲がどれほどか、そして、毎回、どれだけ食べることができたかに注視してきた。朝、食べようとしないといっては肩を落とし、夜、たとえ用意した半分でも食べてくれたと聞いて笑顔でうなずきあう。食べることができる量は元気だったころの半分ほどだが、それでも食べてくれるだけで救われる。
「食道や気道を圧迫しているはずなので、ものが食べられなくなったり、呼吸が困難になることも覚悟しておいてください」
癌の進行にともなうそんな怖ろしい可能性をお医者さんから聞かされている。そんな事態になってシェラがもがき苦しむようになってしまったら、そのときはぼくも安楽死をお願いせざるをえないだろう。なんとしても避けたい選択肢である。
幸いにして食欲はまだ健在である。呼吸も苦しそうではないから気道も確保されているらしい。だが、足腰の衰えが日々進行しているのは否めない。外でよりも家の中で移動するときのシェラの姿に衰弱を痛感する。
いずれ立てなくなり、寝たきりになるのも、もはや覚悟の上である。それでもまだシェラの目に「生きていたい」という意思が宿っているかぎり、どんなに手がかかろうが、安楽死を選択するつもりはない。とことん面倒をみる決意でいる。シェラが苦しまないかぎり、決して見捨てない。
今朝、足腰の衰えがひどいので喉の癌にそっと触れてみた。この一週間で少し大きくなった気がする。こいつがシェラの命を削っているのかと思うと憎んでも憎みきれないが、ぼくは癌のかたまりを手のひらに包み、「頼むから、頼むから、シェラを苦しませないでくれ」と哀願していた。憎むより、呪うより、いまはひれ伏し、懇願するしかないのである。
朝の調子はいつもよくないが、今朝はいっそう悪かった(6日朝)
☆もう座ることさえも苦痛なんだね
シェラがちゃんと座れなくなったのに気づいたのは数週間前、クルマに乗せたときだった。立っているか、いわゆる「伏せ」の腹這いになるしかない。これまでだとクルマのリアシートでのシェラはいつも座っていた。「寝なさい」といっても、座って外の景色を見ている。よほど疲れていないかぎり、いつも座っていた。いまは座るという姿勢そのものが苦痛らしく、座るの姿勢を避け、たとえ座ってもすぐに腹ばいになってしまうのはクルマの中のみならず、家でも同じだった。
食欲の次にシェラの体調を推測する手段が散歩へ出かようとする意欲であり、歩く姿だった。何度も書いてきたが、ぼくたちのマンションでは構内を犬が自分で歩くのを禁じている。抱くかキャリーに乗せて移動しなくてはならないので、わが家はシェラのために台車にボルト止めしたクレートを使っている。
台車に固定したレートの床の高さはほぼ20センチ、そこへシェラが自力で乗れるうちは安心できると勝手に決め、散歩の度に固唾を呑んで見守ってきた。だが、その保証がそろそろ危うくなりつつある。この2、3日、クレートになかなか乗ってくれないし、降りるのも辛そうになったからだ。それほど足腰が衰えてきたわけである。
このあと、自宅に戻ってから癌が大きくなっているのを知る(6日朝)
☆今夜も一緒に過ごせる幸せ
シェラの体調がいい日は、「もしかすると……」と、あり得ない奇蹟を信じそうになるが、喉に巣くった癌の存在、そして、腎臓はすでに腎不全に陥って三分の二が機能していないし、二度と再生もしない。また、それらによって加速している老衰はいかんともしがたく、ぼくたちはただただ見守るしかないのである。
明日は今年はじめて病院へいく。希望よりも、不安しかない。いや、絶望といったほうがいいだろう。
昨日は一週間ぶりに会社へ出て、ずっと不安のまま過ごした。夕方、帰ってみると、シェラが喜びをたたえたキラキラした目で迎えてくれた。思わずスーツが毛まみれになるのもいとわず抱きしめてしまったが、そんな「ささやかな意外性」さえもいまは至福の瞬間である。そして、今夜もまた同じ目で出迎えてくれた。
新しい年を迎えることができるかどうかと悲観していた年末を思えば、いま、こうして一緒に生きていることが「おおいなる意外性」であり、この運命に感謝しなくてはならない。
シェラ、きみの老いの姿はぼくの明日の姿。最後の最後まできみはぼくに老いていく現実を教えてくれる。ぼくも命あるかぎり、きみのように最後の瞬間までくじけずに生き、従容として死につこうと思う――シェラを抱きしめ、ぼくは自分の心の中から、この想い、シェラの心に届けと語りかけている。