旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

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で書いています。 

今城塚古墳を語らずして、古墳時代を語るな(4)

2013-10-13 21:59:44 | インターネット・パソコン・デジカメ

 当然、この埴輪の配置、置き方には、いろんな意味があるわけでしょう。

 ところが、当時は文字で記録した資料なんてほとんどないわけですから、これは色々と推定をしていくしかないわけです、この意味するものについては。

 ここらあたりが、考古学の醍醐味ということになるかと思います。もちろん、荒唐無稽ではなく、相応に整合性のある考え方を組み立てないと、「学説」にはなりませんね。
 これはNHKの番組で取り上げられ、その関連の書籍を読みましたが、いろんな説、考え方か゜あるようです。

 さて、墳丘部にも立ち入ることができます。これ、いわゆる「天皇陵」としては考えられないこと。宇治陵でも立ち入りできませんがな。

 手前は芝生部分。奥の木々のあるところが墳丘部。


 後円部の頂上付近。


 クヌギの木などが多くて、雑木林状態。当然、築造当初は木とかはないです。




道がちゃんとあります。


前方部から後円部の方向を見たところ。


これは前方部の一番端の方。一部、濠が再現されており、水が入れられています。


高槻市のキャラクター、「はにたん」。微妙・・・・・。


別バージョン?。やはり微妙・・・。


ということで、この今城塚古墳、歴史的な意味は非常に大きいものでした。施設の整備などもしっかりされており、行ってみる値打ちは充分かと思います。

このあと、カメラテストの意味も含めて、サントリーの山崎蒸溜所へちょっと行きました。

つづくよー。というか、古墳関係はこれで終了。
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今城塚古墳を語らずして、古墳時代を語るな(3)

2013-10-13 21:32:32 | インターネット・パソコン・デジカメ
さてと、古墳の方へ行ってみます。

 見晴台のようなところから見下ろすと、古墳の周囲はきれいに舗装された道があったり、芝生のスペースが広くとってあたりして、公園として整備されています。
子どもらがサッカーをしていたりします。別にしてもいいみたいです。

 が、その奥にもなにやら埴輪らしき一群が!。


いや、この見晴台みたいなところにちゃんと解説がありますが。



つまり、復元されて置かれている埴輪群は、適当に出土したものを配置してディスプレイしているわけではなくて、
実際に、今おかれている位置に、置かれている配置で出土したということなのです。それを復元しているわけです。

で、区画が4つに分かれていて、それぞれ表現されているものが違うし、置かれている埴輪の種類も違う。

これだけの多様な埴輪が、こうした意味、なにかしらの祭祀ということではないかと推定されているらしいですが、を持った形でちゃんと出てきたという例は他にはないのではないかな。

















いや、もう、これはちょっと圧倒的です。位置としては、墳丘部ではなくて、外堀の外側の築堤の上という感じです。

つづくよー。
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今城塚古墳を語らずして、古墳時代を語るな(2)

2013-10-13 20:31:09 | インターネット・パソコン・デジカメ

 この古墳からは膨大な埴輪が出土しています。
 それも、単に数が多いとかいうことでなく、出土の仕方が独特で意味が大きいものなのです。
 それはまた後で書きますね。

 実物は、例えば、こんな感じです。


 これなんか、建物の屋根の感じが現在にも伝わる神社の建築様式に近いですよね。


 古墳の変遷を古い順にたどっています。赤丸はあとから私が書き足したものです。
 下の赤丸は箸塚古墳。3世紀だから古墳としては最も古い部類であり、卑弥呼の墓と言われたりします。

 その上の赤丸が椿井大塚山古墳。これは京都府の山城地方にあるもの。JRの奈良線が古墳をぶったぎって走ってます。
 案内していただいて見に行きましたが、初期の古墳らしく、自然の地形も利用しながら、少し小高い位置に築造されているものでした。


上の大きな丸が、河内地方の巨大古墳群です。「仁徳天皇陵」とか言われたりするものですね。最近はこの言い方はあまりしないのかな。大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)というそうです。
築造時期は5世紀前半~中頃。
 で、下の小さい丸が茶臼山古墳で、継体天皇陵としての宮内庁の陵墓指定があるのだけれど、時期が合いません。


 最後、赤丸がしてあるのが、今城塚古墳。古墳の築造年代としてはかなの後のほうということになります。


 やはり、日本史の関係だと、上記のようなことが、それなりに既に頭にあるので、理解がスッとしやすいというか、見ていても疲れが少ないです。
こらが大塚国際美術館と違うところです。

 さて、実際に古墳を見に行きましょう。

つづくよー。
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今城塚古墳を語らずして、古墳時代を語るな(1)

2013-10-13 20:14:11 | インターネット・パソコン・デジカメ
 ということで、本日は高槻市の今城塚古墳へ行ってきました。下の娘とは時間が合わず、単独になりましたが。

 ついでに、ちよっとサントリーの山崎蒸溜所にも寄りました。


 今城塚古墳は、前にちょっと書いたと思いますが、実質的には継体天皇陵と考えられています。大王の墓ということです。
 
 大王の陵墓と推定されるような古墳の多くは宮内庁の指定を受けており、これらの陵墓は発掘はもとより、立ち入りそのものも大きく制限をされており、考古学的な立場から自由に研究をすすめるということができません。
それは「天皇のお墓」という意味では致し方ないという面もありましょう。

 が、継体天皇陵の場合は、この今城塚古墳の近くにある茶臼山古墳が宮内庁の陵墓指定を受けています。
ところが、古墳が造られた年代の推定などから、実際のところは、茶臼山古墳を継体天皇陵として推定するのは無理、というか不可能ということらしく、
今城塚古墳こそが継体天皇陵として推定されるというわけです。

 ですが、今城塚古墳は宮内庁の指定を受けておらず、発掘調査などについても、基本的には制限がなく、詳細な調査がすすめられています。
 そして、その発掘の成果も素晴らしいもの、驚くべきものがあるわけですね。

 だから「今城塚古墳を語らずして、古墳時代を語るな」ということになると思います。

 さてと、自宅からだと、京滋バイパスの側道から171というルートで、混まなければ45分程度で、現地まで着きます。場所は高槻市ということになります。

 古墳の近くにある市立の施設の建物です。内容も充実したわかりやすい展示がされており、体験教室のようなものも実施されていました。
これで入館料は無料です。史跡の整備ということと関わっては国の補助もあるのでしょうが、古墳周辺は公園としても充実した整備がなされており、このコストはかなり大変だろうなと思いました。
しかし、歴史的意義を考えれば。これぐらい大事にされても当然のように思いますが。


展示内容の方は今城塚古墳だけでなく、高槻周辺には多くの古墳がありますので、そうしたものの発掘の成果なども展示されています。
ここでは出土した鎧が展示されていました。鉄のものは腐食が進みやすく残りにくいのですが。




これは窯跡。埴輪をたくさん焼いた埴輪工場の跡ということですが、なんども窯を天井まで全部こわして、また再度、窯をつくって焼いたということが地層からもわかるということでした。
いや、埴輪、使っている数が膨大です。
 

出土した鏡など。同じように見えて色々種類があります。


これは古墳の築造の過程を再現しているところで、最終の葺石を置いていく段階のところです。設計段階から、どのように古墳が築造されたかを推定して、丁寧に紹介されています。


これは現代に石棺を再現して作成し、埋葬の状態も再現してみたところです。
これだと、子どもらが見ても、そのままイメージしやすいですね。


継体大王の生涯を紹介しています。越の国から来て、大王として擁立されたということになっているようです。
それ古事記とか日本書紀に記載があるのかな。と思います。


つづくよー。
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柳沢慎吾  若山富三郎

2013-10-13 05:12:27 | 映画テレビメディア


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博多華丸・大吉 昔話

2013-10-13 05:01:53 | 映画テレビメディア

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