唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
何も考えていない
長い事、来る日も来る日も駄文を書き続けていると(このblogに掲載している小文のことだ)、もう自然に、ちょっとした仕事の合間に「今日は○△について書こうか」などと決まっていたりする。テーマが決まれば、時間のある時には昼食の後の珈琲をすすりながら思いつく端からパタパタと打っておいて、夕刻に氷を浮かべたビールをステンレス二重構造のマグカップでゴクリごくりとしながら推敲してUpする。昼時にバタバタでパタパタできない時には、あのことをこんな切り口で書いてみようなどと構想をまとめておいて、夕刻に、時々ゴクリとしながらパタパタと打ってUpする。
「長い事」と書いてはみたものの、何年になるのかと自分のblogをスクロールして右バーを見ると、blog最初の記事は2005年4月となっている。そう云えば三葉躑躅や山吹が咲いている頃にblogを始めたことを思い出した。2005年4月をクリックしてみると、最初の記事が4月20日であることがわかった。もう7年も前の事じゃないか。この間に3日だけ、あらかじめ予告して休んだ時があったけれど、一日に2回書いたことも少なくないから、365日×7年、都合2555本以上、駄文を書いていることになる。
7年間と云えば、高校に入学して大学を卒業するまでじゃないか! そう思うと、毎日よくもまあ書いたものだと我ながら思うけれど、先に書いたように書くのが習いとなってしまい、云ってみれば何の苦も無く「駄文」を書けてしまうようになっている。1年365日の内364日は。そう、年に1日くらいは、何を書きたいのか、何を書けば良いのか皆目思いつかない日がやって来るのだな。今日がその日である。あれについて書いてみようかとか、いやこっちの方が良いかとか、思わない訳では無いのだけれど、何だかまったく書けない。そう云いながらも、書くべき中身は思いつかなくても、思いつかないことをネタに、こうして書けてしまうから不思議。
書きたいことも書くべきことなないのならば書かなければ良いのにと自分でも思うのだが、書かずには眠れない、つまり寝る前の歯磨きのようになってしまっている駄文書きの習慣なのである。こう云うことを「習い性」と云うのだろうか。多少なりとも意味のあることならば書くのも良いが、何の意味も目的もなく、いや、書くことそれ自体が目的化して、惰性的に書いているのって、何だか悲しいような気が、こうして無目的に書いていながら思えて来たぞ。と云う訳で、今日の所はこれでもそれでもやっぱりでもなく、お終い。そんな今日だからご覧いただきたい写真も思いつかないから写真も無し。
しかしだ、訓練次第では何の意味も無い文章を、さほどの苦も無く1080文字つまり原稿用紙2枚半分(ここまでで)あっという間にかけてしまうと云うのもなんだか困ったものである。こういう訓練をもっと他の事でしていれば、例えば今頃ブラームスのソナタ(チェロの話しだ)やショパンのノクターン(こちらはピアノ)が弾けたり、英独仏伊の日常会話が苦も無く出来るようになっているのではないかと思うのだが、まったくエネルギーの使い方が間違っていたぞと自己嫌悪に陥る郷秋<Gauche>である。(ちなみにこれで原稿用紙3枚分)