Dr.K の日記

日々の出来事を中心に、時々、好きな古伊万里について語ります。

染付 蝶文 輪花大深皿

2021年05月25日 13時57分39秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 蝶文 輪花大深皿」の紹介です。

 これは、平成8年に、横浜の骨董市会場から、私の住んでいる田舎の住まいに連れ帰ったものです。

 さしずめ、「蝶々が 描かれた 大皿は 爺さんに連れられて行っちゃった」「横浜の 市場から 電車に乗って 爺さんに連れられて行っちゃった」というところでしょうか、、(笑)。

 

 

見込み面

周辺には、蝶が2頭(左右に)、花(?)が2輪(上下に)陽刻されています。

 

 

見込み文様の拡大

蝶が2頭、向き合っています。

 

 

見込み面の周辺の左側に施された横から見た蝶の陽刻の拡大

 

 

見込み面の周辺の上下に施された花(?)の陽刻の拡大

 

 

見込み面の周辺の右側に施された上から見た蝶の陽刻の拡大

 

 

側面

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代中期~後期(1750~1780年代)

サ イ ズ : 口径;24.0cm  高さ;6.1cm  底径;13.0cm

 

 

 ところで、この「染付 蝶文 輪花大深皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介していますので、次に、その紹介文を再度掲載し、この「染付 蝶文 輪花大深皿」の紹介といたします。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー145  古伊万里様式染付蝶文深皿     (平成22年3月1日登載)

           

 

 かなり特徴のあるお皿である。

 この手のお皿は、普通、輪花形とし、口縁には口紅を施し、見込み部分や周辺部分には陽刻を施し、そして、点、点、点、、、、、の染付文様を一周させ、点、点、点、、、、、で囲まれた中に漢詩文や草花文或いは山水文などを施す例が多いようである。

 その中でも、点、点、点、、、、、の染付文様は口縁部に描かれ、点、点、点、、、、、で囲まれた中には漢詩文が描かれるケースが多いが、この深皿の場合には、点、点、点、、、、、が底の方に描かれ、点、点、点、、、、、で囲まれた中には蝶が向き合って描かれており、ちょっと珍しいかもしれない。

 また、側面には、蝶(上から見た蝶と横から見た蝶)と花らしきものが陽刻され、見込みの向き合った蝶の文様と共に全体として春をイメージさせていることも珍しいかもしれない。何故なら、伊万里の場合、季節感などおかまいなしで、例えば、冬の文様と夏の文様を抱き合わせるというようなことが多いからである。

 このような、大変に特徴のあるお皿は、宝暦~天明あたりに流行したようで、当時、相当に人気があったのであろう。

 

江戸時代中期~後期    口径:24.0cm   高台径:13.0cm

 

 

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*古伊万里バカ日誌77  古伊万里との対話(蝶文の深皿) (平成22年3月1日登載)(平成22年2月筆)

登場人物
  主   人 (田舎の平凡なサラリーマン)
  蝶 々 夫 人 (古伊万里様式染付蝶文深皿)

 

・・・・・プロローグ・・・・・

 ずいぶんと日射しも強まり、天気の良い時などに縁側に座っているとポカポカと暖かく、温室の中にいるようである。
 主人は、春を感じさせる古伊万里と対話をしたくなったようで、押入からそれらしい物を引っ張り出してきては縁側に持参し、暖かい日射しのもと、さっそく対話を始めた。

 


 

主人: だいぶ暖かくなってきた! 春めいてきた! そして、春といえば、蝶を描いたお前を思い出したので出てもらった。

蝶々夫人: 思い出していただいてありがとうございます。私は平成8年の12月にここにまいりましたし、それ以来ですから、お久しぶりですね。

主人: そうだね。早いもんだね。もう13年も経っているんだね。
 お前のことは、横浜の骨董市で見つけたんだ。時代も若いと思ったし、そんなに気に入ったわけでもなかったんだが、染付で蝶の文様が描かれていたり、蝶の陽刻があったりで、なんとなく「蝶々夫人」をイメージしたので、買うことにしたんだ。
 もっとも、「蝶々夫人」という原作の短編小説を読んだこともないし、その原作をもとに作られた戯曲を見たわけでもなく、ましてやそれらを題材にして作られたプッチーニのオペラを見たわけでもないので、詳しい内容はわからないが、私の頭の中では、「蝶々夫人」という文字づらだけから、「蝶」→「蝶々夫人」というように連想するようになってしまっているからなんだよね。「蝶々夫人」=「マダム・バタフライ」というのは、文字づらだけからでも、なんとなくロマンを感じさせるものね。
 それに、「蝶々夫人」は、長崎を舞台にした、没落藩士の娘とアメリカ海軍士官との悲劇の物語という程度のことは知っていたので、お前が売られていた場所が「横浜」だったということもあり、「横浜」→「港」→「長崎」→「古伊万里の輸出港」ということも連想し、より一層ロマンを感じたからかな。

蝶々夫人: そうでしたか。そのような思いから私を買われるに至ったんですか。
 ところで、今、「時代も若いと思ったし」と言われましたが、私は何時頃作られたんですか?

主人: そうね、当時は、「幕末かな?」と思ったね。当時はね、盛期を過ぎた伊万里は、十把一絡げですべて「幕末」と言っていたからね。私も、「幕末」よりは古いんじゃないかな~とは思ったけど、あまり自信がなかった。
 今では、図録なんかでは、宝暦(1751~63)~天明(1781~88)あたりに位置付けられているようだね。「幕末」よりはよほど古く位置付けされるようになった。江戸時代の中期の終り頃から後期の初めというところになるのかな。

蝶々夫人: 私には、そのように位置付けられるような特徴みたいなものがあるのでしょうか。

主人: どのような根拠で宝暦~天明と位置付けるのかはわからないが、妥当なところだろうね。お前は、感覚的に、盛期は過ぎているが幕末ほどには新しくないと感じさせるものね。
 そもそも、伊万里も、18世紀になると、特に染付では特徴がなくなるね。盛期の染付の引き写しで、しかも粗製乱造といった感じになり、18世紀の前半から後半まで、ずっと同じ様な物が作られているから、それが18世紀の前半に属するのか18世紀の後半に属するのかの判断が難しい。そういった中では、お前にはかなりの特徴があるといえるね。しかも、図録なんかを見ていると、「宝暦~天明」の前には出てこないし、「宝暦~天明」の後にも登場してこない。どういうわけなのかね。
 宝暦は1751~63だし、天明は1781~88だから、18世紀の後半というところだ。停滞ぎみの18世紀伊万里染付界にあっては異色の存在でもあるね。お前は、18世紀後半を代表する伊万里染付と言えるかもしれないね(「豚もおだてりゃ木に登るか!」と独白)。

蝶々夫人: それはそれはありがとうございます。
 あの~、先程、ご主人は、私を見て、「横浜」→「港」→「長崎」→「古伊万里の輸出港」と連想したと言われましたが、私は、輸出用に作られたのでしょうか。

主人: それは、お前が古伊万里だから、単純に、「横浜」→「港」→「長崎」→「古伊万里の輸出港」と連想しただけであって、お前が現実に長崎から輸出されたものとは思っていないよ。
 「古伊万里輸出年表」(「古伊万里の道」(佐賀県立九州陶磁文化会館監修 2000年刊)236~241ページ)によれば、オランダ東インド会社の古伊万里の公式貿易の記録が、正徳2年(1712)には取り扱い量なしとなっている。その後も私貿易では輸出が続いていたようだが、それも、遂に、宝暦7年(1757)に300個の磁器が輸出されたのみで、その後の輸出はない。そうした状況下では、宝暦になって新しく作り出されたお前の様な新様式の物は、輸出のために作り出されたとは思えないものね。
 一方、18世紀の国内では、庶民文化が台頭し、活気に満ちてくる。伊万里の陶工たちは、外需の落ち込みを、こうした国内の新たな需要層の求めに応じていったのではないかと考えるんだよね。お前のような新製品は、こうした新たに台頭してきた庶民層の旺盛な需要に応えるためのヒット商品だったのではないだろうかと思うわけさ。

蝶々夫人: なるほど、そうですか。なかなか説得力のある推論ですね(「豚もおだてりゃ木に登ると言いますものね!」と独白。 「アラッ、私としたことが、こんなはしたないことを独白して!」と赤面)。

 

 

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 なお、「柴田コレクション総目録」(佐賀県立九州陶磁文化館 平成15年発行)には、この手の皿が何点か掲載されているところです。

 参考までに、その内の1点を次に転載して紹介いたします。

 

柴田コレクション総目録から転載


白磁 招き猫 小置物

2021年05月24日 13時45分21秒 | 古伊万里

 今回は、「白磁 招き猫 小置物」の紹介です。

 これは、平成8年に(今から25年前に)入手したものです。

 「招き猫」につきましては、先日の2021年5月3日にも「色絵 招き猫」を紹介したところです。

 その「色絵 招き猫」も平成8年に入手したわけですが、それは平成8年の3月のことでした。この「白磁 招き猫 小置物」のほうは、それから9ヶ月後の平成8年の12月のことです。

 「色絵 招き猫」は、最初見たとき、犬なのかなと思ったわけですが、よく見たら猫だったというものでした(~_~;)

 今回紹介します「白磁 招き猫 小置物」も、やはり、最初見たときは犬なのかなと思ったわけですが、これまた、どうも、「招き猫」のようです(~_~;) 犬の置物というのも、なかなか手に入らないようですね(><)

 そのような経緯でこの「白磁 招き猫 小置物」を買ったものですから、生産地は有田であろう、製作年代も江戸時代はバッチリあるだろうと思って買っていますので、かなり高上がりにつきました(><)

 「色絵 招き猫」のところでも書きましたが、これも「招き猫」のようですので、「招き猫」の由来はそれほど古くないようですから、製作年代は明治時代とするのが妥当のようですね。また、明治時代になりますと、磁器は各地で焼かれるようになりますので、生産地も有田に限りませんから、生産地不明ということになりそうです(~_~;)

 

 

前面

 

 

左側面

右手を挙げて手招きしているようです。

 

 

右側面

 

 

背面

右手を挙げて手招きしているようです。

 

 

底面

 

 

生 産 地 : 不明

製作年代: 明治時代

サ イ ズ : 横;5.8cm  高さ;4.9cm  底径;4.3×2.3cm


染付 鷺・流水文 変形小皿(一対)

2021年05月23日 15時29分00秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 鷺・流水文 変形小皿(一対)」の紹介です。

 これは、平成8年に手に入れたものです。

 

 

表面(一対)

 

 

側面(一対)

 

 

裏面(一対)

 

 

表面(代表の一枚)

 

 

側面(代表の一枚)

 

 

裏面(代表の一枚)

 

 

生 産 地 : 肥前・有田

製作年代: 江戸時代前期(1650~1670年代)

サ イ  ズ: 口径;16.1×12.5cm  高さ;3.2cm  底径;9.7×6.2cm

 

 

 入手時点では、これが図録等に載っていることなどを知りませんでしたが、後になって、柴田コレクションⅠ(佐賀県立九州陶磁文化館 平成2年発行)の図105に同じようなものが掲載されていることを知りました。

 もっとも、この柴田コレクションⅠは平成2年に発行されているわけですから、私がこの変形小皿を手に入れた平成8年の時点では既に存在していたわけですが、私は、まだこの柴田コレクションⅠの存在を知らなかったのかもしれません。或いは、その存在を知ってはいましても、まだ、それを入手していなかったのかもしれません(~_~;)

 なお、この柴田コレクションⅠの図105に掲載されている変形小皿は、柴田コレクション総目録(佐賀県立九州陶磁文化館 平成15年発行)の図0598にも登載されていますので、次に、それを転載いたします。 

 

柴田コレクション総目録から転載

 

 また、この「柴田コレクションⅠの図105」及び「柴田コレクション総目録の図0598」に登載されている変形小皿は、「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店 平成12年初版発行)でも紹介されています。

 私は、この「世界をときめかした 伊万里焼」を読んでいて、初めて、この変形小皿が図録に載っていることを知ったわけで、大変な喜びを感じました(^-^*) 手に入れてから4年後のことでした(^_^)

 「世界をときめかした 伊万里焼」の138ページでは、この手の変形皿を次のように紹介していますので、次に、それを転載いたします。

 

 ここに変形皿の妙品を紹介したい。日本人が好む不定型の面白さを形にも流水意匠にも応用し、日本人が好んだ白鷺の図が白抜きで表される。和様の典型作である。

「世界をときめかした 伊万里焼」138ページから転載

 

 

 

 なお、この変形小皿につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中でも既に紹介しているところですが、次に、その紹介文も、参考までに紹介いたします。

 

 

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         <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー27  古伊万里様式染付鷺・流水文変形小皿 (平成14年3月1日登載)

 

 

 なんと日本的な情景だろうか。なんと大胆な発想だろうか。なんとインパクトのある皿だろうか。どうしたら、このような発想が生まれるのだろう。一度見たら決して忘れさせないほどの強い印象を、見る者に与える皿である。

 流水は、時に渦を巻き、時に波を打ち、思いのままに流れ、生々流転の世界へと誘う。

 その中にあって鷺たちは、思い思いの姿態でくつろぎ、お互いに何かを話し合っているかのようだ。

 動と静、悠久の一瞬を切り取ったかのような図であろう。

 鷺たちには、表情さえみられる。なんと達者な表現力であろう。真ん中の鷺など、笑っているように見えるのは、私の気のせいだろうか。

 高台は、糸切細工の付け高台で高く、松ヶ谷手といわれたものを思わせ、品格高く、格調高い。

 買った時は、図録に載っていることなど知らなかったが、後に、「柴田コレクションⅠ」(佐賀県立九州陶磁文化館発行)に載っていることを知り、更に、「世界をときめかした 伊万里焼」(矢部良明著 角川書店)にも載っていることを知る。どんどん有名になってくる、嬉しい小皿である。

 

江戸時代前期    長径:16.1cm   短径:12.5cm

 

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染付 菊文 台付変形小皿(一対)

2021年05月22日 12時54分31秒 | 古伊万里

 今回は、「染付 菊文 台付変形小皿(一対)」の紹介です。

 

       小皿(A)を斜め上から見た面      小皿(B)を斜め上から見た面

 

 

          小皿(A)の裏面           小皿(B)の裏面

 

 

小皿(A)の表面

 

 

小皿(A)の側面

 

 

小皿(A)の裏面

 

 

小皿(B)の表面

 

 

小皿(B)の側面

 

 

小皿(B)の裏面

 

 

生 産 地 : 肥前・有田 中国

製作年代: 江戸時代前期 清朝・光緒年代頃

サ イ ズ : 小皿(A)・・・長径:15.0cm  台長径:9.0cm  高さ:2.4cm
        小皿(B)・・・長径:14.9cm  台長径:8.8cm  高さ:2.5cm

 

 

 

 これにつきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で既に紹介済みですので、その紹介文を再度次に転載することで、この小皿の紹介に代えさせていただきます。

 

 

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        <古伊万里への誘い>

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*古伊万里ギャラリー142  初期伊万里様式染付菊文台付変形小皿  (平成21年12月1日登載)

 

                小皿(A)     小皿(B)

 

 初期の荒々しさはないが、その素朴な面影を残す、味わい深い小皿である。どことなく、清潔な気高ささえたたえている。

 小皿(A)の方は平成8年12月に、小皿(B)の方は平成9年1月に購入したが、それ以来、ず~っと、「この小皿は本物の古伊万里なのだろうか?」との思いが付きまとっていた。

 というのは、この小皿の高台が、下に向かって広がっているからである。伊万里の皿の場合、普通、高台は下に行くに従って狭くなっているが、この小皿は、下に行くに従って広くなっているからである。

 でも、最近、この小皿は、普通の皿ではなく、「台付」の皿なのではないかと思うようになった。発想の転換である\(^o^)/

 皿の「高台」と見るのではなく、台付皿の「台」と見れば、皿の下の部分が下に行くに従って広がっているのは当然だからである。

 積年の疑問が晴れたような気になり、この小皿達を広く公開する気持ちになったものである(*^_^*)

 

江戸時代前期  小皿(A)・・・長径:15.0cm  台長径:9.0cm  高さ:2.4cm
        小皿(B)・・・長径:14.9cm  台長径:8.8cm  高さ:2.5cm

 

 

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*古伊万里随想41 伊万里台付皿愚考 (平成21年11月筆) (平成21年12月1日登載) 

 

                小皿(A)      小皿(B)

 

 私がこの小皿(A)を買ったのが平成8年の12月で、小皿(B)を買ったのが平成9年の1月のことである。どちらも、田舎の骨董市に並べられていたものであり、売っていた業者さんも同一であった。

 見てのとおり、小皿(A)の方が小皿(B)よりも染付の色合いも地味で、時代もありそうに見える。それで、業者さんは、まず、小皿(A)の方を陳列し、果たして売れるかどうか、客の反応を見ていたが、首尾よく売れたので、翌月、今度は、小皿(B)を持参してきて売りに出したわけである。 

 業者さんが、まず小皿(A)だけを陳列して客の反応を見たのには理由(わけ)があったと思う。というのは、まず、器形である。このような器形の皿は珍しいし、なによりも高台がバチ形に外に開いているのは致命的欠陥と思ったからであろう。普通、伊万里の皿の高台は内側に傾斜しているから・・・・・。

 私も、その点は非常に疑問に感じたが、小皿(A)そのものには十分に時代もあり、「伊万里に間違いはないであろう。高台が外に開いている伊万里だって例外的には存在するのであろう。」と気楽に判断し、購入に及んだものである。

 小皿(B)が出てきた時もは、「更に危険を冒す必要はないな~。こちらの方は買わないようにしようかな~!」とは思ったが、「小皿(A)と合わせてペアにしてやろうか!」との思いの方が強くなり、結局、小皿(B)の方も購入に及んでしまったわてである。

 しかしながら、「例外もあるんだろう!」と思いながら、本などを見ていても、高台がこれほどまでに意識的に思い切ってバチ形に外に大きく開いている皿には遭遇しないのである。垂直の高台で、やや外に開きぎみ程度の皿は見かけるが、この小皿(A)・(B)のようなものは発見できなかったのである。危険負担は現実のものとなった。しかも2倍になって(~_~;)

 「購入の際の判断を誤ったか! まっ、これも授業料!!」と思うことにはしたが、それ以来、ず~っと、「伊万里で高台が外に開いている皿はないのか!」と注意するようにしてきた。

 でも、その後も、真剣に研究したり捜したりしなかったせいもあり、やはり、出会っていない。ところが、最近、ちょっとヒラメクものがあった。皿の「高台」と考えるのではなく、台付皿の「台」と考えたらどうかと・・・・・。

 皿の「高台」と考えた場合、伊万里では、原材料から来る制約なのか、製作技術上の問題からなのかどうかはわからないが、内側に傾斜している場合が多く、たまに垂直に近く、極くまれには、やや外側に開きぎみのものが見られるにすぎない。「高台」の高い鍋島でさえ、「高台」のそれはやや内側に傾斜しているものがほとんどで、両手に持って、片方の手の人差し指を高台の内に差し込み、反対側の手を離しても引っ掛って落下しないのが本物の鍋島とする鑑定方法もあるくらいである。

 ところが、台付皿の「台」と見た場合はどうだろう。「台」は円錐形になっているのが普通ではないか! それを上から見れば、思いっきりバチ形に大きく外側に開いているように見えるのは当然ではないか!

 古代より、「高杯」(たかつき)と呼ばれる土器が作られ用いられている。その流れから、「鉢」に台を付けたものは「台付鉢」と呼ばれ、「皿」に台を付けたものは「台付皿」と呼ばれてきている。その延長線上から考えれば、「台付皿」の「台」に相当する部分は外に向かって開かれた形となるわけである。この小皿(A)・(B)も、その流れに沿って作られたものと考え、「台付小皿」と呼べば、皿の下部が下に向かって広がっていても不思議はない! 十余年の、積年の疑問が解けたような心境で、スッキリ、爽快な気分である(*^_^*)

 ただ、「高杯」は、身分の高い人への捧げ物をする際に用いられたとか、祭壇に供する場合に用いられたとかと考えられているので、この「台付小皿」も、あるいはそういったような特殊な用途のために作られたものなのかもしれない。したがって遺例が少ないのかもしれない。

 鍋島の場合も、「高台」は高く作られているが、それは、主として、将軍家使用の食膳具の献上品として作られてきたので、その過程で、高貴な方への献上という意識から、だんだんと高台も高く作られ、しかも、高台の側面までも文様で飾られ、華やかに作られるようになったのではないかと愚考している。ただ、鍋島の場合は、あくまでも、「台付皿」の「台」とは捉えず、「皿」の「高台」と捉えているので、皿の下の部分は下に向かって狭まっているのであろう。

 以上は、何の学術的な根拠を有しない、全くの私の愚考である。それでも、個人的には、積年の疑問が氷解したような爽快な気分である。

 

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追 記 (令和3年5月30日)

 或る方から、次のようなコメントを頂きました。

 

「 こちらのお皿ですが、中国のもので、清末~民国の「供盘」「貢盘」と呼ばれるものかと思います。
捧げ物や祭壇に置くための器というのはまさに正解で、寺や廟、または結婚式などのおめでたい時などに、果物を載せたりするための器です。」

 

 やはり、ヒラメキとか発想の転換などと考えたのは誤りであったことを知りました。コメントの通りかと思います。

 長年の疑問が氷解した思いです(^-^*) 貴重なコメントをありがとうございました。

 従いまして、この小皿の生産地を「中国」に、製作年代を「清朝・光緒年代頃」と変更いたします。


色絵 青海波に椿文 七寸皿

2021年05月21日 15時29分17秒 | 古伊万里

 今回は、「色絵 青海波に椿文 七寸皿」の紹介です。

 これは、平成8年に(今から25年前に)手に入れたものです。

 

 

表面

 

 

表面の斜め上の疵部分の拡大

目立たなくするためか、鎹留め補修の鎹を取り外し、再度、補修をし直してあります。

 

 

側面

 

 

裏面

 

 

裏面の疵部分の拡大

目立たなくするためか、鎹留め補修の鎹を取り外し、再度、補修をし直してあります。

 

 

 色鍋島は、コレクター垂涎の的です。誰もが欲しがります。

 しかし、色鍋島の数は少なく、また、高額です。ましてや、盛期の色鍋島となると、数は極めて少なくなり、また、その価格も極めて高額なものとなります。

 これを見つけたときの私は、まさかこれを盛期の色鍋島とは思いませんでしたが、もしかして幕末はあるのかなと悩みました(~_~;)

 と言いますのは、鍋島は藩窯の作品ですから、幕末あれば、一応、藩窯作品ということになり、正式に「鍋島」の仲間入りを果たせるからです(^_^)

 この皿の図柄は、よく、鍋島に関する本に登場してくる有名なものですから、それを知っていた私は、この皿を見て、熱病に冒されたようになり、悩みに悩んだわけです(><)

 ところで、その、鍋島に関する本によく登場してくる有名なものというものは、次のようなものです。ちょっと古い本になりますが、その一例として、「陶磁大系21 鍋島」(今泉元佑著 平凡社 昭和47年発行)から転載いたします。

 

<盛期の色鍋島の例>

図20 色鍋島  青海波に椿文の五寸皿

18世紀前半  径15.0cm  岡山美術館

 

 

 私は、悩みに悩んだ末、この皿を平成8年の11月に手に入れたわけですが、その僅か3ヶ月後の平成9年2月に、そのなまなましい入手経過を記録に残していました。

 その入手経過記録につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中に掲載していますので、次に、まず、それを紹介いたします。

 

 

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            <古伊万里への誘い>

*古伊万里随想6 色鍋島への挑戦 (H9年2月筆)    (平成13年11月15日登載)

 “奥の細道の自筆本発見” 世は、このマスコミ報道に沸き返った。国宝級の発見とのこと。まさに、そのとおりであろう。

 とりわけ、日本中のコレクター達は色めき立った。「俺にも、私にも、もしかしたら、自分達にも国宝級の発見のチャンスが巡ってくるかも!」と。

 小生も、ガラクタコレクターながらコレクターのはしくれ。こんな自分にもチャンスが巡ってくるかもしれないと思い込んだ。なんという人間のあさましさ! その結果、目を皿のようにして、皿探しに奔走しだしたのである。

 その甲斐あってか(?)、とある骨董市で、一枚の皿にめぐり合った。物は、色鍋島の七寸皿である。

 この皿を見た瞬間、妙に胸が騒いだ。何かを感じたのだ。店主に恐る恐る値段を聞くと、買えない値段ではない。そうなると、ガラクタコレクター魂は益々頭をもたげる。胸の鼓動は高鳴り、血液が、ドクッ、ドクッと頭に上っていくのを感じたのである。

 これが江戸期の盛期の色鍋島なら国宝級の発見とまではいかないまでも、相当なものだ。しかし、そんなものが、今時、その辺に転がっているわけがない。ガラクタばかり集めている小生にだって、その程度のことはわかる。売ってる側だって、明治の鍋島だと言っているではないか。

 しかし、この胸の高鳴りはどうしたことだろう。鍋島というと、骨董市では、ほとんど明治以降の物にしかお目にかかれない。たまに、江戸期の物かなと思うと、これは高嶺の花、とても小生ごときの手に届くものではなかったのである。

 自問自答が続く。「この皿は、幕末ながら、江戸期のものかもしれない。大傷の補修があるから破格の値段なのだろう。でも、ここは冷静に判断するにこしたことはなさそうだ。こんなことで何度も失敗しているではないか。そうはいっても、これは相当な掘出しものかもしれない。誰かに買われる前に買うべきだ。さあ、それはどうかな。また、ガラクタが一点増えることになるだけではないのか。・・・・・・・・・・」

 自問自答は果てしなく続く。決断がつかない。こんな時は、少し頭を冷やして判断するに限る。とにかく、いったん会場を出よう。そして冷静になろう!

 会場を出、雨降る街を、わけもなくさまよい歩いて頭を冷やし、喫茶店のアイスコーヒーで胃袋も冷やし(関係ないか。)、十分に冷え切ったところで、再び会場に向かったのである。

 例の、色鍋島の「七寸皿様」は、まだ残っているだろうか。「どうか、まだ無事に残っていますように。」との神頼みの心境。びくびくしながらも気は急ぎ、先程の売場へと、そそくさと戻っていった。安心、安心、「七寸皿様」は、無事鎮座なされていた。

 今度こそ、冷静に、七寸皿を観察する。だが、胸の高鳴りは、いっこうに止んでこない。これは、もう本物だ。この胸の高鳴りは、明治の物とはちがうということを教えてくれているのだ。幕末ながら、江戸期のものにまちがいはない!

 小生は、遂に、「七寸皿様」を買うことにした。小生にとって、色鍋島の大物の購入は初めてである。しかも、物は、七寸皿の超大物である。

 自宅に「七寸皿様」をおつれし、さっそく勉強にとりかかった。ところが、ところがである。「初期鍋島と色鍋島ーその真実の探求ー」(今泉元佑著 河出書房新社 昭和61年発行)の45ページには、「・・・・・、また幕末時代になると、色絵磁器などは全然焼かれた形勢も見受けられないのだから、・・・・・」とあるではないか。幕末には色鍋島は作られていなかったというのである。かつて、ガリレイが地動説を唱えて宗教裁判にかけられ、地動説を捨てる誓約を求められて、それに服してもなお、「それでも、やっぱり地球は動く。」と、つぶやいたとか、つぶやかなかったとか。小生も、ガリレイと全く同じ心境である。「それでも、やっぱり幕末には色鍋島は作られていた。」と。

 もんもんとした日々が1ヶ月程過ぎたであろうか。なにげなく、「伊万里の変遷」(小木一良著 創樹社美術出版 昭和63年発行)を見ていたら、96ページに幕末の色鍋島の例が載せられているのを発見した。まさに、我が意を得たりの心境である。「やっぱり、幕末には色鍋島は作られていた。」と。 

 

(上の写真は「伊万里の変遷」P.96から転載)

 

 「伊万里の変遷」は、「伊万里」の変遷の書物であって、「鍋島」の変遷の書物ではないと思い込み、同書を全く調べもしなかったのが、うかつであった。よく考えてみれば、「鍋島」だって「伊万里」の一分野なのだ。改めて、「伊万里」の定義を考えさせられた思いである。    

 ところで、我が家の「七寸皿様」は、前掲書「伊万里の変遷」96ページの例とは、ずいぶんとイメージがちがうのである。「やっぱり、我が家の「七寸皿様」は、明治のものなのだろうか?」。色鍋島への本格的な挑戦は、まだ始まったばかりである。

 

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 また、この「色絵 青海波に椿文 七寸皿」につきましては、かつての拙ホームページの「古伊万里への誘い」の中で、簡単な解説もしていますので、次に、それも、参考までに掲載いたします。

 

 

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            <古伊万里への誘い>

*古伊万里ギャラリー12 鍋島様式色絵椿文七寸皿     (平成13年11月15日登載)

 

       我が家の七寸皿               盛期の色鍋島

 

 盛期の鍋島によく見る図柄である。もっとも、鍋島は図柄がパターン化されているから、同じ様な図柄を見かけるのは当然ではあるが。ところで、盛期の鍋島では、皿の上部も青海波で埋め尽くされ、この皿のように上部が白抜きになっていない。また、盛期の鍋島では、口縁に口紅が施されていて、画面全体がギュッと引き締められている。

 この皿は、盛期の鍋島と比較すると、良く言えば、お手本にとらわれないでノビノビとしていると言えなくもないが、椿の枝振りも間が抜けているし、全体に締りがない。盛期の鍋島に比して、大きく崩れていることは否めないであろう。しかし、胎土の良さ、轆轤の冴え、気品、全体の雰囲気・・・・・いかにも鍋島を彷彿とさせるのである。

 したがって、この皿を購入するに当たっては、幕末なのか、明治なのかについて大いに悩んだところである。しかし、購入後5年が経過した今、もう一度見てみると、やはり明治であろうと思わざるを得ない。ただ、廃藩置県で藩窯体制が失われてまもない、まだ、藩窯に携わった人たちの影響の残っている段階の作品ではないかと思っている。

明治時代    口径:20.0cm

 

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 以上、「古伊万里への誘い」の中で記しましたように、この「色絵 青海波に椿文 七寸皿」を買う時点では、これが幕末に作られたものなのか、はたまた明治になってから作られたものなのかにつきまして大変に悩んだわけですが、その後、少しずつ勉強を重ね、その5年後には、明治に作られたものであるとの結論に達したところです。

 そして、研究の進んだ現時点では、そのことは確定したものとみてもいいように思います。それは、「将軍と鍋島・柿右衛門」(大橋康二著 雄山閣 平成19年発行)に次のように書かれているからです。

 

「享保元年(1716)8月、家継が8歳で病死したあとを紀州藩主より入った八代将軍吉宗にとっては、逼迫していた幕府財政の立て直しが急務であった。就任直後にできる限りの倹約を行うことを命じ、さらに享保7年(1722)3月15日に減少令を出し、法会の式を簡素化することや、贈遣、礼物も減少するようにと命じ、具体的に10分1から半分などと細かく指示した。さらに領地に産する物を献上するのも、数を減らすようにといい、酒肴の外、封地の産物でないものを献上することは止めること、また数多く献上してきた物はその品の数量を減らすように命じた。享保9年6月23日にはさらに万石以上の妻といえども華麗を禁じ、国持ち大名でも新たに調度を製するとき、漆器は軽き描金にとどめることなど細かい指示を出した。

 佐賀藩の『吉茂公譜』享保11年(1726)4月に「例年御献上陶器色立ニ付、松平伊賀守殿ヨリ相渡サル御書付、例年献上之皿・猪口・鉢之類、唯今迄者色々之染付を可被差上候、且又青地者只今迄之通可被差上候(後略)」とあり、例年献上の陶器について老中松平伊賀守忠周より指示があり、種類の多い色絵具で飾ったものは制限するが、青磁はこれまで通りとし、以後の献上品に注文が付いたのも、この華麗を禁じた一環と考えられ、盛期鍋島の終わりの時期と推測できる。以後の幕末までの伝世品の内容をみても、三色使ったいわゆる色鍋島が消える。時折みられる色絵は赤一色を付けたり、緑一色であったり、希に二色程度もあるが、極端に華やかな色鍋島は消えたのである。当然、将軍家から必要なしとされ、華美なものとして禁じられれば、作れなくなる。よって色絵を作った赤絵職人も大川内鍋島藩窯からはいなくなったと想像される。以後は必要に応じて有田の御用赤絵屋が注文を受けて色絵を付けたのであろう。

 このように鍋島は将軍綱吉時代に盛期を迎え、吉宗の倹約令によって盛期は終わる。以後は三色使ういわゆる色鍋島は作られず、主に染付が、次いで青磁が作られ、赤だけや二色程度の色鍋島は少量作られたにすぎない。しかも確実な将軍家例年献上品の中に色絵の例はみられない。  (P.156~160)」

 

 

生 産  地 : 肥前・有田(鍋島藩窯系)

製作年代: 明治時代初期

サ イ ズ : 口径;20.0cm  高さ;5.8cm  底径;9.8cm