「錨を上げよ」(上下)百田尚樹 講談社 2010年
「永遠の0」「ボックス!」「モンスター」の百田尚樹の新作は、昭和30年に大阪で生まれた男の半生を描く。
勉強はできず、不良の道へ+弟二人は勉強はできる→そこからどんな人生が主人公作田に待っているのか?
どうしても、作者の人生とダブらせて読んでしまう。「ひゃくた」(作者名)とさくた(主人公)は意識して似せているのだろうし。百田本人が放送作家をしていたとか、大学でボクシングしていたとか、大学を中退しているとか、作田の人生とのオーバーラップは避けられない。
他の人のブログでお金の無駄だとこの作品が否定されていた。なぜかと言うと、主人公に全く共感できないからだそうだ。私はそうは思わなかった。主人公にかなり共感できた。貧乏である、女の子に夢中になる、犯罪行為をすることにしか人生の意味を見出せない、必然的に不良になる、社会に対して猛烈な反感を持つ、左翼にかぶれてみる・・・なぜゆえに、そのような人生になってしまうのかという転落の仕方、ものの考え方、よく分かる。
しかし私がこの作品を高く評価するのは、単に面白かったからである。主人公に共感できたことは、楽しめた一つの要因に過ぎない。この時代に生きた一人の男の稀有な人生は読み応えがあるし、意外な展開もなかなか。女性からすると、男のものの考え方ってこういうものだということが学べる・・・と思う(作田に共感できない人は、たぶんそんな風にものを考えないのだろうから、参考にならないだろうけど、作田と私は少なくともそんな風に考える)
しかし、このような身を削るような作品を書くとなかなか次が書けないのではないかと余計な心配してしまう。なんてこと言ってる暇あったら、なぜか未読の「永遠の0」を読まないと。
1~3巻と同じテイストが続く。ゲイカップルの弁護士シロさんと美容師のケンジ。料理がつなぐのは男女の縁だけじゃない。
特に冒頭のタマネギを炒めないでつくるハンバーグ、夜中に食べたくなってしまった。誰かつくって・・・やっぱ自分でつくれってか?
ガサツな女だったら、料理のシロさんと気配りのケンジを足して2で割った男性の方がまだいいと思うのは私だけだろうか・・・
「最初の哲学者」柳広司 幻冬舎 2010年(初出ジェイ・ノベル2003年12月号~2005年2月号)
あの柳広司が、ギリシア神話をとっても分かりやすく書いてくれた。13の短編で構成されている。ギリシア神話に全く馴染みのない人から多少の知識がある人まで広い範囲の人に薦められる。いや、読みやすい阿刀田高の「ギリシア神話を知ってますか」と読みにくい呉茂一の「ギリシア神話」の間にあって、好みは分かれるかも知れないけれど、非常に私は気に入った。
特に三本目の「恋」でアテナイの王ミノスの息子であり、ポセイドンの末裔であるテセウスが、クレタの王ミノスに連れられ、クレタにやってきた。ミノタウルスを殺すため・・・ → 四本目「亡牛嘆」で、ミノス王の妻、パシフィエが牡牛に欲情するようにさせられ・・・ → 名匠ダイダロスが作った牝牛の中に入った彼女は牡牛と交尾し、牛頭人身のミノタウルスが生まれ・・・ → 次の「ダイダロスの息子」では名匠の息子とその父の末路が描かれる。
という続き物になっているこのスムーズな流れが実にうまいなーと脱帽した。
恋愛、嫉妬、金銭、上昇志向、犯罪、殺戮、欲望、近親相姦・・・など人間の欲求が生み出すありとあらゆることが書かれている書物は3つあって、聖書とシェイクスピアとギリシア神話だと言われている。
戯曲ってちょっと苦手なので、時間を見つけて聖書(旧約も新訳も)とギリシア神話を読んでいるのだけれど、本当にその通りだと思う。私は宗教の中ではかなり仏教的な世界観が好み(仏教を信じてるわけじゃないけど)なんだけれど、人間の悪い部分を物語の中でこれでもかと抉り出す様はキリスト教的書物の方が上手だと思う。
話を「最初の哲学者」に戻すと、説教臭さがないと言うか、物語に、柳広司の説教を加えようとしてないのが、とてもいいと思った。
では、また。
相変わらずの山岳救助マンガ。やっぱりいい。1巻から7巻レビュー 8から10巻の大雑把レビュー
三歩は言う。「心配してくれる人がいるのは、あったかい」・・・ほんとそうだと思う。そうだよね。
このマンガはしょっちゅう読むものじゃない。たまに読むとすごくよく効く。抗生物質のようだ。三歩と仲間たちが菌を殺してくれる。
いや、私の中に沈殿した澱を撤去してくれる。
こころがガサガサしたときにまた読もう。