キング牧師記念日に寄せてーそのキリスト教的世界観の由来
今年の Martin Luther King Jr.記念日は、トランプの大統領就任式と同じ1月20日であった。人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を訴えたキング牧師は、1968年に狂信者によって狙撃され、39歳の若さで帰天したが、米国では彼の誕生日後の第三月曜日を、国民的な祝日としてきたのである。
キング牧師の非暴力不服従運動は、実践に於いてはガンジーから学んだとされてきたが、彼のキリスト教的世界観・人間観は具体的にはどのようなものであったのだろうか。
私は最近、米国で、ホワイトヘッドのハーバード大学での講義録を編輯・出版しているBrian G. Henning氏によって、キング牧師がボストン大学やハーバード大学で神学と哲学を学んでいたときに、ティリッヒとホワイトヘッドから影響を受けていたという事実を知らされた。
たとえば、キング牧師のノーベル平和賞受賞講演(1964年12月10日)の冒頭には「公民権運動は、如何に重要なものとはいえ、米国だけに限られた現象なのではなく、「世界的な発展の比較的小さな一部」として見ることの重要性を指摘する次のような発言がある。
『最初に挙げたい問題は人種的不正義です。人種的不正義という悪を排除するための闘いは、現代における主要な闘争のひとつです。米国の黒人たちの現在の盛上がりは、自由と平等を「今、ここ」で現実のものとするという深い情熱的な決意から生じたものです。ある意味では、米国における公民権運動は、米国の歴史を踏まえて理解し、米国の状況に照らして対処すべき、特別な米国の現象ですが、しかし、より重要な別の観点から見ると、今日米国で起こっていることは、世界的な発展の比較的小さな一部です。「文明の基本的な見方が変化しつつある時代に私たちは生きている。社会が構築される前提条件が分析され、厳しく問われ、そして大きく変化する歴史における大きな転換点である」と、哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは述べています。・・・・歴史的な動きは、数世紀にわたって西欧の国家や社会がさまざまな「征服」を試みて、世界の他の地域へと進出していったものであった。植民地主義の時代は終わりを迎えています。」
キング牧師がボストン大学に提出した博士論文「パウロ・ティリッヒとヘンリー・ネルソン・ウィーマンの思想における神の概念の比較」では、個人と宇宙との相関関係の重要性、人が社会的な活動と参加によってのみ十全な意味で「人間」となるという思想が強調されているが、キング牧師は、そこでライプニッツ、ホワイトヘッド、マルティンブーバーを、思想的な先達として引用している。
『存在することは個別化することである。しかし、人間の個別化は絶対的でも完全でもない。それは、参加との極性関係においてのみ意味を持つ。ライプニッツは、モナドの小宇宙構造について語る際に、この点を強調している。ホワイトヘッドは、活動的生起による全体の「抱握」について語るときに、この点を明確にしている。マルティン・ブーバーは、「私」の発展における「汝」の役割について述べるときに、個別化のプロセスにおける参加の役割を強調している。 これらの思想家のそれぞれが、ティリッヒが言わんとしていることを裏付けている。すなわち、個別化には参加が伴うということである。人間は、理性的な心と現実の構造を通じて宇宙に参加する。個体化が「人」と呼ばれる完全な形に達すると、参加も「交わり」と呼ばれる完全な形に達する。人は社会に参加することによってのみ「人」となる。人は個人的な出会いの交わりにおいてのみ成長することができる。参加は個人にとって不可欠である。』
神の永遠性と時間性の区別と関係性は、ティリッヒとホワイトヘッド、そしてホワイトヘッドの影響を受けたウィーマンにとって中心的な課題であるが、キング牧師の博士論文もこれに触れている。
『ウィーマンの強調点は、神の永遠性よりもむしろその時間性にある。実際、彼の神の概念は「極端な時間的有神論」と称されている。彼の神の定義、「成長」、「創造的出来事」、「プロセス」は、永遠性よりもむしろ時間的で過ぎ去るものに焦点を当てている。成長の出来事やプロセスは、持続する実体でも永続する現実でもない。それは、永遠に「なること」の状態にあるものである。ウィーマンの「プロセス」や「創造的出来事」としての神の性格づけは、実体としての存在というスコラ学的な概念を放棄したいという彼の願望によるものであることは明らかである。ホワイトヘッドと同様に、彼は動的な用語を好む。彼は、静的な「必然的存在」である絶対的な存在とは対照的に、神の活動を強調しようとしている。 そのため、ティリッヒとは異なり、ウィーマンは神を時間的な現実として確固として位置づけようとするあまり、神の永遠性をほとんど完全に無視している。私は、ウィーマンがミード、デューイ、ホワイトヘッドと共有する『動的』用語へのこの好みを歓迎する。しかし、実体的な存在というスコラ哲学の概念からの独立を宣言することによる利益があるとしても、正確性が大きく損なわれる危険性がある 。これらは、抽象的な形や理想に対する神の実在性、静的なens necessarium(必然的存在)や絶対的な存在に対する神の活動性を示すために、ウイ-マンが用いた用語である。』
キング牧師は1955年春に博士号を取得した後に、1957年12月、米国キリスト教協議会(NCC)の年次総会における2つ目の講演「人間関係におけるキリスト教的生活」のなかで、次のように述べている。
『私は、非暴力の信奉者の中には、人格的な神の存在を信じるのが難しい人々がいることを知っています。しかし、そうした人々も、私たちがそれをホワイトヘッドの「具体性の原理」、ヘンリー・ネルソン・ウィーマンの「統合のプロセス」、パウロ・ティリッヒの「それ自身である存在」、ヒンドゥー教の「非人格的なブラフマー」、あるいは「無限の力と無限の愛を持つ人格的な存在」と呼ぶかどうかは別として、調和を求める創造的な力の存在を信じています。この宇宙には、現実の断片を調和のとれた全体へと導く創造の力が存在すると信じなければなりません。 創造の力は、巨大な悪の山々を低くし、途方もない不正の丘を崩壊させるために働いています。 これが、非暴力抵抗者が直面せざるを得ない緊張や苦悩を乗り越え続けるための信念なのです。』