群発地震が続く能登半島の珠洲市できょう21日午前10時42分に震度3の地震があった。ショッキングな映像もユーチューブで流れている。観光名所の一つでもある見附島の側面崩落の様子だ。19日午後3時8分の震度6弱、そして20日午前10時31分の震度5強の揺れで、見附島の側面の土煙を上げて側面が崩れた=写真・上=。
見附島周辺は海水浴場にもなっていて、これまで何度も行ったことがある。高さ28㍍、周囲400㍍の島で、軍艦がこちらに向かってくるかのようなスケール観があるので、「軍艦島」とも呼ばれている。珠洲市は珪藻土の産地で、見附島も珪藻土からなる島で長年の風化や浸食でいまのようなカタチになったとされる。
見附島の海岸一帯は能登半島国定公園に指定されている。眺めていて面白いのはヘッドの部分の「原生林」だ。珪藻土は雨水を蓄えるため、植物の生育にはとてもよい環境でもあり、クロマツやシイ、ツバキなどが生い茂る。そして、島の森にはカラスやサギ、ウ、カモメなどの鳥も飛び交っている。
見附島の近くにある海岸べりの公園に、万葉の歌人として知られる大伴家持が珠洲を訪れたときの歌碑がある=写真・下=。「珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり」。748年、越中国司だった家持は能登を巡行し、最後の訪問地だった珠洲で朝から船に乗って越中国府に到着したときは夜だったという歌だ。ルートからすれば、船に乗ってしばらくすると見附島の横を通って航行していたはずだ。しかし、見附島を詠んだ歌はない。
ここからは空想だ。見附島の名前は弘法大師(空海)が佐渡島から珠洲に船で渡ってきたときに名付けたとの言い伝えがある。空海の生まれは宝亀5年(774)なので、家持が珠洲を訪れたのはそれ以前の話だ。つまり、家持の「珠洲の海」は当時この島を称した言葉ではなかったか。文献をベースにした訳ではなく、勝手な解釈である。
話は冒頭に戻る。見附島は波浪風雨による侵食で岩盤が年々削り落とされている。今回の地震でもさらに側面が崩落した。自然の猛威にさらされながらカタチを変えてきた。何万年とかかって変貌してきた島の歴史の一端を見た思いがした。
⇒21日(火)夜・金沢の天気 くもり
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