千利休の「わび」について、千宗屋さんが著書『茶 利休と今をつなぐ』のなかで、利休の師である武野紹鷗と比較して述べています。それによると、紹鷗、利休それぞれの「わび」の世界の違いは、次の二つの和歌の対比で表すことができるのだそうです。
み渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
(藤原定家)
花をのみまつらん人に山里のゆきまの草の春をみせばや
(藤原家隆)
「み渡せば」の歌は、瞬間的に想起させた花や紅葉の彩りが、直ちに不在となるレトリックによって物寂しい世界を演出するものであり、そうやって訪れる余韻こそが武野紹鷗の「わび」の世界です。しかしながら、この歌で花や紅葉はいわば道具立てとして使われてはいても、花や紅葉の息吹は伝わってはきません。
これに対して「花をのみ」の歌は、『南方録』のなかに記されるように、利休の「わび」の世界を表しています。今ある「雪間の草」から無限のイメージを膨らませてゆく、能動的な「わび」の世界です。
雪に埋まっているときや、咲き誇る花の姿のときには、受け取ることの難しいサインを、われわれは雪間の草から受け取ることができます。雪に埋もれていた冬も、芽吹こうとする春も、いずれの時間も折りたたまれるように、そこに息づいています。それは「命の循環」といった観念的な言葉も吹き飛ばすような、もう始まっていて二度と同じようには繰り返されない、いのちの働きとも言うべきものだと思います。
お茶をはじめて間もない頃のことで、今でも忘れられない思い出があります。
翌日が大雪になるというニュースで持ちきりだったにもかかわらず、茶杓の銘を「春風」と付けてしまいました。深い考えもないことだったのですが、稽古の相手をしてくれた熟練の社中が、それこそ春風のような笑顔で応えてくれました。
「そのような心持ちこそが春を呼ぶのですね」と。
そのとき、ほんとうに温かな風が吹いたように感じたものです。
「いのちの働き」と言うとき、私は頭のなかだけで考えるのは止めにして、そのときの温かな風を思い出すようにしています。