「水のかたち」(上下)宮本輝 集英社 2012年(初出2007年10月号~2012年7月号)
能勢志乃子50歳。夫は自営業、長男は勤め人になったばかり、二男は美容師見習い、娘は高校生。門前仲町界隈に暮らす。カレーの美味しい喫茶店かささぎ堂では、お気に入りの文机を眺めるのが楽しみだった。しかし店をたたむというので、ただで貰ってきた文机と手文庫と茶碗。茶碗は本物の鼠志野のようにも見えたが稀少なものがこんなところにあるはずもない。でも気に入ったので貰ってきた。実はその茶碗はとても高価なものだということが分かる。さらに手文庫からは書類が見つかり、かささぎ堂の主人にききたいことと伝えたいことがたくさん出てきたのに、行方が分からなくなってしまった。周囲の人を巻き込んで、流転してゆく志乃子の人生の行方は…
いやいやいや。やっぱり宮本輝はいい。こんな極上の小説を楽しんでいると涎が。終えるのが勿体ないので三頁読んで戻ったりしていた(少年ジャンプを一週間かけてしゃぶり尽くす小学生のよう)
宮本作品を読んでいると、時折背中をバシッと打たれたような感覚に陥ることがある。ストーリーの面白さだけではなく、(勝手に)教訓めいたものを感じ取ってしまう。
自分がいかに強運に恵まれてきたかを気づかずに生きていたことは、大きな罪を犯しつづけてきたのと同じだと思えたのだった。(上巻275頁より引用)
もう間に合わない。仕方ない。京都に着いてから考えよう。そう決めて、志乃子は自分の近くの座席に腰かけている乗客のほとんどが、ゲーム機か携帯電話の画面以外見ていないことに気付いた。若い勤め人風の男も女も、学生らしい者も、一心に指を動かしているだけで、表情というものがなかった。それぞれのゲーム機や携帯電話の画面には、どんなものが映ったり消えたりしているかわからないが、それまで凪いでいた油のような海に突然吹いた風が百五十一人を乗せた帆船を沖へと進ませる光景を再現することは不可能なのだと志乃子は思った。
(中略)
あなたたちが見入っているデジタルのお伽噺が一歩も立ち入れない真実の世界だ。真実は、それが真実であることを、何か譬えを使って懇切に説明してはくれない。譬えが、そのまま真実であると転換するのは人間の力なのだ。(下巻243頁)
私は井澤とは気が合いそうな気がする。話がしていて楽しいし、歯ごたえを感じるが、井澤はどうなのであろう。(上巻220頁)
いい歳をした大人の男は歯ごたえがなくてはアカン。そう。確かにそう。最近の男には歯ごたえがなく、ホワイトアスパラのようだ。そういう私には歯ごたえがあるだろうか。いや、杏仁豆腐にも負ける歯ごたえだ。
「鉄の塊を真っ赤に熱して、それを大きな金槌で叩いて叩いて鍛えて、鋼が出来上がっていくっていう喩えを引いて、人間も全く同じなんだって教えてくれました。鉄を叩いて鍛えると、いろんな不純物が表に出て来るんですって。それがあるあいだには、鉄は鋼にはならない。そんな鉄で刀を造ってもナマクラだ。鋼となった鉄でないと名刀にはならないって。経済苦、病苦、人間関係における苦労、それが出て来たとき、人も鋼になるチャンスが訪れたんだ。それが出て来ないと永遠に鉄のままなんだ。だから、人は死を意識するような病気も経験しなければならない。商売に失敗して塗炭の苦しみにのたうつときも必要だ。何もかもがうまくいかず、悲嘆に沈む時期も大切だ。だから、人間には、厳しく叱ってくれる師匠が必要なのだ。」(上巻202頁)
教訓臭すぎるかも知れない。でも今の私には滲みる。
「心は巧みなる画師の如し」という言葉が出てきてこれもとても印象深かった。調べてみたら、華厳経の「華厳唯心偈(けごんゆいしんげ)」の言葉で、心如工画師と表記するそうだ。
食べ物の描写もたまらない。胡瓜しか入っていないサンドイッチ、田舎に行っておばあちゃんと食べる松坂牛のすき焼き、究極のロイヤルミルクティー…よだれが。
骨董、朝鮮からの戦後の引き揚げ(実話だそうだ)、料理、会社経営、かなり本気のジャズ、喫茶店経営など様々な世界が描かれる。しかし薀蓄小説になっているわけではなく、そのさりげない情報の使い方の巧さがリーダビリティにつながっている。
平凡な主婦が前へ進んでいく、冒険小説。彼女が前に進めるのには理由がある。宮本輝の描く女性の理想像がここにある。私にとっての女性に対する理想の形がどんなものなのか深く考えたことがなかったが、それが具現化するとこういう形になるのかとしみじみと感じ入った。
嗚呼人間ていいものだな。
では、また。