スコット・トゥローの「無罪」のレビューでパールさんという方に以下のようなコメントを頂戴した。
読書 (パール)
2012-11-20 19:48:43
>本を読むという行為も同様に、何のためにしているのか分からなくなることがあります。
小中学生の頃、これを読まなければちゃんとした大人になれない本 というのがあるのだと 一人で思い込んでいました。
子ども向けの世界文学全集に載ってる作品を一つの目安にしながら、父親の本棚にあった日本の文豪の作品などにも手を出しました…ロシア文学の大作にも…つまんない~と思いながら無理して読んだ本もいっぱい…
20才を過ぎ、世の中にこんなに本が沢山あって、自分の時間には限りがあるのだから、読みたい本だけ楽しみのために読もう と決意。今日に至っております。
でも時々、虚しくなるというか、読書スランプに陥ることもありました。
多分、楽しいだけではいけないのだと、どこかで思っているのです。
自分のことばかり すみません。
ふるさんオススメの「ものがたり宗教史」を読んだら、急に読みたくなった「時の娘」に手を出しています。
昔読んだ時の記憶より、ずっとおもしろいのはなぜでしょうか。
男女の間と同じ? 愛情と縁? タイミング?…
な~んて ごちゃごちゃ言っているより、積読山を何とかしなくては…
これに対するレスを書いていたら長くなってしまった。だいぶカットしたけれどそれでも長いので以下に。
★パールさん、
大人になってからは、つまんないのに無理して読む必要はないかと思うのですが、子供のうちは、つまんなくても無理して読まなくてはいけない本もあるように思います。(いつまでが子供かは人によるので30過ぎても子供な人もいるかとは思いますが)大人になってから身に着けるのが困難な「読む体力づくり」や、雑多なものに触れて視野を広げることなど、純粋に読んで楽しむ以外に必要なことがあるように思います。
>多分、楽しいだけではいけないのだと、どこかで思っているのです。
二つの相反する結論は同一の前提からが導きだされているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
【時間には限りがある】→【読書は楽しむためだけじゃないといけない】
【時間には限りがある】→【読書から何かを学ばないといけない】
普遍的な真実からもたらされるのは、どちらもやや強迫観念めいた「~でなくてはならない」というものであることは興味深いです。(私も同様の感覚を持ちます。)ためにならないといけないと思ったり、楽しむためだけにしたいと揺れるのは極めて健全なことと言えるのかも知れません。あるいは、全ての読書(あるいは他の全ての行為)は純粋に100パーセント楽しむだけということはなく、また学ぶためだけということもないのではないでしょうか。目的は楽しむだけあるいは学ぶだけだとしても、結果として学んでしまったり、楽しんでしまったりということはあるように思います。当初の目的ばかりに目を向けず、結果も見ると、自らの行為に対する評価も変わってくるように思うのですがいかがでしょうか。
>昔読んだ時の記憶より、ずっとおもしろいのはなぜでしょうか。
私は昔読んだ時よりもずっとつまらなくなっている本とずっと面白くなっている本が混在しています。前者にはミステリ系が多く、後者は純文学や社会科学系が多いでしょうか。
>男女の間と同じ? 愛情と縁? タイミング?…
そのような要素もあるやに思います。自らの成長や体験もあるやに思います。よく男女の仲はタイミングだと言いますが、そしてタイミングを否定するわけではありませんが、タイミングと無関係にこいつは絶対嫌だというタイプもあり、そしてどんなタイミングでもこいつのことは好きになるというタイプもいるようにも思います。本も人間も同様に(自分にとって)普遍的な美を感じる対象も普遍的に醜悪を感じる対象も存在して、それは後天的な努力や経験では変えることができないのだろうと想像致します。
時間がないため長文にて失礼致します。