Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

色絵 招き猫

2021年05月05日 18時13分32秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 招き猫」の紹介です。

 これは、平成8年に(今から25年前に)、東京・平和島の「全国古民具骨董まつり」会場から連れ帰ったものです。

 

 

前面

 

 

背面

 

 

右側面

 

左側面

 

底面

 

 

生 産   地: 不明

製作年代: 明治時代

サ イ ズ : 高さ;3.7cm

 

 

 なお、この招き猫につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、平成14年1月20日付で既に紹介しているところですが、その時は、この招き猫の生産地を有田と、製作年代を江戸時代後期として紹介しています。

 今回、改めて紹介するに当たり、ネットで、「招き猫の由来」について調べてみましたところ、招き猫の由来はそれほど古いものではないことが分かりました(~_~;)

 従いまして、この招き猫の製作年代は明治時代辺りではないかと思うようになったところです。また、明治になりますと、あちこちで磁器は作られるようになりましたので、生産地が何処なのかよく分からなくなってしまいました(~_~;)

 次に、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で紹介しましたこの招き猫についての紹介文を再度掲載してこの招き猫の紹介に代えさせていただきますが、前述しましたように、そこでは、この招き猫の生産地を有田との前提で、また、製作年代は江戸時代後期との前提で書いていますことにご留意いただいてお読みいただければ幸いです。

 

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー22 古伊万里様式色絵招き猫    (平成14年1月20日登載)

 

 

 これ猫? 犬? ほんと、画像からもよく判らないと思う。でも、手近で見ると、紛れもなく招き猫なのである。顔の感じなど犬そのものだけれども、大丈夫、猫なのである。

 私は、犬も猫も好きだけれど、どちらかというと犬のほうが好きといえる。それで、犬の置物みたいなのをと狙っているのだが、いまだに入手できないでいる。猫は、招き猫という通俗的なほどのキャラクターがあるので、招き猫の形で入手が容易であるが、犬はそうはいかない。数が少ないのである。もっとも、江戸時代には、犬公方さまという方がおられて、犬も、その方のお陰で、「お犬様」といわれた一時期があったのであるから、犬の置物など多数残っていてもよさそうなものだが、そうでもないようだ。やはり、それは一時期にすぎなかったのであろう。それに反して、御利益を求める招き猫のキャラクターのほうは、長期間にわたって愛されてきているので、数の点では勝負にならないようだ。

 この招き猫、それほど古くもなさそうだし、「古伊万里随想 10」で記したように、金運の御利益を期待したり、義理買いしたようなものでもあるので、あまり魅力を感じていないというのが正直なところである。しかし、その後、けっこう古伊万里を我が家に招き入れているので、その点では御利益をもたらしてくれているのかもしれない。その反面、その分だけお金は出て行くのだから、金運を招かないことだけは確かなようである。

江戸時代後期    高さ:3.7cm

 

 

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*古伊万里随想10 金運を招く(?)古伊万里 (平成14年1月20日登載)  (H10.2月筆)

 

 

 最近の骨董市でのこと。

私 「そこの小さな犬の置物見せてくれない。」
店主 「犬の置物? そんなのないよ。」
私 「そこにあるじゃないの。それ、それ。」
店主 「あゝ、これ。これは犬じゃないよ。招き猫だよ。」
私 「えっ? 犬じゃないの。」
店主 「そう。招き猫だけど。」
私 「犬じゃないんだ。まあ、いいや。それ見せてよ。」

 手にとってよく見ると、小さな、手招きした左手の甲が、耳の下あたりに申し訳程度についている。注意して見ないと、手招きしている手があるかどうかわからないほどだ。高さ3.7cmしかない小さな置物なんだから、2~3メートルも離れた所から見れば、犬とまちがえてもしかたないだろう。近くでよく見れば、体は、白黒のブチ色で、赤、緑、青のカラフルな涎掛けを付けているのがわかる。しかし、遠くから見れば、よく図録などで見かける古伊万里色絵犬置物の縮小版といった感じだったのである。

私 「やっぱり犬じゃないんだ。残念だな。これが犬だったら欲しいんだけどな。」
店主 「お客さんは、よくそんなことをいうんだよ。猫の置物の時は、これが犬だったら買ったのにとか、犬の置物の時は、これが猫だったら買ったのにとかね。でも、これは古い手で、良い物だから、買っておいても損はないと思うよ。」
私 「でもなあ・・・・・。招き猫ではなあ・・・・・。あまりにも通俗的だしなあ。」と独白。

 世は、大手金融機関が相次いで破綻し、景況感も悪く、不景気風が吹き荒れ、暗たんたる世相である。

私 「こんな時代だ。せめて、我が家へなりとも招き猫を招き入れ、我が家に金運を招き、明るい気持にでもするか。」と独白。
私 「悪い悪い。ひやかすつもりで言ったんじゃないんだよ。本当に犬と思ったんだよね。遠くから見ると犬に見えるもの。この際、猫でもいいよ。いくらするの。」と、安ければ、義理買いすることを決意。
店主 「○○円だよ。」

 その値段たるや、立派なものであった(ビックリ)。ちょとした古伊万里の皿や現代物の大きな招き猫など、十分に買える値段だったのである。おもちゃみたいな、小さな招き猫にしては、破格の値段である。

 しかし、仏教思想からすれば、5倍や10倍の大小の差など全く問題にならないであろう。「小即是大 大即是小」の世界なのだから。豆粒ほどの小さな仏像の持つパワーの方が、奈良や鎌倉の大仏のパワーよりはるかに大きい場合だって多々あるだろう。ここは、そもそも、御利益を求めようとの魂胆から生じたことなのだから、仏教思想で価値の大小を判断せざるをえまい。おもちゃみたいな小さな招き猫だけれども、その発揮するパワーは、大仏ほどのおおきさの招き猫が発揮するそれよりも大きいかもしれないと信じることである。そう信じることとし、また、ややひやかしかげんで店主に接した責任も感じ、くだんの小さな招き猫の古伊万里を我が家へと招き入れることにした。

 ところがこの招き猫、どうも、我が家の期待に応えてくれそうもないのである。招き猫を招き入れて以来、電気洗濯機が故障して買い換えるハメになったり、車が故障して買い換えざるをえなくなるなど、金運を招くどころか、逆に、浪費ばかりを招くのである。どうやら貧乏神を招き入れてしまったらしい。

 そうこうしているうちに、新聞折込チラシが舞い込んだ。そこには、「話題騒然!! 両手上げ招き猫!!」、「特に右手が耳より上にあると招福パワーが最大に発揮される!!」などと書かれている。今や、招き猫は、両手を上げていなければ金運は招かないらしい。我が家の招き猫は、片手しか上げていない。しかも、上げている手は左手であり、その左手も耳の下までしか上がっていないではないか。これでは金運など招かないはずだ。

 しかし、ここで、庶民の信仰の対象となるものには一種の流行があることに思いをいたすべきである。例えば、観音についていえば、まず、オーソドックスな聖観音が人気を博してスターの座につき、その後、東西南北、東北、東南、西北、西南、上下の十方のすべての方向にいる人々を救ってくれる十一面観音が登場して聖観音にとってかわった。続いて、この十一面観音のスターの地位は、次には、あらゆる困難になんでも手をうってくれる、より大きな能力を表現する千手観音にとってかわられるのである。これを思うと、そのうち、十一面招き猫や、千手招き猫が現われ、人気を博すかもしれない。

 我が家の招き猫は、オーソドックスな原形なのだ。欲張って、そんなに多くの招福を期待したからいけないのである。金運は招かないかもしれないが、これからは、類は友を呼び、多くの古伊万里を招いてくれるかもしれないではないか。それを期待し、この小さな古伊万里の招き猫をかわいがっていこうと思う。