エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

木守柿・・・初冬

2013年11月29日 | ポエム
柿が熟れている。
真青な空に向かって、キラキラと黄色く色づいて輝く。

小鳥が啄ばんでいる柿も多い。
収穫する者とて無く、樹上で朽ち啄ばまれる。
それもまた、風雅ではある。



初冬の季語である。
誠に麗しい日本人の生活感覚が眩しいではないか。
日本人に産まれ、象形文字たる日本語で語る民族の喜びを感じるのである。

アルファベットのように、単なる記号では無い文字の美しさ。
文字に固有の意味のある喜び、とでも言おうか。
日本語で、感性を表現する素晴らしさである。

喜怒哀楽は、その文字が伝えてくれる場合も多い。
多くを語らず、だがしかし感覚を伝える。
だから短詩形の俳句も生まれたのである。

今、俳句を詠む幸せを実感しているところである。
その代表たる「木守柿」である。







「言の葉をつむぐ優しさ木守柿」







こもりがき・・・と読みたい。
過日、NHKのアナウンサーが「きもりがき」と連発していた。
間違いではないけれど、少し寂しい。

また、昨日は紅葉を「かえで・・・かえで」と連発していた。
これも寂しい。



紅葉も黄葉も「もみじ」と読みたいし、呼称したい。
五感こそが日本語の命である。

「そんな面倒臭いことを言っているから、俳句が大衆に開けていかないのだ!」
と、言われそうである。



でも、美しい日本語は守って行きたいではないか。
言語が、発音便や促音便で変化していくのは許容できるけれど、間違った用法で変化するのは駄目だ。
駄目なものは、駄目だ。



ぼくの俳句修行は、そんな事なども抱え込んでいきたい。
この年齢からの修行である。
そんな自我も許して頂きたいのである。



       荒 野人