犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

中村哲医師のチームワーク

2024-12-25 22:28:45 | 日記

最近届いた『ペシャワール会報』に、中村哲医師の昔の文章が掲載されていて、それを読んでしばらく考えさせられました。「チームワークに難儀するのはどこも同じである」で始まるこの一文は、アフガニスタンの無医地区でチームを束ねてゆくことの難しさを語っています。少し長くなりますが引用します。

えてして人間は自分の行為で治ったと信じがちである。これは世界中、変わらない。告白すれば、実は医者の世界でもそうで、はたして薬が効いたのか、放置しても治ったのか分からないことが案外少なくない。(中略)ただ、正しい診断さえあれば見通が予測でき、患者の不安を鎮めることができるのみである。臨床経験が豊富な医師なら、分かるはずである。
だが、医師の少ない現地では、これまた極端。一人ひとりが自分の経験に自信をもつ。その自信が日本人の一般常識からみて尋常ではないのだ。一匹狼の集合だと考えて差し支えない。私は神経が専門だが、赴任の初期、部下の看護師が神経の解剖と機能をたっぷりと講義してくれた。「釈迦に説法、それくらいは知っている」と言いたかったが、診療意欲をそがぬよう黙って聞いた。これにはかなりの忍耐が要る。
この一匹狼の群れを束ねるのは容易ではない。一番の解決法は、ことを起こすときに指導者たる本人が先頭に立ち、実績で語ることである。いわば遊牧民的な気風で、マニュアル式の組織的な集団は現地向きではない。

中村医師の強靭な精神力が、現地でこうやって培われたのかと思うと同時に、その精神の柔軟さというか、ゆったりとしたユーモアの精神が基調に流れているのを感じます。
人は、おのがじし持っている信念や自負といったものに支えられてようやく生きています。そして、それが自己満足や排他主義に陥っていくことも経験的に知っています。しかしながら、その隘路から人も自分も解き放つ術について、明確に語りうる人は少ないと思います。
頑なになりがちな自らの精神を解きほぐすと同時に、人の精神をも解き放って、ひとつのチームにまとめあげることを、中村医師は日常的にやっていたのでした。

この文章は次のように結ばれていて、中村医師が何を遠ざけようとし、何を愛そうとしていたかが分かります。

グローバリゼーションという名の、世界を支配する人為と欲望の巨大な組織化に比べれば、現地の人間の「過剰な自信」と「チームワークのなさ」が、何やらかわいらしく思えて仕方なかった。(中村哲医師アーカイブ2004年『ペシャワール会報No.162』2024.12.4)

力や数を頼みに、主義主張を無理やりに通そうとすることを憎み、その一方で、いざとなったら強力なチームになりうる一匹狼たちを、中村医師は愛していたのだと思います。


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光の如く年を迎うる

2024-12-19 00:42:00 | 日記

福岡市の繁華街天神の夜のクリスマスマーケットに出かけました。
家族そろっては、初めてのことです。
コロナ禍明けの昨年は、娘たちの就活インターンや、友達付き合いなどで一緒に出向くことはなかったのです。

雑然たる日々のすきまに見えきたる光の如く年を迎うる
(高安国世『光の春』)

出店で買ったホットワインを飲み干そうとして空を見上げると、会場に並んだサンタ像の向こうに、雲間に浮かぶ月がありました。この歌のように、雑然とした日々のすきまに、ふと現れた月の光です。光に照らされて、ひとり立ちしようとしている娘たちと我々夫婦の、来年のことを思います。

月の近くには輝く木星が浮かんでおり、こんな歌を思い出しました。

真砂なす数なき星の其中に吾に向ひて光る星あり
(正岡子規『竹乃里歌』)

明治37年(1904年)子規の没後にまとめられた、遺稿集に収められた一首です。
畏友、高浜虚子が子規のために、障子に替えてガラス窓をしつらえたのは、明治33年(1900年)のことなので、明治34年(1901年)に詠まれたこの歌は、寝床からガラス窓越しに見上げた星を詠んだものに違いありません。

前掲歌の「すきまに見えきたる光」と同様、先の見えない不安の中に希望を届ける光の力が、ここにあります。「吾に向ひて光る星」は、かけがえのない友なのかもしれません。

社会人となり、不安のなかに飛び込んで行く娘たちの新しい年が、良き友に恵まれ、そして家族で見上げた、あたたかき光の如き年であれと願いました。


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ひょっとしたら自分だったかもしれない

2024-12-11 23:05:05 | 日記

少し前のことになりますが、長崎で被爆して被爆者手帳を持っている方の相続に携わりました。遺族に県から212,000円が振り込まれており、これが「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づく「葬祭料」であることを初めて知りました。むろん非課税財産です。戦後80年にもなろうとしている今日に至るまで、実務の最前線にいるつもりでいた自分の無知を激しく恥じました。

今後、存命している被爆者の数も減り、この制度に基づく受給者も減っていって、制度を知らないことを恥ずかしいと思うこともなくなるのでしょう。もっと恐ろしいのは、被爆者の存在そのもの、被爆の体験そのものの記憶が薄れることであり、これらの事実を知らないことを、恥ずかしいとすら思わなくなることだと思います。

オスロでの日本被団協、代表委員の田中熙巳さんの演説を聞いて、そのときのことを思い出しました。被爆者の平均年齢が85歳に達し、10年先には直接の体験者として話ができるのは、数人にまで減少するだろうと述べておられます。

現存する被爆者の数が減り、被爆の記憶が薄れることの恐ろしさは、「悲惨さを忘れること」ではなく、ひょっとしたら自分が被爆者だったかもしれないという「視座」を、持ち得なくなってしまうことではないかと思います。田中さんは演説の中で、「皆さんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない」と述べておられ、そうした想像力が薄められていくことをこそ、危惧されているのだと思いました。

私より少し上の世代で、ジョーン・バエズの『フォーチュン』(THERE BUT FOR FORTUNE)をしみじみと聞いたり、仲間と歌い合ったりした人たちは多くいたと思います。床に寝転がる酔っ払いや、空爆におびえる人々を、私はひょっとしたら彼らだったかもしれず、彼らは私だったかもしれない、そう考えることを倫理の礎としてとらえることが、普通にできていた時代です。

今では、ひたすら壁をつくり、壁の内側のことだけを考えることが流行りのようで、これを行き過ぎたグローバル資本主義の反動だなどと語られることがあります。しかし、私はこれを端的に、倫理の礎の崩壊だととらえるべきだと思います。

被爆の事実や、被爆者の存在を知らないことを恥ずかしいと思うこと、ひょっとしたら自分だったかもしれないという想像力の欠如は、人として最も大事なものが欠けていること。このあたりまえの感覚を取りもどすことの重要さを、オスロでの演説を聞いて思いました。


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歳月人を待たず

2024-12-07 23:01:14 | 日記

稽古場に「歳月不待人」の掛け軸がかけられています。
これを見ると、残された日数では、とても年初に設定した目標を達成できないと、毎年のように思います。

ところで、陶淵明は「及時當勉勵 歳月不待人」(時に及んでまさに勉励すべし 歳月人を待たず)と詠んでいるので、掛け軸の言葉も「時の流れに負けないように刻苦勉励しなさい」という警句のように解されます。しかし、詩の全体を読むとまったく違う意味であることがわかります。

得歡當作樂  嬉しい時は大いに楽しみ騒ごう
斗酒聚比鄰  酒を用意して、近所の仲間と飲み明かすのだ
盛年不重來  血気盛んな時期は、二度と戻ってこない
一日難再晨  一日に二度目の朝はないのだ
及時當勉勵  楽しめる時はおおいに楽しもう
歳月不待人  歳月は人を待ってはくれないのだから

ここで言う「勉励すべし」とは、「刻苦勉励」の語から連想されるような、勉学に励むことを指すのではなく、目の前にある営みに勉め、励みなさいという意味になります。文脈からすると、「酒席をおおいに楽しもう」となるわけです。
つまり、この詩はスケジュール帳をながめて眉間にしわを寄せている様子ではなく、まさに酒宴を始めようとしているときを詠ったものです。忘年会の乾杯の前の一言に、この「うんちく」を混ぜると趣きがあるかもしれない、などと思います。

それはさておき、これが酒を好む隠遁詩人、陶淵明の享楽的な詩にとどまらないのが、興味深いところです。前掲の句が収められている『雑詩其一』の最初の四句には、こうあります。

人生無根蒂 人生は木の根や果実のヘタのような拠り所が無い
飄如陌上塵 まるで、あてもなく舞い上がる路上の塵のようだ
分散逐風轉 風のまにまに吹き散らされて
此已非常身 もとの身を保つこともおぼつかない

人生の無常の姿を写しておいて、その哀しみを反転するような爆発的な歓びを、詩の後半で表すのです。
無常であることを、骨身に染みるほど味わい、その寂しさを誰にも代わってもらえないことを思い知らされて初めて、人は深いところで人とつながり得るのだと思います。そうやってつながり得た人との楽しいひと時を、どうして疎かに費やすことができるだろうか。
そう読むと末尾の「時に及んでまさに勉励すべし、歳月人を待たず」は、重たい言葉として響いてきます。


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脚下照顧

2024-11-30 22:55:08 | 日記

稽古場の茶掛に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」の言葉がありました。師走のあわただしさに、我を忘れないようにという戒めなのだと思います。

これは道元禅師の言葉で、自分の足元をよく見よ、という意味から転じて、人のことをあれこれ言う前に、自分自身を振り返ってみよ、という風に解されたりします。
道元は、しかしもっと即物的な意味で「脚下」を捉えていたようで、履き物をきちんとそろえることを、日々の修行のなかに取り入れていたのだそうです。自らの履き物もそろえることができないのは、心が乱れている証拠なのだと。

忘年会の季節ともなると、たくさんの靴が並べられた景色を見ることになります。
並んだ靴を見ていると不思議な感覚にとらわれます。ついさっきまで履いていた本人と行動を共にしており、本人の「今」を体現していたものが、玄関先で突然「今」から切り離されて、そのまま黙って他の靴たちと並んでいます。

他の靴もついさっきまで「今」を体現していたのだとすると、靴たちは、それぞれの「過去」を背負ったまま仲良く並んでいて、その様子は、まるで並んで立つ墓標のようだと思ったりします。
履き物を脱ぐという行為は、そうしてみると自分の過去を、ひと様の前にさらけ出すということにも等しいのではないか。脱いだ履き物をそろえることは、さらけ出す自分の過去に、きちんと向き合うことになるのではないか、などと考えます。

以前勤めていた会社に、元ホテルマンという人がいました。その人が、外回りに出かける上司や同僚に対して大きな声で「いってらっしゃいませ」と声掛けするのです。私はついに、この掛け声に唱和する勇気がなかったのですが、その人の「人に会ったら必ず靴を見る」という言葉は忘れられず、30年以上経った今でも出かける前に、靴に布を当てるようにしています。靴の手入れを小まめにする人は、身だしなみ全てに気を配る人だからだ、と捉えていたのですが、「脚下照顧」の言葉について考えるうちに、もっと別の意味合いも込められるような気もします。

靴をきれいに保つこと、きちんとそろえて置くことは、いずれひと様に見られる過去の姿からさかのぼって「今」を丁寧に生きることではないのか。「脚下照顧」とは、今の自分自身を省みなさいという意味にとどまらず、ここに至るまでの過去に責任を持ちなさいという意味も込められているのではないか。茶掛に触発されて、そんなことを考えました。


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