遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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江島杉山神社

2019-02-05 03:33:23 | 行ってきました




江戸時代5代将軍綱吉に仕えた盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)当地に屋敷地を拝領、彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建したといいます。

全国の鍼灸師の聖地とされているらしく、現代の鍼灸師会会長の名前も境内には見受けられる。開祖杉山和一は鍼を管に入れて的確にツボを抑えるという技法を編み出し、その名声により検校に上り詰めた。

五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。だめだとわかっていても眼が欲しかったのでしょう。このあたりには三ツ目通り、4つ目通りというのがあるが、綱吉もそのあたりの土地を与えたのは知恵者が側にいたのだろうか。


隅田川テラス再び

2019-02-04 02:45:29 | 行ってきました

近くの有志が育てる花壇

川遊びの遊覧船


川面に遊ぶ水鳥

高速道路が上を走る

過去の水位を警告する標識

天気の良い日はしばしば隅田川テラスまで散歩の足を伸ばす。両岸が整備されており、車も通らないので散歩には最適である。ジョギングを楽しむ人も多く、ウォーキングの人と合わせて大勢の人が行き交う。

隅田川の流れは緩やかで、水運に適している。多くの観光船や業務船も上り下りする。岸には多くの観光船が待機し、お客を待っている。船内で酒肴を供しいっとき都会の喧騒を離れるのだろう。

ほんの一部だがホームレスのねぐらにもなっているが、この頃はダンボールではなくて山登りに使う携帯テントが使われている。両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋などこのあたりだけでも6つも橋がかかっている。

大阪も「水の都」と言われているが、東京もこのあたりは水路が多い。文明と水は切っても切り離せないものだと実感する。

江川太郎左衛門

2019-02-03 02:58:34 | 雑感


江戸、東京は史跡の多いところだが、墨田区の教育委員会は実に丹念に史跡の縁の地に案内板を建ててくれている。北斎美術館のすぐ横に江川太郎左衛門居住地跡の案内板が立っていた。

幕末の代官,砲術家。諱は英竜。字は九淵。坦庵と号した。江川家は中世以来の名家で,江戸幕府の伊豆韮山世襲代官。太郎左衛門は江川家当主の通称である。案内板にはあちこちの代官を務め、「世直し大明神」と謳われた名君であったらしい。

英竜は36代(1801~1855)、砲術家としても優れ、品川砲台(→御台場),韮山反射炉(2015世界遺産)の築造など,めざましい業績を上げた。外交交渉、種痘の奨励、携帯食乾パンの製造など幅広く活躍した。門下には佐久間象山、木戸孝允などがいる。

幕末にはこの様な俊英が多々輩出しているらしい。彼の生涯を追うだけで大河小説が生まれそうだが、「明治維新は幕府の行き詰まりによる下級武士の革命である」という通説は、慎重に見極めなければなるまい。

大高源吾の歌碑

2019-02-01 06:54:06 | 雑感


両国橋の袂に、筆太の文字が刻まれた歌碑がある。「日の恩や忽ち砕く厚氷」と読めるのだが誰の句か、何の句かよくわからない。帰ってパソコンで検索してみると、忠臣蔵で活躍した大高源吾の句だという。

意味は<太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷が、たちまち融けました。我々赤穂の浪士一同、お蔭さまで本懐をとげて、積年の恨みを、すっかり晴らすことができました> というものらしい。

日の恩というのは、吉良邸の隣家が助太刀もせず、通報もしなかった。おかげで討ち入りは成功した。ということらしい。
源吾は子葉という雅号を持ち、俳諧を得意としていた。

討ち入り当日、俳諧の師匠宝井其角と両国橋の上ですれ違い、其角が「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と発句すると「あした待たるる その宝船」と源吾が付け句する、有名な場面がありますが、これはどうも創作らしいといわれています。なんにしても、忠臣蔵はよくできた物語で日本人の心に響くようにしつらえてあります。