言わずと知れた 澪つくし料理帖シリーズの
高田郁のエッセイ集だ
時代小説作家とは思えない
平易な読みやすい文章で
文章を書く時の手本にしたいと思えた
人それぞれ嬉しい時悲しい時はあるものだが
その作家のおもいが
じわっと心にしみてくるエッセイ集だった
言わずと知れた 澪つくし料理帖シリーズの
高田郁のエッセイ集だ
時代小説作家とは思えない
平易な読みやすい文章で
文章を書く時の手本にしたいと思えた
人それぞれ嬉しい時悲しい時はあるものだが
その作家のおもいが
じわっと心にしみてくるエッセイ集だった
上の記のLINKyoutubeの映像はプレスリーの歌う
スィートキャロラインだが
1970年代始めニールダイアモンドが歌って
日本でも大ヒットした
おいらもラジオの深夜放送で良く聴いていたものだ
それがキャロラインケネディをうたった歌だったとは
駐日大使として来日して報道されるまでまったく知らなかった
ケネディ大統領が暗殺され傷心の母ジャクリーンを健気に
支えて居たキャロラインが駐日大使とはね
隔世の感あり茫然
スィートキャロラインの歌が
頭の中でずっとなりつづけている
私の生まれた村 吉備中央町福沢は備中、備前、美作に接する
岡山県のヘソともよばれ、岡山県のほぼ中央に位置する寒村だ
以前は30軒弱の家あったものが、現在は半減し各戸ともその
ほとんどが連れ合いが亡くなり、子供らも村を離れてしまって、
独居と成り果てて、過疎と高齢化でもうすぐにでも消滅しそうだ。
勿論、我が家も例外ではない 母独りで村に残っている
この福沢のことを、私の子供の頃はタメシゲと呼ぶ人が多くいた。
この村は昔、備前の国尾原村字爲蕃ためしげ(蕃は繁の旧字?)
と呼ばれていたという。色々と資料を漁ると、こんな記述がみえる
爲蕃村の福山(安田坊)に昔より寺院あり
元の備中松山城主荘爲資は親戚筋の姓穂井田爲蕃と名を改め出家
「聖坊入道穂井田爲蕃」となり聖坊山より阿弥陀三体像を自ら背負い
孫の爲重を伴い家来も連れず爲蕃の地福山に阿弥陀像を安置して
安田坊と呼ぶ。以来、参拝者多数あって爲蕃の阿弥陀さんと呼ばれた。
寺は明治のはじめ頃まではあったそうだが今は山に還ってしまった。
この地も備中兵乱の頃、備中松山城から四里程の距離で、尼子、
毛利、三村、荘、宇喜多等々の勝った負けたの戦いの中でまったく
の無縁とは行かなかったとみえ、以前、稲葉の宝剣伝説をブログでも
書いたが、後奈良天皇の子を身籠ったまま松山城の三村備中守家親
の妻となった入澤勝姫とその子勝法師丸も松山城落城の前に戦火を逃れ
三村家家臣の山縣新介に守られてこの地に落ちて来たというが、
落ちるに程よい場所だったのだろう。三村元親と荘爲資の関係を
考えると、宝剣宮と安田坊が1キロと離れていない近くにあるのは
偶然では無かろう.....
今は昭和の町村大合併により吉備中央町福沢となっている。
明治初期にはまだ寺が残って居たというが、現在は福沢の地にも
この由来を知る人は少ないだろう。
我が家の山蔭の畑地に日尻坊(聖坊)と呼ぶ場所がある、そのすぐ側には
寺院跡を偲ばせる五輪塔が数基残っているのみ。
近年叔父がその畑地をユンボで掘り返したとき立派な排水遺構が出
て驚いたと聞いた。
同じく、その近くの我が家の田(現在は耕作放棄地)には案田坊と
護摩砂子(ゴマザコ)と呼んで居たところもある、叔父が子供の頃
この五輪塔の辺りの山(樒の林)の中で遊んでいる時は、まだ寺院の
遺構が残っていたという。
福山安田坊の五輪塔
我が家の裏山から福山を望む
日尻坊(聖坊)と呼んでいた畑
今は猪と猿の被害に悩まされている。この写真を撮っている時も20数匹の
猿軍団が襲来して驚いた。
元備中松山城主 荘爲質 三村家親については多数記述が見える。
以下インターネットの記述
三村家親【みむらいえちか(15??~1566)】
川上郡成羽鶴首城主。三村宗親の男。官途は修理亮。1533年、庄為資は備中松山城主上野頼氏を攻略し、息子庄高資とともに入城してここを本拠とした。三村家親は初め庄為資と結んで勢力を拡大した。1561年、毛利元就の支援を得て尼子方庄高資拠る松山城を略取した。その後毛利元就の尼子攻めに参加して伯耆方面に進出し入江、杉原、行松、南条らと共に伯耆の尼子方拠点の攻略に戦功があった。たが、その間備前の松田家は盛んに備中を侵していた。1565年、美作国三星城主後藤勝元を攻略。この間毛利元就に協力して山陰方面にも活動している。1566年、美作国興善寺に在陣している時、宇喜多直家の放つ刺客遠藤又次郎、遠藤喜三郎兄弟によって暗殺された。戦国でも珍しく鉄砲による射殺であった。
庄為資【しょうためすけ(15??~15??)】
猿掛城主。官途は備中守。1507年、将軍足利義尹に応じて安芸に出兵。1533年、植木秀長(為資の弟である植木藤資の息子)と協力して松山城主上野頼久を撃破。以後居城を松山に移し、備中に覇を競う。毛利、尼子の対立では尼子方に属した。1540年、尼子詮久に呼応して備後に出兵したが敗退。1553年、毛利家の支援を得る三村家親は猿掛城を攻めてこれを攻略し、息子元祐を庄氏一門の穂田実近の養子に入れることで和睦した。天文期に能島村上隆重(武吉の父義忠の弟)の攻撃を受けた神戸城主小田政清は庄為資に援軍を求めている。
庄(荘)氏系図
藤原鎌足 ・・・ 23代家長 -- 頼家 -- 頼房 -- 頼澄 -- 房時 -- 頼資 -- 資房
資氏 -- 資政 -- 資昭 -- 氏貞 -- 氏敬 -- 元資 -- 為資 -- 高資 -- 勝資
資直 -- 直清 -- 直明 -- 直法 -- 直勝 -- 44代時直 ・・・以下略
■ 23代 庄家長
初代猿掛城主、源氏の武将であり、武蔵七党のうち児玉党の旗頭であった。源平合戦の一ノ谷で平家の大将が破れて須磨の浦を落ち行くのを追いかけ生け捕り、その功により源頼朝より陸奥の室の地の庄を貰う。
■ 29代 資房
庄家長(猿掛初代城主)の七世の孫。この七世には異論もある。
この資房は都窪郡山手村の幸山城主、左衛門四郎と称す。家が衰えて守護人に補せられ、元弘の乱には北条仲時に随って戦い、安藤元理らと共に元弘三年(1334)近江の番屋で討ち死にした。
賊軍方であったが、この子七郎は官軍方となり、船上山に後醍醐天皇を迎え、また後には足利氏に仕えた。
■ 30代 資氏
後醍醐天皇船上山へ臨幸の時、宣旨を奉じて御迎えに参上、従って上洛する。
■ 31代 資政
文和二年南朝に奉仕し、北畠親房に従い、足利尊氏、高の師直としばしば合戦、軍功あり感状を賜う。
■ 32代 資昭
永和三年(1377)朝鮮国使来るとき、足利義満将軍の執事細川大夫より命を被り馳走役を承わる。また応永二十二年(1417)上杉氏憲が乱を起こした時、畠山満家に従って戦い、軍功あり。
■ 35代 元資 庄駿河守という。
享禄四年(1531)管領細川高国、細川晴元と開戦する。時に晴元に加勢し、士卒を励まししばしば戦った。
この元資まで数代は比較的平穏で大した合戦の争奪もなかった。次の36代は庄氏の全盛時代!
■ 36代 荘為資(穂井田爲資)
猿掛城主であったが、天文二年(1533)に当時、松山(高梁)を領していた上野伊豆守を植木長秀の協力により攻め滅ぼし松山城主となり、これより備中守と称し備中半国を領有して一万貫を得たという。
その時の有様を中国太平記に
「当国大松山の城には上野伊豆守、小松山の城には上野右衛門慰居りけり。去んぬる天文二年猿掛の城主庄為資押寄せて相戦ふ。
植木総守秀長、庄を助け大松山を破る。
小松山も植木の一族、若林次郎右衛門に討たれて滅ぶ。
これより為資、両松山を持ち、庄備中守と号し、備中半国一万貫の主となる。
猿掛のあとには穂井田実近へ移り住む。成羽の三村、高山の石川、竹庄の工藤、新見の楢崎らは庄の縁者なりといふ」
とある。為資は天文の末死す。と記されている
。。。。。。。。
この後、荘一族の猿掛城には毛利との和睦条件で毛利元就の子(四男)毛利元清が猿掛城主に
穂井田元祐(荘元祐)の養子として入り穂井田元清を名乗り活躍が記録されている。
長々と書いてきたがまだ曖昧模糊として納得していないところが多いが面白いので
もう少し綿密に調べてゆきたいと思っている。 2013年11月
今日昼にAmazonから本が届いた
先々週作者を勘違いするチョンボを犯した
高田郁と高田侑を勘違いしたのだ
今回はしっかり確認した
残念ながら待っていた澪つくし料理帳の
続編ではなかったが
仕方ない
高田郁の新作
双葉文庫の「ふるさと銀河線」と角川春樹事務所の
「あい 永遠に在り」集英社の「晴れときどき涙雨
さ~どれから読むか???
先週ゴルフコンペの折ゴルフ場に
沢山のキノコが出ているのをみて
もしや と思い
今日農作業の合間に
山に行って見たところ
思いがけず沢山の大きな松茸に出逢えた
近来稀な松茸に叔父も婆婆もビックリ
十年ぶりにやって来た勝山の月田の竹細工の親父から買った見事な
竹籠(ソウキ)に松茸を飾ってみた
最初この本が時代小説と知って少々戸惑った
さほどの期待をしないで読み進むうち
作者百田尚樹流の泣かせのテクニックの術中に
見事にはまり 「永遠の0」や「海賊と呼ばれた男」
同様 またしても泣かされてしまった
人は 否 私はこの小説を読んでなぜ泣くのか?
それは
作中の主人公磯貝彦四郎や戸田勘一の生き様に
ついつい溺れて泣くのではなく
作中の人物に比べて己の人望のなさや不甲斐ない
生き様が情けなくて涙してしまうのだろう
それと気付くのがちょっと遅過ぎたか?
このドラマは結局最終章の袋綴じで恋愛小説と判る