眠れずに過ごした夜が、白々と明けようとするとき、「願わくば、我に艱難辛苦を与えたまえ」のひと言が頭に浮かんで、ふっと気持ちが楽になるという経験をしました。
山中鹿之介が、主家である尼子家再興のために「願わくば、我に艱難辛苦を与えたまえ」と三日月に祈った話は有名です。この「艱難辛苦」のくだりは、その潔さやよしとするとしても、開き直りの大言壮語のようにも聞こえて、完全に感情移入することはできないかもしれません。
しかし、不安や哀しさで眠れぬ夜を過ごしたことのある人ならば、鹿之助の切ない思いを自らのうちに蘇らせることができるのではないか、と思います。
尼子十勇士のひとり山中鹿之介の悲願は、尼子家の再興でした。
山陰地方に栄えた尼子氏は、毛利氏に敗れ国を追われます。京都に逃れた鹿之助は、尼子の分家の勝久を立てて出雲新山城に陣を敷きました。
しかしこの城が毛利の軍勢につぶされ、伯耆の地に移ると、そこでも毛利に敗れて京都へ敗走します。鹿之助は、織田信長を頼って、因幡で尼子再興の軍を起こしますが、毛利の吉川元春に負れます。
鹿之介は、羽柴秀吉に従って戦績をあげ、褒美にもらった上月城に勝久を迎えて、ようやくお家再興が実現します。しかしそれもつかの間、城は毛利勢に囲まれて落城し、勝久は自害、鹿之介も捕らえられて輸送中に謀殺されてしまいました。天正6年(1578年)7月17日、数え34歳の人生でした。
壮絶な敗走と再起の繰り返しの生涯です。
鹿之助の身に置き換えてみれば、あのときああしていれば、あの失敗さえなければ、あの裏切りさえなければ、そういう思いに苛まれていたに違いないと思います。しかし、これほど多くの挫折を前にして、挫折にのみ心が囚われていたとすると、とうてい再起に向けての不屈のエネルギーは湧き起こっては来なかっただろうとも思います。
そこで、冒頭の「願わくば、我に艱難辛苦を与えたまえ」の祈りにたどり着いたのではないでしょうか。
喜んで障害を受け入れよう、そしてこの障害を切り抜ければ、きっと明るい未来があるはずだ、そう考えていれば、眼前にあるのは霧の晴れた広大な世界に他なりません。
鹿之助は、艱難辛苦に囚われるのではなく、その先にある光明を目指す力をこそ、欲したのだと思います。
日々の生活のなかでも、なんでもない苦労が人生を覆う巨大な黒雲に思えてくることがあります。人生に立ちはだかる壁があって、そこにのみ目を向けると、人生そのものに対して萎縮してしまいます。
眠れぬ夜に光を求め、みずからを奮い立たせたであろう姿を、私も我がものとしたいと思います。