
マイナス5.6℃まで冷え込んだ
強烈な寒波が長く居座るのだと気象予報士はしつこく忠告する
家の前に停めてある我が愛車には霜がびっしり
風はなさそうだが確かに寒い
さて、どうしたものか

今週はきっちり充電器に繋いでおいたクロ介(BMWエアーヘッドボクサー)
「機関維持」のために今日は走っておきたい
ためしに表へ出てみるとなんだかそうでもなかった
時折ゆるい風が吹くとそれは怖ろしく冷たいけど
日差し自体にはすでに力強さを感じる
見上げた空の色も
そこに浮かんだ雲の形も
確かに季節の移ろいを感じさせる
気付けば遠くから雲雀の声も聞こえた

クロ介をガレージから出して始動させる
今日はもちろん一発だ
暖機の間にジャケットを羽織りブーツを履く
チョークを戻してヘルメットをかぶり、素早くシートへ跨る
袖口の収まりに気を付けながらグローブをはめれば
さあようやく出発だ
ゆっくりローで引っ張ってから、そっとけれど確実にセカンドへ蹴り上げる
もうエンジンは少しもギクシャクしなかった
クロ介も春を予感しているのかもしれない

通勤ラッシュの時間帯を過ぎた国道は少し空いていた
サードギアのまま巡行させる
クロ介のトランスミッションは5速だ
けれど高速以外では5速へ入れることはほとんどない
普段3000~4000rpmを使って走るが
それでも4速では100㎞/hを越えてしまうので
サード(3速)を使うことが多い
それで40~80km/hの速度レンジをカバーしている
ダッシュする時はセカンドで5000rpmくらいまで引っ張るかな
ワインディングは2速3速
山の中の狭路は2速
1500rpmくらいまで落ちてもスナッチが出ることはない
その辺はさすがのツーリングマシン
だからSR400に乗り換えるとなんだかちょっと忙しく感じてしまうこともあるが
でもあいつはそこがいいとこだから
ギアを上げたり下げたりね、あれはあれで楽しい
それとは対照的にクロ介は本当にゆったりとどこまでも駆け抜けていく

このブログの主題は社会の中の個、なのかな、と最近感じるようになった
変化を求められる「社会」とそれに馴染めない「個」の話
この国の「社会」は資本主義と云われる経済イデオロギーで動き
個人の人権を自由で平等なものとして扱おうとしているようにみえる
人間にとって社会は必要だ
必要だから生まれ、その中で繁栄してきた
そこで生きていく以上、社会に飲み込まれるのは必然だ
社会においては常に変化に対応することが必要で
社会は個人にも変化するように求めてくる
喜ばしく望んだ変化もあるだろうが
腹立たしくしぶしぶ従うような変化もある
否応もなしにという訳だ
なぜ変化が必要かと云えば生き残るためで
「改善」という変化を繰り返し利益を追求する
利益こそが生存の糧なのだ
それを邪魔するものとは敵対し捻りつぶしにかかる
レッドオーシャンとかブルーオーシャンとか薄気味の悪い言葉だ
変化できないモノを糾弾し変化を強要する
静観は許されず絶えず行動することを求める
もちろん「社会」の中ではね、と注釈はつける

トランプ劇場2.0にいま世界は戸惑っている
生涯の資本家であるトランプ大統領は強烈に変化を求める
いや、強制してくる
けれど分かっているはずだ
この資本主義経済の中で生き残るのは変化に対応できるヤツだけなのだ
でもボクはちょっと違う見方をしている
ー21世紀に入ってやはりグローバル化と多様性に対する寛容さが
急激に加速し今や行き過ぎてしまったのではないかと、
ーそのせいで人々の中にあった国家主義的な欲求がまた騒ぎはじめ
少しネジを巻き戻す方向に動き始めているのではないかと、
ーあまりにも「いい子」であり過ぎたりそれを求められ過ぎたりで
息抜きする間もなかったのではないかと、
紙のストローを強要したり電気自動車を強要したり
あれはダメこれはダメのがんじがらめだ
SDGsも正直少し寒気がする
目標は必要だが強要となると他の都合があるのかと勘ぐってしまう
未来の地球のために環境を重視した行動をとることは必要だし
世界中の人が助け合って皆で幸せになりたいとも思う
男とか女とか肌の色によって態度を変えるなんておかしいと確かに思う
けれど、思うと実際やるのとでは相当違うものだ
行動と感情に齟齬があれば人は簡単に壊れる
いま一度立ち止まって世界を再構築する時期なのかもしれない
と無力なおっさんは地球の片隅で傍観している

でも
これだって幻想にすぎない
そもそも我々は「人間」である
この宇宙の法則の中で奇跡的に存在している
物理学者たちはこの宇宙があまりにも上手く出来過ぎていると感じ
違う物理法則で成立するパラレルワールドがいくつもあると考える
加速器の中で故意に衝突させた粒子がこの宇宙を崩壊させるかもしれない
人間の生命など宇宙にとっては微小な存在だ
けれどこの身体を構成する元素はみな何時かの何処かの宇宙に存在した破片でできている
たとえば血液中の赤血球に含まれるヘモグロビンは全身に酸素を運ぶが
ヘモ(ヘム)=鉄は太陽よりもはるかに大きな恒星(超新星爆発を起こすレベル)
の内部でしか生まれないものなのだ
つまりこの体の中の鉄は自分で作った訳でも親から貰った訳でもなく
地球が出来るときに集まってきた何時かの何処かの星で作られた鉄なのだ
「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」とゴーギャンは問うたが
それはもう宇宙から来て、宇宙そのもので、宇宙に帰る存在だ、と云えるだろう
ボクたちは宇宙の欠片であり宇宙そのものだ
どんなに変わろうとしてもそんなの所詮頭の中の意識が作り出したノイズ程度のものじゃない?
だからこの一瞬の「生」にあまり多く意味を持たせない方が良いとボクは思う

話がでかくなり過ぎたようだ
このブログの主題が「社会」の中の「個」、みたいな気がするというという話に戻る
いろんな考え方や感じ方があるから面白いとはボクも思う
どちらかと云えばボクの考え方はその中では気妙な方だろう
それは自分でも感じる
でもそれはこの国のこの時代に生きているから、とも云える
もっと違う国、違う時代なら妙ではないかもしれない
それは「個」が生きることがそれほど「社会」と結びついている証拠でもある
仕事をするとは「社会」参加することだし
生きていくためには社会参加が必要だ
そして「社会」に出ると否応なしにここでは「変化」していくことを求められる
新しい情報を常にキャッチし自分なりにそれを消化し続けていく
「いつまで同じことをしているのだ」と叱責され
もっと能力を高めるようけしかけられる
そしてもっともっとと利益を求められる
自分で云うのもなんだが
学生時代には社会に対してそんな強圧的な雰囲気を
薄っすらと感じていてとても気が進まなかったが
仕方なしであったものの結局社会に押し出されてみたら
案外自分はこの社会に適応し能力を高め続けていけたのだ
もちろん失敗したり、出し抜かれたり、足を引っ張られたりもあったが
その度に「コノヤロー」みたいな肉食系の部分すら出していた気がする
でもいま思えばそれは自分の「素」ではなかった
人間なんてそんなにすぐには変われないと思うし
変化し続けることは本当に精神を疲弊させる
ましてやそれが自分が望まない変化なら気がおかしくなるかもしれない
とにかくみんながバラバラの「集団」が嫌いだった
個性を尊重したみたいな集団はもっと最悪だ
本当はひとりでぼんやり空想に浸っている方が好きだったのだ
それがボクの「素」の姿だ
誰もいない山奥の湿原に写真を撮りに行ったり
何の変哲もない砂防ダムにオートバイで行ったり
そうして地べたに座り込んでのんびりと風景を眺めながらおにぎりを食べるのだ
来年の販促計画とか出店計画とか土の中に埋めてしまって
善とか悪とか無関係な存在になりたかった
そしてその生き方のほうが自分にはとても大切だった
生きていくために「社会」は必然だったけど
正直そこでの毎日がとても苦痛だった
それは自分がその中でとても悪い人間に見えたからだ
そしてそんな人間がボク自身大嫌いだったのだ

「趣味」の時間はそんな「社会」の中で唯一
変化しなくていい空間だった
いろいろ理解するまでは多くの異なったモノに触れることも楽しかったが
逆に変化していってしまう「世間」に疑問や不満を感じるようにもなった
レコード盤がコンパクトディスクへと変わって行く時
誰もレコード盤を守ろうとしなかった
レコードプレーヤーの繊細さは人が工夫する余地が多くあったのに
電気回路ですべてを完結させてしまうCDプレーヤーには何の体温もなかった
いともたやすく正確でノイズや歪みのない音をただただ出力してくる
もちろん初めて出会ったCDの音は未知のもので未来を感じさせてくれた
けれどそれが一般的になると
自分の中のオーディオへの興味はすっかりなくなってしまっていた
そんなモヤモヤは
とっておいた当時のままのレコードプレーヤーでレコードを再生してみると
けっして間違いではなかったと思える
アナログオーディオも残すべきだったのだ

だからオートバイなんてそもそもが時代錯誤な乗り物が好きなのかもしれない
正直いまのオートバイには時代錯誤感は少しなくなってきたようには感じるが
いつまでオートバイになんて乗ってるの?と以前はよく云われた
むき出しでクサくてうるさくて
そんな存在だったのだ
「だった」と書いたのはいまはそうじゃないからだ
オートバイだって工業製品だから変化してしている
そしてズーっとむかしからオートバイに乗り続けてきたじじいにまでそれを押し付ける
法律なんだそうだ
うるさい音を出したり汚いガスをまき散らしたり
そんなこと21世紀が許さないのだ
存在がわかりにくいからライト点けっぱなしにして
ブレーキかけ過ぎてコケると危ないからロックしないようにして
気化したガソリンとかばら撒かないようにまでして走らせる
それもこれも法律で決められている
でも「趣味」の世界では「個」は変化しなくてもいいのだよ
古いオートバイだってガソリンを入れてやればそのまま走らせることが出来るのだ
いつまでもいつまでも古臭いオートバイに乗っていられる
もう変化なんてゴメンなのさ、「社会」じゃああるまいし
だからずっとボクにとってオ―トバイに乗ることは
イヤな自分から素の自分へ戻る手段のひとつだったのかもしれない
「変化」のない世界に生きたい人だっているのさ
仕事もリタイヤしてネコのように日々生きるこの頃
たまにレコードプレーヤーで音楽を聴いたり
うるさくてきたないオートバイで山の中を走りまわったりしてね
すっかり子供の頃の自分に戻ったような気分だ
