柿が熟れている。
真青な空に向かって、キラキラと黄色く色づいて輝く。
小鳥が啄ばんでいる柿も多い。
収穫する者とて無く、樹上で朽ち啄ばまれる。
それもまた、風雅ではある。
初冬の季語である。
誠に麗しい日本人の生活感覚が眩しいではないか。
日本人に産まれ、象形文字たる日本語で語る民族の喜びを感じるのである。
アルファベットのように、単なる記号では無い文字の美しさ。
文字に固有の意味のある喜び、とでも言おうか。
日本語で、感性を表現する素晴らしさである。
喜怒哀楽は、その文字が伝えてくれる場合も多い。
多くを語らず、だがしかし感覚を伝える。
だから短詩形の俳句も生まれたのである。
今、俳句を詠む幸せを実感しているところである。
その代表たる「木守柿」である。
「言の葉をつむぐ優しさ木守柿」
こもりがき・・・と読みたい。
過日、NHKのアナウンサーが「きもりがき」と連発していた。
間違いではないけれど、少し寂しい。
また、昨日は紅葉を「かえで・・・かえで」と連発していた。
これも寂しい。
紅葉も黄葉も「もみじ」と読みたいし、呼称したい。
五感こそが日本語の命である。
「そんな面倒臭いことを言っているから、俳句が大衆に開けていかないのだ!」
と、言われそうである。
でも、美しい日本語は守って行きたいではないか。
言語が、発音便や促音便で変化していくのは許容できるけれど、間違った用法で変化するのは駄目だ。
駄目なものは、駄目だ。
ぼくの俳句修行は、そんな事なども抱え込んでいきたい。
この年齢からの修行である。
そんな自我も許して頂きたいのである。
荒 野人
真青な空に向かって、キラキラと黄色く色づいて輝く。
小鳥が啄ばんでいる柿も多い。
収穫する者とて無く、樹上で朽ち啄ばまれる。
それもまた、風雅ではある。
初冬の季語である。
誠に麗しい日本人の生活感覚が眩しいではないか。
日本人に産まれ、象形文字たる日本語で語る民族の喜びを感じるのである。
アルファベットのように、単なる記号では無い文字の美しさ。
文字に固有の意味のある喜び、とでも言おうか。
日本語で、感性を表現する素晴らしさである。
喜怒哀楽は、その文字が伝えてくれる場合も多い。
多くを語らず、だがしかし感覚を伝える。
だから短詩形の俳句も生まれたのである。
今、俳句を詠む幸せを実感しているところである。
その代表たる「木守柿」である。
「言の葉をつむぐ優しさ木守柿」
こもりがき・・・と読みたい。
過日、NHKのアナウンサーが「きもりがき」と連発していた。
間違いではないけれど、少し寂しい。
また、昨日は紅葉を「かえで・・・かえで」と連発していた。
これも寂しい。
紅葉も黄葉も「もみじ」と読みたいし、呼称したい。
五感こそが日本語の命である。
「そんな面倒臭いことを言っているから、俳句が大衆に開けていかないのだ!」
と、言われそうである。
でも、美しい日本語は守って行きたいではないか。
言語が、発音便や促音便で変化していくのは許容できるけれど、間違った用法で変化するのは駄目だ。
駄目なものは、駄目だ。
ぼくの俳句修行は、そんな事なども抱え込んでいきたい。
この年齢からの修行である。
そんな自我も許して頂きたいのである。
荒 野人