通勤の心かろがろ傷つかぬ合成皮革の鞄に詰めて
(松村由利子『薄荷色の朝に』)
毎日新聞の記者で、主に科学関係の部署で活躍していた松村由利子さんの歌です。
上の句で心軽やかに通勤する姿を想像させて、下の句で大きく意味を反転させます。多少手酷く扱っても傷つかないような合成皮革の鞄に自分の心を詰め込んで、会社に向かう詠み手の姿が浮かんできます。「心かろがろ」は彼女の矜持のようにも響きます。
松村さんの著書『31文字のなかの科学』(NTT出版)に、彼女の苦闘の一端が書き綴られています。
彼女が、新聞社の生活家庭部という、主に家庭面の記事を書く部署に所属していたとき、一度だけ大きなネタに遭遇したことがあったのだそうです。
1990年に承認申請されていたピルが、1992年に解禁「凍結」ということになりそうだ、という内容です。
ピル承認によってコンドームが使われなくなると、エイズが蔓延するというのが中央薬事審議会の解禁凍結の理由だったそうです。これをデスクに報告したところ、承認ならニュースになるが、凍結ではダメだと一蹴され悔しい思いをしたと書いています。
読売新聞が朝刊一面トップで「ピル解禁を“凍結”/エイズまん延懸念 薬事審」と報じたのは、その数日後でした。松村さんの特ダネはこうやって幻となりました。
ピルが承認されたのは1999年、承認申請から9年もの歳月が経っています。バイアグラが、承認申請からたった5か月で99年に承認されたのは、まったく皮肉な出来事だったと松村さんは同書で述べています。「どう見ても、薬事行政が女性よりも男性のことを優先したような印象をぬぐえなかった」と。
山鳥の尾のしだり尾のながながし時たちにけりピル承認に
(大滝和子『人類のヴァイオリン』)
この歌に出会った時に、「異国で同郷人に会ったような喜びを感じた」と松村さんは同書で述懐しています。
ピル承認までに欧米諸国に遅れること約40年もかかるという理不尽へのやり場のない憤りを、百人一首の本歌取りの技巧でさらりと詠う作者への共感でもあるのでしょう。冒頭の歌の「心かろがろ」の姿に通じる、気高い佇まいです。