ロンドン大学の哲学の教授が客員教授として一年間東大で教える。そのときの見聞録。
日本を美化するでもなく、英国を美化するでもない、ありそうでなかった本。
鉄道に乗ると、いくつかの点が著者の注意を惹く。
第一点は、大勢の大人、それも企業の社長や政府高官だとしてもおかしくない年配の男性でさえ「戦争と平和」くらいの部厚い漫画雑誌を読んでいることだ。この種の雑誌の中身は、まだ十五歳にも満たない少女を含めて、挑発的なポーズをとっている女性の絵がどしどし出てくる。
武器や陰謀論に関しては、
第三点は、日本人は何かを無批判的に受け入れていたかと思うと一転して極度に猜疑心を動かせることがあり、逆に後者から前者に急変する場合もあるということである。
飲み会については、
後刻、コンパが始まると、話題は肩の凝らないものとなり、今度はめいめいが自分の趣味について語ることになった。
そう言えば、我々は酒の席でないと「本音」を語れなかったりする。
日本の都市は、ほとんど信じられないほど猥雑である。日本人は、望めば集団的に計画を立てることができるとくその評判にもかかわらず、「都市計画」という名に値するものは何もなく、人家は僅かな例外を除けば味もそっけもない箱と同じで、内装も実用一点張りでお世辞にも美しいとは言えない。
忘れるという粗暴な技術を会得した国ありとすれば、それは日本国である。
たいがいは、どこに国でも人は相手を見上げるか見下げるかするのだが、日本人はこの二つを同時にやることができる。
まことに、ここで大まかに単純化して言うならば、宿命に応えて、宿命そのものか、宿命への人間の隷属に、高貴さの要素を「吹き込む」道は三通りあると言えよう。その一は、宿命を免れるか正当化しようとすることであり、(西洋の応え方)、その二は宿命を英雄的に肯定するか、さもなければ悲劇的に宿命に屈服するかであり(ロシアの応え方)、その三は宿命への応じ方を「即興」する(そのつど適宜に対応する)ことである(日本の応え方)。
日本論ばかり読んでいても仕方ないけれど、たまに読むととても面白い。

今日の一曲
著者はサイモン・メイ。Rod Stewartで"Maggie May"
では、また。