河合隼雄さんは著書『しあわせ眼鏡』(海鳴社 1998年)で、子ども劇場の主宰者から聞いたエピソードをもとに、興味深い指摘をしています。
それによると、最近の子どもたちは劇を見ても、やじを飛ばしたり、悲しい場面のときに妙な冗談を言って笑わせたりして、劇の流れを止めようとするのだそうです。ちょうどクライマックスに達するのを妨害しているようだと言います。
しかし、劇団の主宰者をより落胆させるのは、この子どもたちの態度を見て、その子の親たちが「今日は子どもたちがよくノッていましたね」と喜んでいるのを知ったときです。
舞台こそが世界のすべてであると信じ込むのでもなく、逆にこれはしょせん芝居に過ぎない、と斜に構えてしまうのでもない、「ちゃんとした大人」の態度を身につけることについて、前回触れてみました。
前述の劇場主宰者の話を聞くと、そもそも「ちゃんとした大人」になることそのものを、大人たちが阻んでいるように思えます。むろん「子どもたちのノリ」を喜んでいる当人は「大人」はないので、正確には「大人になりきれない子どもが、子どもをちゃんとした大人になることから妨げている」と言うべきなのでしょうが。
人生という舞台の上で大人でいる、ということは、舞台の上で「善きこと」が起きることを知っているからこそ可能なことです。舞台の上で素晴らしいことが起きているとき、われわれはそこに没入し、我を忘れる体験をして、再び我にかえるときにその体験を吸収します。
河合さんは、この我を忘れるという貴重な体験は、放っておいても実現するのではないことを、前のエピソードに続けて指摘します。
「我を忘れる」ことは、しかし、怖いことだ。これができるためには、自分を投げ出しても「大丈夫」と抱きとめてもらう経験を持っていないと駄目である。死と再生の繰り返しが人間を成長させるという考えから言うと、このような身の投げ出しと受けとめによって、人間は強くなってゆき、「我を忘れる」体験を自分のものにすることができるのだ。
ところで、最近の子どもたちは、このような身の投げ出しと受けとめの経験が少なすぎるのではなかろうか。このような受けとめは、簡単に言ってしまうと「まるごと好き」と誰かに言ってもらうことだ。(河合 前掲書)
我を忘れることと、我にかえること、この視点シフトの運動こそが自省するということであり、知性の別名であるとすれば、この視座の運動を支えるものは、みずからを「まるごと」認めてもらうという経験にほかなりません。
われわれは、人生という舞台の上に、事前の承諾もなく予備知識もなしに、ポイと置いておかれたような存在です。そう考えるならば、この舞台の上に置かれたことそのものを、何の条件もなく認めてもらう経験が、成長や知性や、ひいてはもろもろの善きことのスタートであることは、腑に落ちるように理解できます。