遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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見事なストーリーテラー

2018-12-06 05:04:43 | 


井岡瞬「代償」角川文庫 2014年刊

数奇な運命に見舞われた主人公がその原因となった遠縁で同学年の男の弁護を受け持つという、稀に見る稀有な設定のミステリー。そのストーリー展開は見事である。人物設定も極端にエグい母子、父などを登場させ、容赦なくストーリーを展開させる。ケレン味のないところが逆に真実性を感じさせ、こんな人間も存在するかもしれない、とふっとも思わせる。

2/3は主人公が虐げられる状況の描写に費やされ、残りの1/3ないし1/4で、元の友人と反撃に出る。意外性のあるストーリーは読者を引き込むが、それに至る動機、心理描写には少し物足りなさが滲む。例えば、あれほど嫌っていた同学年生の弁護を引き受ける気になった心理変化の様子などはもっとドラマチックに描いてほしいと思うのは私だけであろうか。

しかしこれほど虐げられても冷静に、視野広く対処する主人公は見事な生き方である。その点だけでもこの一冊は読むに値する。

江戸東京博物館

2018-12-05 07:36:29 | 行ってきました

江戸博物館外観

付属レストラン

江戸の創始者 家康像



復元日本橋

カナダ在住の義弟を復興記念館の次に案内したのは江戸博物館。バブル時代に作ったのか、かなり豪華な作りの建物である。現代の日本の骨格を作った江戸幕府、幕府を開いた家康の像があるのはともかく、入り口に続いて日本橋のレプリカ、そして江戸城、城下町市中のジオラマには1000体近くの人形が生き生きと歩いている。その他当時の大名屋敷の模型、江戸幕府の成り立ちなど展示はソツがない。


江戸市中のジオラマ

松の廊下模型

江戸城本丸ジオラマ

下の階には職人などが住む長屋の復元、浮世絵版画の工程、寿司屋台、商家越後屋など江戸を代表する事柄が展示されている。私はここには5回目だが記憶力の減退もあり、始めてきた時同様、とても新鮮で興味深かった。ここの展示はかなり手間隙かけてあるように見える。自分の小学生時代こんな展示があれば、歴史に対する興味の向け方がかなり違っていたと思う。 


中村座



両国の花火

吉原の花魁
 
展示は江戸時代だけではなく明治以降の展示もあった。ちょっとボリュームがありすぎて、印象が散漫になってしまうきらいもあるが、豊かな首都東京の底力を感ぜさせる博物館である。


明治初期の新聞社

出口エスカレーター

旅の始まり地点

2018-12-04 06:02:06 | 行ってきました

江戸日本橋

案内の標識灯

道路元標

各地への距離表示

「お江戸日本橋、七つ立ち~♬」と歌われた、日本の街道の出発点で名高い地点です。今や高速道路が頭上を走り風情は失われていますが、元標は橋の袂にあります。そもそも道路元標なるものは1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置された。その後1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。さらに、1922年(大正11年)に、道路元標の形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置が始められた。


1952年(昭和27年)施行の新たな道路法により大正時代の旧道路法は無効となり、現行道路法の第2条第2項第3号で道路元標は道路の附属物とされているだけである。この日本国道路元標の文字は佐藤栄作首相の筆になるものである。歴史の記念碑的な意義は持つものの、地図上の原点ではなくなったと言える。

石垣島に行ったとき、道路脇に「東京まで✕✕✕km」「鹿児島まで✕✕✕km」と記した標識が立っていたが、あれと同じ意味だのだろうか。まあここは東海道の始まりを示す歴史的な地点だけに、これは残しておいて良いのではないかと思う。

復興記念館

2018-12-03 00:16:15 | 雑感

復興記念館

記念館入口

納骨堂

カナダから来てくれた義弟を案内したのは、まず横網公園にある震災記念館。ここは以前来た時、記念館の横に震災の火災にあった機械の残骸や、虐殺された朝鮮人慰霊碑などを見学して東京都の懐の深さを実感した記憶がある。

今回行ってみて、ここは震災と同時に空襲の記念館でもあるのを認識した。どちらも多数の犠牲者が出た。しかも自然災害と言うより、人間が引き起こした人災のほうが被害が甚大であった。人間が引き起こした愚かな結果をしっかりと記憶に留めておけよと言っているような気もした。この記念館の名前も震災記念館ではなく、復興記念館であった。

境内では地元のおじさんたちが何やらテーブルを出して呼びかけている。近づくと「ほいっ」と皿を出された。見ると銀杏が山盛りになっている、一ついただくとほろ苦くお酒が欲しくなる味だ。この境内のイチョウの実だそうだ。「美味しいなあ」と言ったら「これをもってゆきな」と袋に入れた一合ほどの銀杏をくれた。

物をもらったというよりは、下町の暖かさをもらったようで、義弟ともどもほっこりして次の予定地へ向かった。

ご先祖様

2018-12-02 17:41:49 | 雑感

業績を記した石碑

ご夫妻の墓石

祖父の碑と先祖代々の墓石

カナダから義弟夫妻が遊びに来た。久しぶりのこととてお墓参りにゆきたいと、いったので我々もお付き合いした。谷中天王寺にあるお墓はかなり立派なものである。家人の曾祖父(或いはその父か)にあたる漢学者は明治天皇にご進講をしたというくらいの偉い人だったらしい。

墓地の入口には案内の石柱が立っているほどで、墓地には3mをこす石碑が建てられ、法事の度毎にお寺からは丁重な扱いを受けている。この立派な墓地に来るたび、先祖様には及びもつかないけれど、せめて自分の生き方はきちんとせねばと身の引き締まる思いを毎回している。

お参りのあと、谷中銀座をぶらぶら歩いたが、3年前に比べはるかに外国人が増えているのには驚いた。その分名物の猫が姿を見せなかった。じだいはかわる

レストランで昼食

2018-12-01 00:00:44 | グルメ

レストラン外観

洋風弁当

カキフライ

珍しく我が家にお客様があり、その方たちの要望で日暮里のレストランに行くことになった。東京では小さな路地の奥に店があったりするので、お店探しに苦労することがあるのだが、この頃はスマホがあるので大抵のところは店名が分かれば地図で案内してくれる。

駅から15分と案内のあったお店だが、探すのにちょっぴり苦労して着いたところは老舗洋風レストラン。昔風の洋食屋さんという形容がピッタリのところである。落ち着いた雰囲気で、店員の応対も柔らかく行き届いている。看板メニューの一つを頼んだが、三つ重ねのお重にみっしりとおかずが詰まっている。ここは量が売り物ではなく、味に定評があるところだときいていたのだが、どちらも満足させてくれた。

メニューだけ見て、足りないかもしれないと追加注文した牡蠣フライは美味しかったが完全に余分で、満腹のお腹に無理に詰め込んだようなものである。お重は一つがご飯、2つ目は洋風オードブル(ローストビーフ、テリーヌ、ソーセージなど)3つ目がカツレツ、コロッケ、唐揚げ、などでこれらを片付けると結構なボリュームになる。テーブルについた全員が、朝飯抜きで来たのだが、みんな片付けるのに四苦八苦、残す人もいた。
 
ゆったりと食事を楽しみ、満腹のお腹をさすりながら外へ出て、谷中銀座の散策に向かった。ここも2年ぶりくらいだが、お店が数店代わっていたのと、外人の多さに驚いた。人が多すぎて、名物の猫はすっかり影を潜めていた。