「本を読もう!VIVA読書」のエントリーで見た。灘高校のカリスマ英語教師、キムタツ先生が書かれた参考書の中に、VIVAさん本人が寄稿したというコラムが紹介されていた。VIVA読書は最近更新が少ないのが残念な読書ブログ。
受験のプロに俺が意見するのもどうかと思うが、しかし引っかかった箇所が一部あったのでそれについて書いてみる(心の広いVIVAさんはそれを許してくれるだろう。たぶん)VIVAさんの記事に全文は載っているし、またキムタツ先生の書いた本というのもそこで紹介されている。
以下素人による、偏見に満ちた私見:枠内は引用。赤字は俺による。改行箇所は無断で変更した。
日本の受験英語は、実はとてもうまく組み立てられており、それが理解できれば、勉強時間に比例して英語力は飛躍的に伸びるものなのです。英文解釈や読解、暗記をすればするほど力を蓄え、まるで巨木のように成長し、大学入学後には高級英字新聞までも自然に読めるようになる生徒は珍しくありません。
高級英字新聞を読めるようになる前にもっと必要なことがあると思う。低級タブロイド誌(英国で言うとThe Sun, Mirror等)やそこら辺で普通に売ってる雑誌(PLAYBOY, GQ, Vanity Fair, ELLE等)を読めることの方が、普通に暮らしていく上でたぶん必要な、「普通の会話のような言葉」が出来ることにつながると思う。英文学を研究して、オクスフォードの大学院に行こうとか、政治の研究でLondon School Of Economicsに行こうと言うのなら、「高級」な英語も確かに必要。しかし、学友たちとの会話に常に「高級」な英語が出てくるとは限らない。
あくまでも私見に過ぎないが、日本の学校教育は「高級な英語」を教えるが、それは常にいつも使える英語とは思わない。
例えば、NYの高校が日本語の授業で、日本経済新聞や文藝春秋を読めるようになるような授業を行ったとするとどうだろう?その生徒が日本にやって来たとする。彼の口から出る日本語はとても堅苦しいはずである。そして彼は日本のテレビドラマを見てもさっぱり分からないはずである。あんなに勉強したにも関わらず。日常会話に困るはずである。あんなに勉強したのにも関わらず。たぶんその学校では教えてもらえなかった、「ビミョウ」とか「考えとく」とか「超ムカツク」という言葉を知らなかったからではないだろうか。もちろん低級な日本語だが。逆に言えば、大学受験の英語で教えているのかさっぱり分からないが、It sucks. You stink.のような表現は使うことは褒められなくても、聞き取れた方がよい思う。
しかし、高級な英語を駆使できる方が良いということはなんら否定しない。しかし、低級な言葉も言葉であることに変わらない。
【ここで質問】
1.今までに、高級な英語が出来た方がいいなあと感じたことと、低級な英語が出来たらいいなあと感じたこと。どっちが多かった?
2.今までに、英語を読める・書けると、聞ける・話せる。どっちが出来たらいいなあと思ったことが多い?
ところが文法を軽視して、辞書に載っている単語の意味とカンだけを頼りに英語をやってしまうと、やっかいな暗記科目に早代わり。試験前の苦労むなしく、詰め込み知識はすぐに雲散霧消。結局、数年にわたって英語に費やした膨大な時間が無駄になってしまいます。英語の成績が上がらないという人は例外なくこのパターンでしょう。そうなると受験英語は激しい批判にさらされます。「中学・高校・大学と10年間英語をやって、多少読めるかもしれないけど、ちっともしゃべれない。アメリカなら5歳の子でも流暢に話すのに…」と。会話重視の英語教育やゆとり教育の指導要領改定は、こういった批判に応えるためのものでしょうが、その批判も対策も的外れ。
日本の受験英語の勉強はいうなれば漢文学習のようなやり方です。日本人はあの難解な漢字だけでできている文章に、勝手に“返り点、一・二点”などを付けて、中国人にはまったく伝わらない『子いわく…』というような読み方で、正確に“読解”してしまいました。ところが英語と違って 「漢文を読めてもしゃべれない」 などという批判は出てきませんね。
江戸時代までは漢文を、明治以降は英語を解読することによって、他国の優れた文明を吸収し驚異的な発展を遂げてきたのが翻訳大国、日本です。現代でも、日本語で世界中の言語の本が読めると言われるほどで、読解好きは日本人のDNAと言っても良いくらい。そもそもなぜ入試に英語があるのかといえば、経済や法律、医学や建築などの高度な専門書を英語で理解するために必要だからです。当然、そこで求められるのは、会話能力というより英文読解力です。
日本の英語教育が文書から始まったのだから「まず初めに読むありき」とは、自論でもあるので、はたと膝を打った。江戸時代の人たちがすごいのは、解体新書やらルソーの契約論やらよく訳せたものだと驚嘆するし、その時代の人たちの知識欲、知性は今とは比べ物にならないに違いない。しかし、第二次大戦以降は、長崎の出島でしか外人が見られなくなったわけじゃあるまいし、「読む」以外の「聞く」「話す」機会はいくらでもあったはずである。
VIVAさんのおっしゃる「漢文のようなもの」とは至言。受験英語=漢文とすると、全てが腑に落ちる。漢文がちんぷんかんぶんだった俺にとっては、漢文は暗号だか古文書のようなものだった。「こんな単語、アメリカ人だって見た事ねえんじゃねえかな?」「こんな複雑な英文法、オーストラリア人で使った事あるやついるのか?」と、受験英語も古文書のようなものだった(遠い過去のことなので、今は違うかも知れない)
ここで一つ言いたいのは、日本で漢文を読める「必要」はないということだ。「教養」として身についている方がよいだろうが。欧米で言う所のラテン語のようなものだ。教養として身につけることがインテリのステイタスにつながる。
しかし、それも英語とかフランス語とかを出来た上での話し。普通の英語が出来ないのに、漢文のような、ラテン語のような「高級な英語」を学ぶことに優先順位を高くしてよいのだろうか?経済や法律、医学、建築に関して英語で読めることがそんなに重要なのだろうか?
大人になってから何人の人に訊かれたろう。
「どうすれば英語できるようになるの?」
つまり、かなりいい大学(いい大学の定義も難しいが)を出ているのに、中学・高校とかなり英語を勉強したはずなのに、できないと言うのだ。しかし辞書さえあれば確かに高級英字新聞のような類なら読めるようだ。しかし低級なものは読めないし、何より聞けない・話せない。映画は字幕がないと分からない。そして、それが故に大方の大人たちは「英語できるようになりたい」と思うのだ。
それが証明しているのは、学校で学んだ英語、受験のために必死こいて覚えた英語が後に何の役にも立たないと当の本人たちが思っていることだ(俺自身は何の役にも立たないと思っているわけではない。しかし現象面は彼らはそう思っていることを証明している)
また、面白い事実は彼らに文章を書かせる。例えば論文を英語で書かせると、異常に文章が長く、関係代名詞をやたらと使いたがる。それによって何を言いたいのかさっぱり分からなくなる。whichなど必要なときにだけ使えばいいのに。また論文で特に多く見られるのがtheが異常に多いか、少ないかどっちか。それが受験英語の弊害なのかどうかまでは分からない。
高級英字新聞や経済、医学について読めることはとても有意義なことであることは間違いないだろう。しかし、その手前にあることをすっ飛ばしてしまってよいのだろうか? 手前とは、簡易で日常的な表現のこと。
【ここで質問】
1.今までに、経済や医学の本や論文など難しい文章を英語で読む必要にせまられたことと、日常会話の必要にせまられたこと。どっちが多い?
2.法律や建築など難しい本を英語で読めたらいいなあと思ったことと、映画を字幕なしで見られたらいいなあとか、海外旅行に行って不自由なく会話できたらいいなあと思ったこと。どっちが多い?
さて、
VIVAさんの記事に一見いちゃもんを付けたように見えるかも知れないが、ほぼ97%は「おっしゃる通り」であり、残りの3%にツッコミを入れただけのことである。通常どれだけブログの記事が、「おまえそれは明らかにおかしいだろ」と思ってもノーリアクションにしてる。今回取り上げたのは、書店に売っている本に載っているコラムだから、単なる個人攻撃ではなく、それを取り上げた著者や出版社という大きなモノも含めてのいちゃもんなので、ま、いいかと書いてみた。さらには、大きなモノと言えば、文部科学省とか教育委員会というさらに大きなモノに対するいちゃもんなのだ。
受験の現場にいる人たちのせいではなく、教育制度を作る側の問題だと思う。
VIVAさんやキムタツ先生を含めた受験の現場におられる方達が、手前にあるものをすっ飛ばしてよいと考えているわけではなく、試験を作る側がそういう問題を作るから、そのような対応をしているのではなかろうか。つまり、大学側、教育を司る者達が手前にあるものをすっ飛ばしてる。そう感じる。
まあ、受験英語やら英語教育の遥か手前には、渋谷センター街辺りや歌舞伎町のドンキホーテの前やら横浜VIVREの前にたむろしている者たちをどうするのか、自分の考えを持てない者たちをどうするのか・・・・・・など、問題は山積しているが、アホ兼廃人の俺がとやかく言うことでもなかろう。
あらためて、考えるヒントをくださったVIVAさんに御礼申し上げる。
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※追記
もうひとつ。 まるで神話のように、英語専門家の中にも蔓延しているひどい誤解は、「日本人は文法ができても会話ができない」 というものです。
TOEICなどの国際比較を分析すれば、日本人の点数がアジアの最低レベルにまで落ちてしまったのは、会話ではなく、読解や文法ができなくなってしまったからだと簡単にわかります。現代の日本人はすでに会話問題はそこそこできているのです。
【最後の質問】
大人である、そこの読者のあなた。英会話できますか?