哲学者の鷲田清一さんが著書『じぶん・この不思議な存在』(講談社現代新書)で引用されている精神科医ロナルド・D・レインの『自己と他者』に次のような一節があります。
ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。〈だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです〉。
鷲田さんは次のように解説を加えます。
だれだってだれかのためにお茶をいれることはできる。しかしそれが、求められたからでなく、業務としてでもなく、もちろん茶碗を自慢するためでもなくて、「だれかのため」「なにかのため」という意識がまったくなしに、ただあるひとに一杯のお茶を供することにあって、そしてそれ以上でも以下でもないという事実は、それほどありふれたものではない。レインの患者はその事実に胸を熱くしたのである。(前掲著 107頁)
「ひとのためになにかをしてあげる」という意識にかすめとられることなく、ひとのためになにかをなしうる希有な瞬間、希有な関係に立ち至ったとき、ひとは感動します。
鷲田さんによれば、あるひとのためになにかを「してあげる」という意識のなかでは、自分と他者とは「ほどこすひと」「ほどこされるひと」とに転位され、それぞれが取り替えのきかない個別性を失って、匿名化してしまいます。
そう考えると、匿名化される前の「わたし」とは、お茶をいれてあげたり、いれてもらったりする、ただそれだけの関係によってようやく想い起こされるのだ、と言い換えることができるでしょう。レインの患者が特別に不幸だったのでもなく、わたしを、取り替えのきかない「わたし」にしてくれる、そういう「他者」が姿を見せるのは、鷲田さんの言うように「それほどありふれたことではない」のです。
レインの患者が、その他者との関係に身を置いて「稀有な瞬間」と感じたというのは、決して大げさなことではありません。お茶をいれるというそれだけのことだからこそ、取り替えのきかない「わたし」というものが立ち現れる瞬間を、鮮やかに感じさせたのだと思います。