宮沢賢治の「明治四十四年の一月より」とされる歌集に次の歌があります。
ひるもなほ 星みるひとの眼にも似る さびしきつかれ 早春のたび
この歌が詠まれた前年の1910年には、「1月の大彗星」が観測されています。 この星は「真昼の彗星」とも呼ばれ、白昼でも見ることができたと言われています。この歌に詠まれた星はこの大彗星だったのでしょうか。下の句の「さびしきつかれ早春のたび」から読み返すと、一年前に確かに現れた彗星を真昼の空に探すように、見果てぬ夢を追う姿を描いているようにも見えます。
この時期、賢治は盛岡中学に通うものの、家業を嫌い将来を悲観して、鉱物採集や星座に夢中になっていました。賢治の「さびしさ」は、どこにも身の置き場のない焦りと、ない交ぜになっていたのだと思います。
たくさんの生き物を犠牲にしなければならない自分の生を嫌い、太陽に焼かれようとしても、星々に向かっても拒絶され、行き場を失って青白く燃えあがる「よだかの星」。賢治は、やがてみずからが描き出す「よだか」や、井戸に落ちて無為に死ぬ間際に赤く燃え上がる「さそり」のように、どこからも弾き出されてしまったものと、みずからとを重ね合わせていたのかもしれません。
わたしは賢治のこの歌を、おおむねそのように読んでいたのですが、このような感傷的なものではない、のちの作品に結実する賢治の壮大な宇宙観の萌芽ではないか、そう思うようになりました。
「銀河鉄道の夜」のなかで、ジョバンニはいつのまにか銀河をめぐる鉄道の車内にいることに気付きます。銀河は手の届かない遠い彼方に浮遊しているのではなく、まさにわれわれがその只中にいることに気付くのです。
これは物語の設定にとどまるものではなく、事実、地球上に1日1万トンもの宇宙塵が降り注いでいるというのですから、銀河の大渦巻きがいま目の前にある世界をも巻き込んで昼も夜も音を立てて回転しています。そうやって自分の立っているこの世界を改めて見ること、そのことを「ひるもなお星みるひと」と読むこともできると思います。
それは、より巨視的な見方で世の中をとらえるというより、あたかも死後の世界から、この世界をとらえ直すことに近いのではないでしょうか。今生きている世界のどの部分にも微細に入り込み、それ自体が大きな運動の中にありながら、今生きている世界の道具立てでは決して記述できないもの、それこそが「星みるひと」の世界です。いままで見てきた世界の見方を、カッコに入れて初めてみることのできる世界ともいえます。賢治はこれを銀河鉄道のなかで「幻想第四次世界」と呼びました。
次の歌も十代の賢治の歌です。
なつかしき地球はいずこいまははや ふけど仰げどありかもわからず
そらに居てみどりのほのほかなしむと 地球のひとのしるやしらむや
身体は地球にいて、視点だけが遭難した宇宙飛行士のような中空に置かれています。これがこの世の外からこの世を見る視点だとすると、「銀河鉄道の夜」のジョバンニはそこから大きく迂回して帰ってきて、内外の区別なくこの世を見る視点へと昇華したものと言えるのではないでしょうか。