桑田佳祐が歌ったボブ・ディランの歌詞「答えは風に吹かれている」について、考えたことの続きです。
話はだいぶ昔に飛びますが、養老孟司が「人生は答えだ」と言ったのは、東日本大震災直後のことです。震災後、いろいろな人がコメントをしましたが,私にとってこれが最も印象に残っています。少し長くなりますが引用します。
私はいつも、人生は「答え」だと言うようにしています。
多くの人は逆に考えています。人生は「問い」ではないのに、若いうちは特に勘違いをしている。だから「人生とは何か」「生きるとは何か」と考えるのです。
この年になってわかるのは、今の自分がこうしてあること自体が、何かに対する答えだということです。それも「こうやったからこうなった」という単純な答えではない。自分がいままでやってきたこと、社会とかかわってきたことの結果として表にあらわれているのが、ただ今現在の自分である。いろんなことに反応してきた結果が今の自分です。
それを何かに対する答えだと、私は表現しています。あなたがいまこうしてここにいる。そのこと自体が人生という質問の答えなのです。(『復興の精神』新潮社 2011年 33頁)
大震災のような出来事は、私たちになすべきことが何かを問いかけ、私たちは何をおいても、まず答えを出さなければなりませんでした。待ったなしの決断を迫られたときに、その答えの積み重ねこそが、結局は自分であると改めて気付くのです。
ボブ・ディランの「答えは風に吹かれている」を考えていて、思い至ったのが養老孟司のこの言葉でした。
「ここに答えがある」といったセリフをディランは一切信用しないと言っていますが、それは「人生とは何か」とか「生きるとは何か」という「自問」に対して、都合の良い独り言のように「自答」しているだけだからだと思います。
問いは予期しないところから襲ってきて、問われた側は風に吹かれるように、あたふたと答えを紡ぎ出さなければならない。けれども結局はそれを自分として受け入れるしかないではないか、そうディランは歌っているのだと思います。
人生に対して問うのではなく、人生からの問いに答えなければならないと、同じように考えたのは、精神科医ヴィクトール・フランクルでした。アウシュビッツの強制収容所を生き延びた人です。多くが正気を失い自ら命を絶つなかで、収容所を生き延びた自らの考えを「コペルニクス的転回」と呼んでいます。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。(『夜と霧』みすず書房)
大震災にせよアウシュビッツにせよ、桑田佳祐が「風に吹かれて」を歌うにきっかけとなったウクライナ戦争やコロナ禍にせよ、それらは人の生活を圧倒的な力で包囲して、我々を絶望に導きかねないものです。しかしそれらを前にすることで、人生は問いの前に置かれているのだと気付きます。そしてそのことによって、人生は「答え」だと改めて覚悟しうるのだと思います。