自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★文明論としての里山14

2010年02月20日 | ⇒トレンド探査

 今回のブログのシリーズ「文明論としての里山」で問いかけているのは、人々と里山の関係性、あるいは関係価値とも言ってよいかもしれないが、どう復活させるかである。あえてそれを「復権」と表現してみたい。受動的な意味合いではなく、それはまさに、知恵と技術を生かして、現代社会が里山を必要とするような関係性を取り戻すための復権闘争である。

            里と人の関係性の復活

   何も、昔に戻ってクヌギやコナラを切り出して炭を焼こう、木の葉から肥料をつくろうと言っているのではない。21世紀における里山の保全と利用を考えていこうという期待感である。あるいは、里山という生態系を見直すことで得られる新たな価値を再評価したいという思いもある。最近、一般的にも使われ始めた生態系サービスを地域の里山に見出すことから始めてもよい。とはいえ、一度失われた関係価値を取り戻すには時間がかかる。

  もう一つの視点がある。ことし2010年、国際生物多様性年はそんな里山と人のかかわりがテーマとなる。名古屋で開催される生物多様性条約第10回締約国会議(CBD/COP10)では、日本政府が提案する「里山イニシアティブ」という言葉に注目が集まることだろう。国際会議に「なぜ里山が」といぶかる向きもあるかもしれない。それは突飛なことではなく、里山=SATOYAMAは国際用語としても認知度が高まりつつある。

  なぜ国際的に里山なのかと言うと、まず生物多様性(biodiversity)と相性がよい。多くの動植物を育み、人々が恩恵を受ける場所でもある。そんな里山について、国連大学を中心としてサブグローバル評価が行われている。日本国内では、里山を守るための行政や市民などによる取り組みが様々なかたちで始まっている。里山保全は日本の環境問題を打開するキーワードの一つとして浮上している。それを、世界の生態学者が意味で注目している。人と自然の共生という日本流の人と里山のかかわりについて、自然を収奪の対象と考えがちな欧米流の視点からは理解が難しいかもしれないが、実践事例に科学的な評価を加えることによって、少なからず理解は得られるように思う。

  超えるべき問題もある。たとえば、里と人の関係性を考えると所有権というテーマに突き当たるが、それより何より、人と自然が共生する場を守り活かすという新しい公共の概念をつくらなければ、人と自然はどんどんと離れていくのではないか、とも考える。人と自然が離れれば離れるほど、自然は荒れ、人は自然を失って、社会も行き詰る。新たな公共の概念とは、机上で哲学的に生まれるものでも、法律論で語るべきものでもない。試行錯誤の実践事例の中に潜むものと私は考えている。その中から人の知恵を拾い出し、どう整合性のとれた知恵の輪としてつなげるかが問われるのであろう。それが、里山復権の第一歩であると思う。

 ⇒20日(土)朝・金沢の天気 はれ

コメント (2)
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