「春の夢」宮本輝 文藝春秋社 1984年(初出文學界1982年~1984年
大学生の哲之。死んだ父親が降り出した手形を持ったやくざものが追いかけてくる。ホテルのボーイとして働き、面倒な人間関係に巻き込まれ、美しい彼女がいて、でもとても貧乏で。越したアパートでは大家が電気を通じておいてくれなかった。仕方ないので夜中に柱に釘を打ったら、蜥蜴を生きたまま貫いてしまっていた。蜥蜴にキンちゃんと名づけ、釘を抜くことができない哲之。青春の鬱屈の行先は…
いやいやいや。これは私の好み。うじうじしていて、憂鬱に屈折した主人公の行動と内心がいい。大事件が起こるわけでもなく、解かれるべき謎もないのに、ついつい読み止めるひまを与えてくれない。
あちこちで、ギシギシと罅の入った心が音を立てる。
歩いて行くうちに哲之は自分が恥ずかしくなってきた。人を見る眼力か、と心の中で言った。逆境に弱く、ふところが狭い、か。よく人のことをそんな風に言えたもんだ。逆境に弱くふところが狭いのは、ほかの誰でもなく、この俺自身ではないか。(文庫版160頁より引用)
「俺はこんな説教めいたことを言うのは好きやないけど、ちょっと気障な遺言や思うて聞いといてくれ。人間には、勇気はあるけど辛抱が足らんというやつがいてる。希望だけで勇気のないやつがおる。勇気も希望も誰にも負けん位持ってるくせに、すぐにあきらめてしまうやつもおる。辛抱ばっかりで人生何にも挑戦せんままに終わってしまうやつも多い。勇気、希望、忍耐。この三つを抱きつづけたやつだけが、自分の山を登りきりよる。どれひとつが欠けても事は成就せんぞ。俺は勇気も希望もあったけど、忍耐がなかった。時と待つということが出来んかった。自分の風が吹いてくるまでじっと辛抱するということが出来んかった。この三つを兼ね備えている人間ほど恐いやつはおらん。こういう人間は、たとえ乞食に成り果てても、病気で死にかけても、必ず這い上がってきよる」(178頁より引用)
あの京都の下町の角の連れ込みホテルの、なんとも侘しさを漂わせたたたずまい。その玄関をあけて中へ入った瞬間の哀しみ。そして主人の善意に満ちた剽軽さ。些細な事象を媒介にして、怖ろしい速度で変化する人間の心。そんなおぼつなかい心に支配されて生きるのは、なんて馬鹿げたことだろう。(216頁より引用)
では、また。