織田信長や豊臣秀吉が名をはせた安土桃山時代の絵師、長谷川等伯は能登半島の七尾で生まれ育った。等伯の「松林図屏風」を初めて鑑賞したのは2005年5月、県立七尾美術館で開催された等伯展だった。この作品は東京国立博物館で所蔵されているが、七尾美術館が開館10周年の記念イベントとして東京国立博物館と交渉して実現した。当時、国宝でもある等伯の作品が初めて能登に里帰りしたということで長蛇の列だった。
その長谷川等伯をテーマとする演劇「等伯~反骨の画聖~」がきょうから七尾市にある能登演劇堂で上演されている。無名塾と市民キャストによる合同公演で、演出は仲代達矢氏だ。さっそく鑑賞に行った。(※写真は、国宝「松林図屏風」・出展・国立文化財機構所蔵品統合検索システムより)
感想から先に言えば、京都で画壇の一大勢力となっていた狩野永徳らの狩野派に、能登からやってきた等伯が挑み、名刹の障壁画や天井絵などを手掛けて狩野派の壁を破っていく。下剋上の戦いを制したかと思ったときに、親交があった千利休が切腹を余儀なくされ、跡継ぎの長男・久蔵が病で亡くなる。その後に古里である能登の風景の「松林図屏風」を渾身の想いで描く。「松林図」に等伯が込めた想いとは何だったのか。強風に耐えて細く立ちすくむ能登のクロマツの林に、等伯は自らの心を重ねたのだろうか。等伯の人生ドラマはここで終わる。
演出を担当した仲代氏は「松林図」を描いた等伯の心情をこう表現している。「天下一の絵師となるために政りごとに阿(おもね)るかのような、世俗に仕えた彼の一面を見るような気がするのである。とは言え、彼はその世俗に流されることなく、彼自身の独自の世界を切り拓いていった。それは、『松林図』に象徴されるように、世の中の動きとはっきり一線を画した、彼の孤高の世界だったように私には思えるのである」(「等伯~反骨の画聖~」公式パンフレットより)
等伯が『松林図』を描いたのは1594年、56歳のころだった。その後、大徳寺や南禅寺で襖絵を手掛け、僧侶の地位である「法眼」に叙せられる。時代は江戸幕府へと移り、家康の命だったのだろうか、72歳で江戸に向かうも発病。到着して2日後に亡くなったと伝えられている(同)。墓は等伯が上洛し身を寄せた京都市上京区の本法寺にある。
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