今回は、「色絵 青海波に椿文 七寸皿」の紹介です。
これは、平成8年に(今から25年前に)手に入れたものです。
表面
表面の斜め上の疵部分の拡大
目立たなくするためか、鎹留め補修の鎹を取り外し、再度、補修をし直してあります。
側面
裏面
裏面の疵部分の拡大
目立たなくするためか、鎹留め補修の鎹を取り外し、再度、補修をし直してあります。
色鍋島は、コレクター垂涎の的です。誰もが欲しがります。
しかし、色鍋島の数は少なく、また、高額です。ましてや、盛期の色鍋島となると、数は極めて少なくなり、また、その価格も極めて高額なものとなります。
これを見つけたときの私は、まさかこれを盛期の色鍋島とは思いませんでしたが、もしかして幕末はあるのかなと悩みました(~_~;)
と言いますのは、鍋島は藩窯の作品ですから、幕末あれば、一応、藩窯作品ということになり、正式に「鍋島」の仲間入りを果たせるからです(^_^)
この皿の図柄は、よく、鍋島に関する本に登場してくる有名なものですから、それを知っていた私は、この皿を見て、熱病に冒されたようになり、悩みに悩んだわけです(><)
ところで、その、鍋島に関する本によく登場してくる有名なものというものは、次のようなものです。ちょっと古い本になりますが、その一例として、「陶磁大系21 鍋島」(今泉元佑著 平凡社 昭和47年発行)から転載いたします。
<盛期の色鍋島の例>
図20 色鍋島 青海波に椿文の五寸皿
18世紀前半 径15.0cm 岡山美術館
私は、悩みに悩んだ末、この皿を平成8年の11月に手に入れたわけですが、その僅か3ヶ月後の平成9年2月に、そのなまなましい入手経過を記録に残していました。
その入手経過記録につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中に掲載していますので、次に、まず、それを紹介いたします。
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<古伊万里への誘い>
*古伊万里随想6 色鍋島への挑戦 (H9年2月筆) (平成13年11月15日登載)
“奥の細道の自筆本発見” 世は、このマスコミ報道に沸き返った。国宝級の発見とのこと。まさに、そのとおりであろう。
とりわけ、日本中のコレクター達は色めき立った。「俺にも、私にも、もしかしたら、自分達にも国宝級の発見のチャンスが巡ってくるかも!」と。
小生も、ガラクタコレクターながらコレクターのはしくれ。こんな自分にもチャンスが巡ってくるかもしれないと思い込んだ。なんという人間のあさましさ! その結果、目を皿のようにして、皿探しに奔走しだしたのである。
その甲斐あってか(?)、とある骨董市で、一枚の皿にめぐり合った。物は、色鍋島の七寸皿である。
この皿を見た瞬間、妙に胸が騒いだ。何かを感じたのだ。店主に恐る恐る値段を聞くと、買えない値段ではない。そうなると、ガラクタコレクター魂は益々頭をもたげる。胸の鼓動は高鳴り、血液が、ドクッ、ドクッと頭に上っていくのを感じたのである。
これが江戸期の盛期の色鍋島なら国宝級の発見とまではいかないまでも、相当なものだ。しかし、そんなものが、今時、その辺に転がっているわけがない。ガラクタばかり集めている小生にだって、その程度のことはわかる。売ってる側だって、明治の鍋島だと言っているではないか。
しかし、この胸の高鳴りはどうしたことだろう。鍋島というと、骨董市では、ほとんど明治以降の物にしかお目にかかれない。たまに、江戸期の物かなと思うと、これは高嶺の花、とても小生ごときの手に届くものではなかったのである。
自問自答が続く。「この皿は、幕末ながら、江戸期のものかもしれない。大傷の補修があるから破格の値段なのだろう。でも、ここは冷静に判断するにこしたことはなさそうだ。こんなことで何度も失敗しているではないか。そうはいっても、これは相当な掘出しものかもしれない。誰かに買われる前に買うべきだ。さあ、それはどうかな。また、ガラクタが一点増えることになるだけではないのか。・・・・・・・・・・」
自問自答は果てしなく続く。決断がつかない。こんな時は、少し頭を冷やして判断するに限る。とにかく、いったん会場を出よう。そして冷静になろう!
会場を出、雨降る街を、わけもなくさまよい歩いて頭を冷やし、喫茶店のアイスコーヒーで胃袋も冷やし(関係ないか。)、十分に冷え切ったところで、再び会場に向かったのである。
例の、色鍋島の「七寸皿様」は、まだ残っているだろうか。「どうか、まだ無事に残っていますように。」との神頼みの心境。びくびくしながらも気は急ぎ、先程の売場へと、そそくさと戻っていった。安心、安心、「七寸皿様」は、無事鎮座なされていた。
今度こそ、冷静に、七寸皿を観察する。だが、胸の高鳴りは、いっこうに止んでこない。これは、もう本物だ。この胸の高鳴りは、明治の物とはちがうということを教えてくれているのだ。幕末ながら、江戸期のものにまちがいはない!
小生は、遂に、「七寸皿様」を買うことにした。小生にとって、色鍋島の大物の購入は初めてである。しかも、物は、七寸皿の超大物である。
自宅に「七寸皿様」をおつれし、さっそく勉強にとりかかった。ところが、ところがである。「初期鍋島と色鍋島ーその真実の探求ー」(今泉元佑著 河出書房新社 昭和61年発行)の45ページには、「・・・・・、また幕末時代になると、色絵磁器などは全然焼かれた形勢も見受けられないのだから、・・・・・」とあるではないか。幕末には色鍋島は作られていなかったというのである。かつて、ガリレイが地動説を唱えて宗教裁判にかけられ、地動説を捨てる誓約を求められて、それに服してもなお、「それでも、やっぱり地球は動く。」と、つぶやいたとか、つぶやかなかったとか。小生も、ガリレイと全く同じ心境である。「それでも、やっぱり幕末には色鍋島は作られていた。」と。
もんもんとした日々が1ヶ月程過ぎたであろうか。なにげなく、「伊万里の変遷」(小木一良著 創樹社美術出版 昭和63年発行)を見ていたら、96ページに幕末の色鍋島の例が載せられているのを発見した。まさに、我が意を得たりの心境である。「やっぱり、幕末には色鍋島は作られていた。」と。
(上の写真は「伊万里の変遷」P.96から転載)
「伊万里の変遷」は、「伊万里」の変遷の書物であって、「鍋島」の変遷の書物ではないと思い込み、同書を全く調べもしなかったのが、うかつであった。よく考えてみれば、「鍋島」だって「伊万里」の一分野なのだ。改めて、「伊万里」の定義を考えさせられた思いである。
ところで、我が家の「七寸皿様」は、前掲書「伊万里の変遷」96ページの例とは、ずいぶんとイメージがちがうのである。「やっぱり、我が家の「七寸皿様」は、明治のものなのだろうか?」。色鍋島への本格的な挑戦は、まだ始まったばかりである。
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また、この「色絵 青海波に椿文 七寸皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、簡単な解説もしていますので、次に、それも、参考までに掲載いたします。
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<古伊万里への誘い>
*古伊万里ギャラリー12 鍋島様式色絵椿文七寸皿 (平成13年11月15日登載)
我が家の七寸皿 盛期の色鍋島
盛期の鍋島によく見る図柄である。もっとも、鍋島は図柄がパターン化されているから、同じ様な図柄を見かけるのは当然ではあるが。ところで、盛期の鍋島では、皿の上部も青海波で埋め尽くされ、この皿のように上部が白抜きになっていない。また、盛期の鍋島では、口縁に口紅が施されていて、画面全体がギュッと引き締められている。
この皿は、盛期の鍋島と比較すると、良く言えば、お手本にとらわれないでノビノビとしていると言えなくもないが、椿の枝振りも間が抜けているし、全体に締りがない。盛期の鍋島に比して、大きく崩れていることは否めないであろう。しかし、胎土の良さ、轆轤の冴え、気品、全体の雰囲気・・・・・いかにも鍋島を彷彿とさせるのである。
したがって、この皿を購入するに当たっては、幕末なのか、明治なのかについて大いに悩んだところである。しかし、購入後5年が経過した今、もう一度見てみると、やはり明治であろうと思わざるを得ない。ただ、廃藩置県で藩窯体制が失われてまもない、まだ、藩窯に携わった人たちの影響の残っている段階の作品ではないかと思っている。
明治時代 口径:20.0cm
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以上、「古伊万里への誘い」の中で記しましたように、この「色絵 青海波に椿文 七寸皿」を買う時点では、これが幕末に作られたものなのか、はたまた明治になってから作られたものなのかにつきまして大変に悩んだわけですが、その後、少しずつ勉強を重ね、その5年後には、明治に作られたものであるとの結論に達したところです。
そして、研究の進んだ現時点では、そのことは確定したものとみてもいいように思います。それは、「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年発行)に次のように書かれているからです。
「享保元年(1716)8月、家継が8歳で病死したあとを紀州藩主より入った八代将軍吉宗にとっては、逼迫していた幕府財政の立て直しが急務であった。就任直後にできる限りの倹約を行うことを命じ、さらに享保7年(1722)3月15日に減少令を出し、法会の式を簡素化することや、贈遣、礼物も減少するようにと命じ、具体的に10分1から半分などと細かく指示した。さらに領地に産する物を献上するのも、数を減らすようにといい、酒肴の外、封地の産物でないものを献上することは止めること、また数多く献上してきた物はその品の数量を減らすように命じた。享保9年6月23日にはさらに万石以上の妻といえども華麗を禁じ、国持ち大名でも新たに調度を製するとき、漆器は軽き描金にとどめることなど細かい指示を出した。
佐賀藩の『吉茂公譜』享保11年(1726)4月に「例年御献上陶器色立ニ付、松平伊賀守殿ヨリ相渡サル御書付、例年献上之皿・猪口・鉢之類、唯今迄者色々之染付を可被差上候、且又青地者只今迄之通可被差上候(後略)」とあり、例年献上の陶器について老中松平伊賀守忠周より指示があり、種類の多い色絵具で飾ったものは制限するが、青磁はこれまで通りとし、以後の献上品に注文が付いたのも、この華麗を禁じた一環と考えられ、盛期鍋島の終わりの時期と推測できる。以後の幕末までの伝世品の内容をみても、三色使ったいわゆる色鍋島が消える。時折みられる色絵は赤一色を付けたり、緑一色であったり、希に二色程度もあるが、極端に華やかな色鍋島は消えたのである。当然、将軍家から必要なしとされ、華美なものとして禁じられれば、作れなくなる。よって色絵を作った赤絵職人も大川内鍋島藩窯からはいなくなったと想像される。以後は必要に応じて有田の御用赤絵屋が注文を受けて色絵を付けたのであろう。
このように鍋島は将軍綱吉時代に盛期を迎え、吉宗の倹約令によって盛期は終わる。以後は三色使ういわゆる色鍋島は作られず、主に染付が、次いで青磁が作られ、赤だけや二色程度の色鍋島は少量作られたにすぎない。しかも確実な将軍家例年献上品の中に色絵の例はみられない。 (P.156~160)」
生 産 地 : 肥前・有田(鍋島藩窯系)
製作年代: 明治時代初期
サ イ ズ : 口径;20.0cm 高さ;5.8cm 底径;9.8cm