「北方文学」創刊80号記念号が発行になりましたので、ご紹介します。今号は記念号にふさわしくほとんどの同人が顔をそろえ、350頁に迫る大冊となりました。創刊50号記念号の420頁には及びませんが、それに近いものになりました。
巻頭に読売文学賞受賞詩人ジェフリー・アングルスさんの寄稿をいただきました。Characterという英語の4つの意味を、日本語の体験として書いたもので、独特のユーモアと驚きに満ちています。ジェフリーさんの寄稿は5年ぶりくらいかな。
続いて、魚家明子のたった6行の詩「靴」。短詩系文学に近い緊張感と凝縮された意味内容を持つ彼女ならではの作品です。
館路子の詩が続きます。「鉦叩きが、仄暗い火を鑽る」はいつもの動物をモチーフとした長詩です。鉦叩きは先号の作品にも出てきていますから、リレー方式で続いていくのでしょうか。
追悼特集が二つあります。一つは「北方文学」に1983年から在籍し、昨年7月に亡くなった、さとうのぶひと(本名佐藤信仁)に捧げられています。彼は小説をもっぱら発表していましたが、10年くらい前から健康上の理由で書けなくなり、同人たちとの交流も途絶えがちでありました。在籍中は最も小説のうまい同人であったと思います。再録の「スバル・サンバートライホテル」は小説というよりも、紀行文的な作品ですが、彼の若い時からの生活ぶりと、奈良・京都の古寺に対する興味、仏教に対するアンビヴァレントな憧憬を読み取っていただけると思います。追悼文も7本を数えます。
もう一つの追悼特集は、日本を代表する現代詩人であり、昨年8月に亡くなった長谷川龍生氏に捧げられています。画家の木下晋氏から友人としての追悼文をいただきました。「北方文学」とも特別関係が深かった長谷川氏の、東日本大震災を契機に書かれた大傑作「鹿、約百頭の」を再録しました。
評論のトップは霜田文子の「不死の庭――ボマルツォの「聖なる森」――」です。彼女の執筆は3年ぶりくらいです。イタリアにある有名なボマルツォの「聖なる森」を訪れた寄稿文ですが、イタリア美術についての評価を基軸に、ピラネージの廃墟画への言及を含みつつ、ボマルツォの庭の本質に迫ります。
鎌田陵人の「夏目漱石『行人』試論、あるいは意識の単数性について」が続きます。近代人としての意識を徹底的に突き詰めた漱石の内実を『行人』という作品を通して語ります。一郎が言う「死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という言葉の周辺を、真摯に探究する論考です。ちなみに「意識の単数性」というのは、理論物理学者シュレーディンガーの言葉です(作者はことわっていませんが)。
坪井裕俊の「米山敏保論(2)――地方主義の止揚をめぐってーー」は、同人の米山敏保の小説を論じた評論の完結編ということになります。坪井は米山の作品を中央の文芸ジャーナリズムが持ち上げる内容空疎な小説と対峙させていますが、文学の本質が中央覇権主義にないのは、地方主義にないのと同じことだと言っているのでしょうか。
次は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(三)」です。今号では円熟期の作品『聖なる泉』と『使者たち』を扱います。『聖なる泉』はジェイムズの作品の中でもっとも評判の悪いものですが、彼の最高傑作『使者たち』に至るための実験的な試みとして評価することができます。ジェイムズの「認識の至上権」は『聖なる泉』へと突き進み、『使者たち』で一応の完成を見ることになります。。
鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も14回目となります。70年代後半を扱う後編です。先号で取り上げた中村龍介が発行した「とねりこ」と彼が属した「修羅」から始まりますが、時代は高度経済成長期を過ぎて停滞期に入っていきます。そんな中で新潟県内各所で創刊された詩誌についての記録が続いていきます。
先号で鏡花論の2回目を書いた徳間佳信は鏡花を一休みして、本業の中国現代文学の翻訳に取り組んでいます。「農民工二題、彼らはいかに形象化されたか」と題して、張梅の「この町の空」と塞壬の「悲迓――楚劇の唱」で、どちらも女性作家ですが、前者は実験的、後者は古典的な方法による作品です。農民工というのは農村から都市に出てきて仕事に就く人々のことです。背景は彼らの生活の苦しさにあります。
福原国郎の「親族会決議」はいつもの彼の先祖の事跡を、古文書によって読み解いていく、史伝と言った方がいいような作品です。未だ近代化にほど遠い明治の田舎の人々の生活と人生を興味深く描いていきます。
今号は小説が4本あります。最初に板坂剛の「幕末の月光」。幕末の勤皇の志士が主人公と思いきや、どっかの大学の先生が吉田松陰にいかれた志士に取り憑かれて、学生を相手に時代錯誤の論理を振り回したあげくに、警察に射殺されるというファルスだが、大義に生きることがいかにくだらないことかという板坂の認識を面白く展開している。とにかく面白い。
2本目に新村苑子の「別れ」。功成り名を遂げた叔父が、貧しい時代を一緒に生きそのまま貧困を抜け出せないでいる兄夫婦と甥に対して、臨終の床で反省と憐憫の思いを語る。叔父が生き霊として甥に取り憑くところが小説としてのこの作品の味噌といえる。上手くいっていますでしょうか。
短い詩も書いている魚家明子の小説は超短編で、母親が大事にしていた人形にまつわる怪奇譚として読むべきか。この人の作品はいつも少し怖い。
最後は先号の「かわのほとり」で、「文芸思潮」の五十嵐編集長から高い評価を受けた、新人の柳沢さうびの「沃野」です。「かわのほとり」をはるかに上回る出来で、この人は一体どこまでいくのか非常に楽しみな存在です。作品の中身よりもその文体が、昭和の名作を思わせるような懐かしくも完成されたものになっていて、それだけでも脱帽してしまいます。中身については読んでいただきたいと思います。
目次を以下に掲げます。
【追悼・さとうのぶひと】さとうのぶひと/略年譜/掲載作品一覧/榎本宗俊/松井郁子/霜垣和雄/井口梵森/成田憲一/清水 実/椛澤友重
【追悼・長谷川龍生】長谷川龍生/木下 晋/館 路子/柴野毅実
ジェフリー・アングルス*漢字の住民
館 路子*鉦叩きが、仄暗い火を鑽る
魚家明子*靴
米山敏保*落蟬
霜田文子*不死の庭―ボマルツォの「聖なる森」―
鎌田陵人*夏目漱石『行人』試論、あるいは意識の単数性について
坪井裕俊*米山敏保論(2)─地方主義の止揚をめぐって─
榎本宗俊*養生について
柴野毅実*ヘンリー・ジエイムズの知ったこと(三)
永野 悟*批評系文芸誌「群系」について
鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち(14)
徳間信佳訳・解題*農民工二題 彼らはいかにして形象化されたか
福原国郎*親族会決議
板坂 剛*幕末の月光
新村苑子*別れ
魚家明子*赤毛の神様
柳沢さうび*沃野
なお今号の中身と様々ないきさつについて編集後記を参照していただけるとよく分かると思いますので、(2)で80号の編集後記だけ掲載させていただきます。
お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。