前回参加した桶狭間合戦450周年の時に聞いた謎が、「歴史街道」6月号に記載さ
れている。興味があり読んでみた。
論点は
1.今川軍の兵数
2.今川義元の出陣目的
3.信長軍の攻撃は迂回か正面か
4.今川軍の陣地はどこか
などである。
我々の頭に通常残っているイメージは、織田信長は上洛しようとする10倍以上の
今川軍に対し、尾根裏を進撃し、風雨に紛れて一挙に敵の側面を突いた。桶狭間
の窪地に陣を敷いた今川軍は、昼間から酒盛りをし油断をしていた。そこへ山の
上から殺到して首を取った。というくらいのものだ。
このイメージは、明治に刊行された参謀本部編纂「日本戦史 桶狭間の役」に拠
るものであるが、この書は史料的価値の低いものに依拠ししかも事実関係と合致
しないことがたた見つかり、現在は史家により修正されつつあるとのことだ。
1.今川軍は25000としても、農民や他の職業のものが8割近くおり、3000対5000
くらいの差ではなかったか。
2.上洛目的であったとの記録はどこにも残っていないし、当時はまだ斉藤(美
濃)、六角(南近江)氏などが割拠しており、一気に上洛という情勢ではない。
尾張平定が目的であっただろう
3.4.当時の常識から言えば、陣地の設定はできるだけ高いところにする、と
いうのが定説であり、それを覆す事情は見当たらない。従って信長公記に記述さ
れているように山の上に陣取る義元軍に正面から挑んだのだろう。折からの強い
雷雨が、信長軍の接近を隠し、武器も落雷の恐れがあるとして遠ざけたのではな
いか。
というのが郷土史家梶野渡氏たちの推定である。梶野さんは大戦では歩兵の経験があ
り、それらの体験からも推測を修正して、立論して面白い。
私たちがイメージし、経営戦略の参考ともした桶狭間の合戦も史実と現地を丹念に調べると別の
様相が出てくるのが興味深かった。この雑誌はかなり面白かった。