玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」創刊80号記念号発刊(2)

2020年01月02日 | 玄文社

「北方文学」創刊80号記念号編集後記 

七月十六日に同人のさとうのぶひと氏が亡くなった。長い闘病生活の末の最期だった。故人の人徳を偲ばせるように同人外の方からも多く追悼文が寄せられ、追悼特集とすることができた。小説再録は全作家文学賞佳作の「遅れてきた、出家者たちでさえ」にしたかったのだが、紙幅の関係で第四十号掲載の「スバル・サンバートライホテル」にさせていただいた。略歴は夫人と友人の協力を得て編集部の責任で作成したが、もとより不十分なものと承知している。誤り等があればご指摘願いたい。

 八月二十日には本誌とも縁のあった長谷川龍生氏が亡くなった。「現代詩手帖」十一月号で小さな特集を組んでいるが、それだけの扱いに留めておけるような詩人ではない。本誌も小さな特集で供養としたい。

 十月十九日に東京池坊会館で開かれた、第三回全国同人誌会議に参加してきた。主催は二〇〇五年創刊の総合文芸誌「文芸思潮」と、愛知県を中心に十二の同人雑誌を糾合する「中部ペンクラブ」、後援は日本文藝家協会・中日新聞・東京新聞・三田文学・季刊文科である。テーマは「新たな創造エネルギーの発露へ――文芸復興をめざして」で、全国の同人雑誌に拠る表現者たちに対して結集を呼びかけるものだった。

〝文学の死〟が言われて久しいが、文学が死んだのは文芸ジャーナリズムの世界においてであって、同人雑誌においてではないという共通認識のもと、全国から約百五十人の参加があった。会場に展示された同人雑誌の数も五十誌をはるかに超えていた。ただし小説を主体としたものが多く、詩誌は含まれていない。

 三田誠広氏の講演や基調スピーチ、シンポジウムなど多彩な内容であったが、まずは主催者の方々の熱意に打たれた。文芸ジャーナリズムから同人雑誌の方向へと〝文学〟を奪還しようとする熱意にである。そればかりではなく、〝活字離れ〟やIT文化の蔓延など、抗うべき多くの障害を乗り越えていこうという熱意にも。

 小説を主体とした雑誌が多い中、評論に特化した東京の「群系」という同人誌の代表、永野悟氏とお話しした。「北方文学」も評論のウエイトが高く、方向性に近いものを感じたからだ。「群系」は日本の近代文学にターゲットを絞り、毎号特集を組む充実ぶりで、一般誌に負けない内容を誇っている。今後の交流を約束し、早速今号に紹介文を書いていただいた。

「文芸思潮」は第七十三号で、「北方文学」前号を取り上げ、「流行や当世の浮薄な傾向や形にとらわれず、自由に奔放に書き紡いでいるところに、文学の真の翼を保持した矜持が窺われる」と編集長の五十嵐勉氏が評してくださった。光栄である。また前号の柳沢さうび「かわのほとり」について氏は、「当今これだけの描写力を持った作家がいるかと思われるほどの卓抜した筆である。このような書き手がいることは大きな喜びである」と評価し、優秀作として「文芸思潮」に転載されることが決まった。今後の展開を楽しみにしたい。

 ほとんどの同人が顔を揃えた今号は、「創刊八十号記念」の名に恥じないものになったと思う。これからも文学の死骸を乗り越えて先に進んでいきたい。(柴野毅実)

「文芸思潮」73号での評価

 

 

 

 

 


「北方文学」創刊80号記念号発行(1)

2020年01月01日 | 玄文社

 

「北方文学」創刊80号記念号が発行になりましたので、ご紹介します。今号は記念号にふさわしくほとんどの同人が顔をそろえ、350頁に迫る大冊となりました。創刊50号記念号の420頁には及びませんが、それに近いものになりました。

巻頭に読売文学賞受賞詩人ジェフリー・アングルスさんの寄稿をいただきました。Characterという英語の4つの意味を、日本語の体験として書いたもので、独特のユーモアと驚きに満ちています。ジェフリーさんの寄稿は5年ぶりくらいかな。

 続いて、魚家明子のたった6行の詩「靴」。短詩系文学に近い緊張感と凝縮された意味内容を持つ彼女ならではの作品です。

館路子の詩が続きます。「鉦叩きが、仄暗い火を鑽る」はいつもの動物をモチーフとした長詩です。鉦叩きは先号の作品にも出てきていますから、リレー方式で続いていくのでしょうか。

 追悼特集が二つあります。一つは「北方文学」に1983年から在籍し、昨年7月に亡くなった、さとうのぶひと(本名佐藤信仁)に捧げられています。彼は小説をもっぱら発表していましたが、10年くらい前から健康上の理由で書けなくなり、同人たちとの交流も途絶えがちでありました。在籍中は最も小説のうまい同人であったと思います。再録の「スバル・サンバートライホテル」は小説というよりも、紀行文的な作品ですが、彼の若い時からの生活ぶりと、奈良・京都の古寺に対する興味、仏教に対するアンビヴァレントな憧憬を読み取っていただけると思います。追悼文も7本を数えます。

 もう一つの追悼特集は、日本を代表する現代詩人であり、昨年8月に亡くなった長谷川龍生氏に捧げられています。画家の木下晋氏から友人としての追悼文をいただきました。「北方文学」とも特別関係が深かった長谷川氏の、東日本大震災を契機に書かれた大傑作「鹿、約百頭の」を再録しました。

評論のトップは霜田文子の「不死の庭――ボマルツォの「聖なる森」――」です。彼女の執筆は3年ぶりくらいです。イタリアにある有名なボマルツォの「聖なる森」を訪れた寄稿文ですが、イタリア美術についての評価を基軸に、ピラネージの廃墟画への言及を含みつつ、ボマルツォの庭の本質に迫ります。

鎌田陵人の「夏目漱石『行人』試論、あるいは意識の単数性について」が続きます。近代人としての意識を徹底的に突き詰めた漱石の内実を『行人』という作品を通して語ります。一郎が言う「死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という言葉の周辺を、真摯に探究する論考です。ちなみに「意識の単数性」というのは、理論物理学者シュレーディンガーの言葉です(作者はことわっていませんが)。

坪井裕俊の「米山敏保論(2)――地方主義の止揚をめぐってーー」は、同人の米山敏保の小説を論じた評論の完結編ということになります。坪井は米山の作品を中央の文芸ジャーナリズムが持ち上げる内容空疎な小説と対峙させていますが、文学の本質が中央覇権主義にないのは、地方主義にないのと同じことだと言っているのでしょうか。

次は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(三)」です。今号では円熟期の作品『聖なる泉』と『使者たち』を扱います。『聖なる泉』はジェイムズの作品の中でもっとも評判の悪いものですが、彼の最高傑作『使者たち』に至るための実験的な試みとして評価することができます。ジェイムズの「認識の至上権」は『聖なる泉』へと突き進み、『使者たち』で一応の完成を見ることになります。。

 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も14回目となります。70年代後半を扱う後編です。先号で取り上げた中村龍介が発行した「とねりこ」と彼が属した「修羅」から始まりますが、時代は高度経済成長期を過ぎて停滞期に入っていきます。そんな中で新潟県内各所で創刊された詩誌についての記録が続いていきます。

先号で鏡花論の2回目を書いた徳間佳信は鏡花を一休みして、本業の中国現代文学の翻訳に取り組んでいます。「農民工二題、彼らはいかに形象化されたか」と題して、張梅の「この町の空」と塞壬の「悲迓――楚劇の唱」で、どちらも女性作家ですが、前者は実験的、後者は古典的な方法による作品です。農民工というのは農村から都市に出てきて仕事に就く人々のことです。背景は彼らの生活の苦しさにあります。

 福原国郎の「親族会決議」はいつもの彼の先祖の事跡を、古文書によって読み解いていく、史伝と言った方がいいような作品です。未だ近代化にほど遠い明治の田舎の人々の生活と人生を興味深く描いていきます。

今号は小説が4本あります。最初に板坂剛の「幕末の月光」。幕末の勤皇の志士が主人公と思いきや、どっかの大学の先生が吉田松陰にいかれた志士に取り憑かれて、学生を相手に時代錯誤の論理を振り回したあげくに、警察に射殺されるというファルスだが、大義に生きることがいかにくだらないことかという板坂の認識を面白く展開している。とにかく面白い。

2本目に新村苑子の「別れ」。功成り名を遂げた叔父が、貧しい時代を一緒に生きそのまま貧困を抜け出せないでいる兄夫婦と甥に対して、臨終の床で反省と憐憫の思いを語る。叔父が生き霊として甥に取り憑くところが小説としてのこの作品の味噌といえる。上手くいっていますでしょうか。

 短い詩も書いている魚家明子の小説は超短編で、母親が大事にしていた人形にまつわる怪奇譚として読むべきか。この人の作品はいつも少し怖い。

 最後は先号の「かわのほとり」で、「文芸思潮」の五十嵐編集長から高い評価を受けた、新人の柳沢さうびの「沃野」です。「かわのほとり」をはるかに上回る出来で、この人は一体どこまでいくのか非常に楽しみな存在です。作品の中身よりもその文体が、昭和の名作を思わせるような懐かしくも完成されたものになっていて、それだけでも脱帽してしまいます。中身については読んでいただきたいと思います。

 

目次を以下に掲げます。

【追悼・さとうのぶひと】さとうのぶひと/略年譜/掲載作品一覧/榎本宗俊/松井郁子/霜垣和雄/井口梵森/成田憲一/清水 実/椛澤友重

【追悼・長谷川龍生】長谷川龍生/木下 晋/館 路子/柴野毅実

ジェフリー・アングルス*漢字の住民

館 路子*鉦叩きが、仄暗い火を鑽る

魚家明子*靴

米山敏保*落蟬

霜田文子*不死の庭―ボマルツォの「聖なる森」―

鎌田陵人*夏目漱石『行人』試論、あるいは意識の単数性について

坪井裕俊*米山敏保論(2)─地方主義の止揚をめぐって─

榎本宗俊*養生について

柴野毅実*ヘンリー・ジエイムズの知ったこと(三)

永野 悟*批評系文芸誌「群系」について

鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史―隣人としての詩人たち(14)

徳間信佳訳・解題*農民工二題 彼らはいかにして形象化されたか

福原国郎*親族会決議

板坂 剛*幕末の月光

新村苑子*別れ

魚家明子*赤毛の神様

柳沢さうび*沃野

なお今号の中身と様々ないきさつについて編集後記を参照していただけるとよく分かると思いますので、(2)で80号の編集後記だけ掲載させていただきます。 

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 


詩人はどこにいるのか

2019年09月26日 | 玄文社

朝日新聞22日号新潟地方版の「Sunday Style」に「北方文学」同人へのインタビュー記事が掲載されました。

国民文化祭の一環で柏崎で開催される「詩フェスティバル」に関連したものです。

ただし、玄文社も「北方文学」も国民文化祭には一切関係しておりません。

 


「北方文学」79号発刊

2019年07月04日 | 玄文社

「北方文学」79号が発行になりましたので、ご紹介します。今号も先号に引き続いて100頁台に落ち着いています。総ページ数は195です。

巻頭にH氏賞受賞詩人・田原さんの寄稿をいただきました。「詩歌の地図」という重厚な作品です。シリアの詩人でノーベル文学賞候補を噂されたこともあるアドニス氏に捧げられています。アドニス氏は現在パリに亡命して暮らしているそうですが、そのことが故国中国を離れて日本で暮らし、日本語で詩を書き続ける田原さんの共感を呼んでいます。シリアの政治状況と中国の政治状況とが重ね合わせになっているようで、それが我々読者の共感を呼び起こします。「言葉はあなたの領土/詩歌はあなたの古里/想像はあなたの翼/哲学はあなたの沈黙」という一節が印象に残ります。

 続いて、館路子の詩が二編。「書き尽くせない日乗へ、追記」は短く、次の「月下、猫に倣って散歩する」はいつもの長詩で、どちらも猫をモチーフにした作品です。館は猫を大切に飼っているそうですから、それこそ書き尽くせない日常の一コマなのかも知れません。

大橋土百の俳句が続きます。「風の瞑想」と題して一挙59句を掲載。2017年から2019年にわたる二年間の思索の結実でしょうか。ふきのとうの写真を挿入していますが、この人の句は春が似合います。

評論のトップは前号に続いて徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡(二)」です。今号から個々の作品論に入ります。まずは「沼夫人」。この作品に序破急の構成を見て、夢幻能としての性質を捉えようとしています。また明治期にはまだ珍しかった「恋愛小説」としての側面も見のがしていません。

次は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(二)」です。今号では初期の作品「ワシントン・スクエア」と中期の作品「ポイントンの蒐集品」を扱います。心理小説の基本的構造としての一対一の対決の中に、セクシュアリティへの根源的な追究を見ています。またジェイムズが打ち立てる「認識の至上権」は、「メイジーの知ったこと」へと回帰し、「聖なる泉」へと突き進んでいきます。

鎌田陵人の「201Q年の天使たち」は、日本のロックバンドThe Novembersの新譜「Angels」について論じたものです。音楽評論はたぶん鎌田しか書けないジャンルだと思います。The Novembersの歌詞と映画「ブレード・ランナー」とを文明論的に比較している部分もあり、サブカルチャーを文学的に語るという形式は、彼独自のものと言えます。

 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も13回目となります。70年代後半を扱う前編となります。この間に発行された「北方文学」10冊に対する言及にウエイトが置かれ、当時の同人で1978年に病死した栗林喜久男と1979年に自殺した中村龍介という二人の詩人を中心に論じています。当時県内では傑出した才能であった二人の墓標とも言うべき文章ではないでしょうか。

石黒志保の「和歌をめぐる二つの言語観について」は今回の(三)で完結です。仏教思想と和歌を通した言語論でしたが、日本中世の言語観は井筒俊彦の言うように、ヨーロッパの言語観に通じる本質的な部分を持っていたようです。専門的な論文ですが、多くの問題を提起したのではなかったかと思います。

 先号で大変面白い「史伝」と言うしかないような「文平、隠居」を書いた福原国郎は、先号の補正として「「暴吏」を挫く」とは」を載せています。古文書の解読を通して、これだけ生き生きと自らの先祖について語ることができるのは、大変得難い才能と言えます。

 以下小説が三本。まずは大長編の連載を終えたばかりの魚家明子の「緑の妖怪」。純粋な子供の世界を書かせたらこの人に敵う人はいません。子供の妖怪願望が大人の世界にまで広がっていくメルヘンのような作品です。

「かわのほとり」を書いている柳沢さうびは新しい同人です。早稲田大学文学部文芸科で小説を実践的に学んだ人で、さすがにプロまがいの筆力を見せています。処女懐胎のお話で、キリスト教神話のパロディかと思うのですが、ともかく一筋縄では捉えきれない作品で、短すぎるのが残念です。

最後は大ベテランの新村苑子「賜物」。不良の息子を殺された母親と父親の対照的な反応を描きます。会社人間として生きてきて、息子に死なれ、妻に逃げられた男の鬼気迫る末路は、世の男性に大きな反省を強いるのでは。

 

目次を以下に掲げます。

田 原*詩歌の地図

館 路子*書き尽くせない日乗へ、追記

館 路子*月下、猫に倣って散歩する

大橋土百*風の瞑想

徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(二)

柴野毅実*ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(二)

鎌田陵人*201Q年の天使たちーーTHE NOVEMBERS 『ANGELS』を聴くーー

鈴木良一*新潟県五十年詩史――隣人としての詩人たち(13)

石黒志保*和歌をめぐる二つの言語観について(三)

榎本宗俊*北越雪譜と苦海浄土

福原国郎*「暴吏を挫く」とはーー「文平、隠居」補正――

魚家明子*緑の妖怪

柳沢美幸*かわのほとり

新村苑子*賜物

 

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「北方文学」78号発刊

2019年01月02日 | 玄文社

「北方文学」78号が発行になりましたので、ご紹介します。先号が244頁で、それでも最近では薄い方でした。このところ300頁前後の号が続いていましたが、久しぶりに100頁台に落ち着きました。
 編集後記に書きましたが、77号発行後同人の入院が相次ぎ、書きたくても書けないという状況がありました。特に大井邦雄の4カ月にわたる入院とその後の療養生活は、グランヴィル=バーカーの『オセロー序説』訳述の連載を中止のやむなきに至らせました。次号からの復帰を祈るばかりであります。
 巻頭は長編小説の連載を続けてきた魚家明子の詩「ねむりの意味」。もともと詩人として活躍してきた彼女ですが、「北方文学」に詩作品を発表するのは初めてです。今号表紙絵の北條佐江子「眠り」に呼応するかのようなタイトルです。しかし、「ねむりの意味」は魚家の身体感覚のようなものに貫かれています。ある意味ではエロティックな……。詩と小説の両方を高い水準でこなす彼女の才能に賛辞を送りたいと思います。
 続いて、館路子の死が二編。「水滴を編む、その生きものは」は短く、次の「朔風の時まで夜を籠めて」はいつもの長詩で、どちらも蜘蛛をモチーフにした作品です。このところずっと動物を素材にした作品を書き続けている彼女らしい作品です。不気味な上臈蜘蛛の姿が、館の巧みなレトリックによって、この上もなく美しいものに変貌していきます。
 評論のトップは徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)」です。彼が偏愛する泉鏡花についての論考の序章ということになります。まずは宣言。徳間は泉鏡花の作品を文学理論の構築に利用するような強引さも、あるいは逆に現実の生活に還元するような立場も同様に否定します。そうではなく「作品分析を通じてその魅力を語ること」を目標として鏡花論は始まるだろう。次号から個々の作品論に入ります。テーマは「水の女」楽しみです。
 柴野毅実の「ベンヤミン――ボードレール――文化人類学」というタイトルは、ありそうもない組み合わせになっていると思われるかも知れないが、読んでみると決してそうではないことが分かります。〝ゴンゾー人類学者〟ことマイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』の紹介です。
 鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩誌史」の「隣人としての詩人たち」も12回目となります。先号に続いて70年代前半を扱うが、高度経済成長と学生運動の時代を背景に県内詩人達の動静を探ります。現存の詩人達の登場で俄然面白くなってきた鈴木の詩史も、この頃から資料も特に多くなって詳述を強いられるでしょう。細かく読んでいくことで面白みはさらに増すのです。
 福原国郎の「凋落」をジャンルとしてはなんと呼べばいいのでしょう。一応「史伝」として位置づける。彼が続けてきた先祖の記録を読み解いての歴史の再現です。福原の祖父、信治郎の生涯をたどります。これが小説のようにめっぽう面白い。これまでで一番読みやすく、面白いことを請け合います。
 続いて小説が二本。先に新村苑子の「新しい朝」。久しぶりに新潟水俣病というテーマに戻っての作品です。新村は新潟水俣病に関わる差別と偏見のあり方を執拗に描いてきましたたが、今回の作品もその延長線上にあります。このような小説は彼女にしか書けないでしょう。
 ラストは魚家明子の「眠りの森の子供たち(五)」で、これで一大長編小説の連載を終わります。最後はトリッキーな部分もありますが、これまで積み重ねてきた伏線を最大限生かして、壮大なコーダとして終わります。それにしても彼女の描く登場人物たちのなんと魅力的だったことか。お別れが辛いという気持ちを抱く人も多いことでしょう。お疲れ様でした。

目次を以下に掲げます。

魚家明子*ねむりの意味
館 路子*水滴を編む、その生きものは
館 路子*朔風の時まで夜を籠めて
徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(一)
柴野毅実*ベンヤミン――ボードレール――文化人類学
--マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』を起点に--
鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史 隣人としての詩人たち<12>
福原国郎*凋 落
新村苑子*新しい朝
魚家明子*眠りの森の子供たち(五)   

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出水市からのはがき

2018年07月10日 | 玄文社

 鹿児島県出水市の松下洋子さんという方から玄文社宛てに、一通のはがきをいただいた。今年の一月六日、七日と熊本県水俣市の水俣市公民館で開かれた、水俣病事件史研究会に参加したところ、会の中で北方文学同人・新村苑子さんの「新潟水俣病短編小説集」の紹介があり、会場で売っていた『葦辺の母子』を買って読み大きな感銘を受けたので、もう一冊の『律子の舟』も欲しいという問い合わせであった。
 私は水俣で新村さんの本が紹介されるなどということは夢にも思っていなかったので、そのはがきに大きな驚きを覚えたのであった。紹介してくださったのは『葦辺の母子』が出版されたときに、新潟日報紙上に書評を書いてくださった、新潟県立大学の後藤岩奈先生であり、かなり詳しい発表であったことを後で知った。
 水俣には今年二月に亡くなった石牟礼道子さんが生涯をかけて書いた『苦海浄土』がある。あの偉大な作品を前にしたら、新村さんの小説の出る幕はないだろうと勝手に思い込んでいた。しかもくぐもった音韻と不明瞭なリズムの新潟弁が、水俣の人たちに受け入れられることはむずかしいだろうとも思っていた。
 しかし松下さんは「会場で本の紹介の後に、会場のなかの人が泣きながら「この本に書かれているのはわたしの家族に起こったようなことです」と発言していました。」と書いている。また「医者や調査会とかの統計等はすこしも心にひびかず、ただ新村苑子様の短編の中の人びとの貧しいくらしぶりや、心の痛みが今も胸を打ちます。」とも書いてあって、私は新村さんの小説が水俣の人々の心に届いたことを知ったのだった。
 松下さんは出水市在住であり水俣市ではないが、出水市は水俣市に隣接する市であり、水俣病の多発地帯である。石牟礼道子さんの『苦海浄土』には次のように書かれている。

「胎児性水俣病の発生地域は、水俣病発生地域を正確に追い、「神の川」の先、鹿児島県出水市米ノ津町から、熊本県水俣市に入り葦北郡田浦におよんだのである。」

 事実、松下さんのご主人とご主人のお母さんは水俣病申請者であるという。新村さんの小説は水俣病関係者の心に確実に、直接に届いたのであった。私はそれは新村さんの想像力の勝利だと思うし、文学にしかできないことがあり、新村さんはそれを成し遂げたのだったと思っている。
 後日松下さんから電話もいただいたが、その時に石牟礼さんの本は何回挑戦しても読み通すことができないから、神棚に上げておくのだという話も伺った。私はそのような書物の遇し方があるということを初めて知った。確かに『苦海浄土』三部作は重厚長大であって、本を読むという訓練を続けてきた人でないと、読み通すことはむずかしいのかも知れない。
 新村さんの『律子の舟』と『葦辺の母子』は昨年七月八日に、新潟水俣病阿賀野患者会が新潟日報メディアシップで開いた、若松英輔さんの講演会で完売してしまった。その後の注文に応じられないできたが、私は松下さんのはがきに目を覚まされて、二冊の本を再版することに決めたのだった。
(「北方文学」77号編集後記より)


「北方文学」第77号発刊

2018年06月26日 | 玄文社

「北方文学」77号が発行になりましたので、ご紹介します。先々号が338頁の超大冊になり、先号も330頁となりましたが、今号は少し落ち着いて244頁のボリュームです。新しい連載も数本あり、同人たちの意欲を感じさせるものとなっています。
 巻頭を飾っているのは先号に引き続いて、館路子の詩「蛾が(記憶に)停まる、今も」。このところ動物をモチーフにした作品が続いていますが、今回は嫌いな人も多い蛾です。蛾は群がって朝に大量死を迎えたり、火に飛び込んで死んだりする習性があり、それを人間の滅亡への意志と重ねています。
 大橋土百は評論「井月やーい」。長岡藩の武家の出身で、信州伊那谷に客死した俳人・井上井月の生涯をたどっています。大橋自身が伊那谷の旧宮田村出身であり、井上井月を温かく迎えた人々の末裔にあたるわけで、これを書くに誠に適任と言うべきでしょう。井月を論じて大橋の望郷の歌となっているところを、味読したいものです。
 山内あゆ子訳、スティーヴン・マクドナルド作の戯曲「ノット・アバウト・ヒーローズ」の第二幕が先号に続いての掲載で、これで完結です。第一次世界大戦時のイギリスを代表する戦争詩人、シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの詩を通した友情を描いた作品。二人の日記や書簡をもとに、二人の友情を克明に描きます。本邦初訳。
坪井裕俊が六年ぶりに作品を寄せています。同人の米山の小説を論じた「米山敏保論(1)―地方主義の止揚をめぐって」です。第11回新潟県同人雑誌連盟小説賞を受賞した、米山の「笹沢」をはじめ、初期の作品を中央文壇の堕落した作品と対峙させて論じています。若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」などに対する批判は激烈を極めます。
評論が続きます。三番目は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(一)」。タイトルは今回論じている「メイジーの知ったこと」から来ています。難解で退屈と言われるヘンリー・ジェイムズの小説に、新しい視点を導入すべく奮闘しています。一回目で「メイジーの知ったこと」しか論じていないので、途方もなく長くなりそうな予感がします。
 鎌田陵人の「アギーレ――回帰する神の怒り」はヴェルナー・ヘルツォーク監督の「アギーレ――神の怒り」について論じた映画論です。16世紀スペインによる南米侵略の中で、ペルー独立を宣言した狂気の人、ローペ・デ・アギーレを描いた問題作です。ベネズエラの作家オテロ・シルバの『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』を参照しながら、最後にニーチェの「大いなる肯定」に結びつけるところが独自の視点。
 昨年、玄文社からハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述書『シェイクスピア・優秀な劇作家から偉大な劇作家へ』を上梓した、大井邦雄の次の対象はグランヴィル=バーカーの「シェイクスピア序説」シリーズの一冊「『オセロー』序説」の訳述です。これが大井が続けてきたグランヴィル=バーカー訳述の本命ということになります。今号はまだ取っかかりに過ぎません。
 鈴木良一が書き継いでいる「新潟県戦後詩史」も、現在も活躍中の詩人たちが登場してきて、面白みを増しています。今号は1971年から1975年までの前半。「北方文学」の展開と吉岡又司の『北の思想』についての記述もあり、70年代前半の「北方文学」について知ることもできます。
  新村苑子の「迎え火」は、 人間関係のトラブルで休職を余儀なくされている教師が、幼なじみと出かけた田舎の送り火の行事に、社会復帰のきっかけを見出すという話。たった二人の登場人物なのに、興味を最後までつないでいく手法のさえはさすが。
魚家明子の「眠りの森の子供たち(四)」がラストです。活劇的な展開が待っています。暴力沙汰あり、火事あり、新しい人物の登場もあって、波乱含みの回です。連載はあと一回で終了です。


目次を以下に掲げます。
館 路子*蛾が(記憶に)停まる、今も
米山敏保*旧街道
大橋土百*井月やーい
スティーヴン・マクドナルド・山内あゆ子焼く*ノット・アバウト・ヒ-ローズ(2)--シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの友情--
坪井裕俊*米山敏保論(1)
柴野毅実*ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(一)
鎌田陵人*アギーレ--回帰する神の怒り--
ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述*『オセロー』序説(1)/鈴木良一*新潟県戦後詩史 隣人としての詩人たち〈11〉
鎌田陵人*ミツメ「エスパー」を聴く
榎本宗俊*歌人について
新村苑子*迎え火
魚家明子*眠りの森の子供たち(四)

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再版できました

2018年04月10日 | 玄文社

 

新村苑子『律子の舟』『葦辺の母子』

 

 3月末に再版ができたので、新潟方面に配本に行ってきました。

 新津の英進堂さんでは熱心な読者の方が配本を待っていてくださいましたが、高速を使わないで行ったため思った以上に時間がかかってしまい、長い時間お待たせすることにな ってしまいました。申し訳なく思っています。

 英進堂さんは個性的な書店で、入ってすぐは普通の郊外型書店のように見えますが、奥の方に人文関係の特別コーナーがあり、マニアにはたまらない品揃えとなっています。坂口安吾のコーナーがあったり、哲学書のコーナーがあったり、なかでも式場庶謳子の画集が置いてあったのにはびっくりしてしまいました。

 他に中央区の北書店さん、シネ・ウインドさんに本を置かせていただきました。よろしくお願いします。

 

 


新村苑子作新潟水俣病小説集再版今月末

2018年03月15日 | 玄文社

品切れが続いていた新村苑子の新潟水俣病短編小説集を再版します。『律子の舟』と『葦辺の母子』の2点を今月末に刊行します。
糸魚川出身、批評家の若松英輔氏から推薦をいただきました。チラシに推薦文を掲載しました。
新潟水俣病阿賀野患者会の酢山事務局長、新潟県立大学の後藤先生から再版の要望を受けておりました。今年1月に水俣市で開かれた水俣病事件史研究会で、後藤先生が新村さんの小説を紹介して下さり、その時新村さんの本を読まれた参加者の方々の反応が決め手でした。読者の声としてチラシに掲載しました。
新村さんの小説は純然たるフィクションです。フィクションでありながら、それが水俣病患者を家族にもつ方々の心を打ったのです。そこには本当の文学の力があります。文学でなければできないことがあるのです。先日亡くなった石牟礼道子さんの『苦海浄土』もまた、フィクションであると本人も言われていたはずです。
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「北方文学」第76号発刊

2017年12月30日 | 玄文社

 

「北方文学」76号が発行になりましたので、ご紹介します。今号は先号が338頁の超大冊になり、次は書き手も量も減るはずと思っていたのですが、あに図らんや今号も先号に迫る330頁となりました。内容も先号に勝るとも劣らぬものとなり、同人雑誌としてはその充実を誇っていいのではないかと思っています。
 巻頭を飾っているのは先号に引き続いて、館路子の詩「地に這うものへの謝辞を込め」です。このところ動物をモチーフにした作品が続いていますが、今回は地に這うカナヘビやヘビ、オオクロアリが登場します。地に這う者たちを隠喩として言葉に回収しようとする試みと言えます。ところで蜥蜴は鳴くのでしょうか?
 俳句が二人。大橋土百は「薔薇の精」。ニジンスキーの句もあります。「終焉は破局破滅か冬薔薇」のような観念的で重い作品から、「温といなぁふふふふふふふ猫の夢」のようなおどけた作品まで、自由自在であります。米山敏保は「沢の螢」。螢にモチーフを絞った22句。
評論が続きます。トップは徳間佳信の「閻連科との公開対話会「『愉楽』(《受活》)はどう読まれたか」」。2016年9月に「日本中国当代文学研究会」が主催した、中国人作家、閻連科との公開対話会の記録である。徳間は研究会の一員として鼎談に加わった。日本でも翻訳されている閻連科の『愉楽』をテーマに中国文学の現状と可能性を追究しています。
 2年ぶりに霜田文子は「立原道造の〝内在化された「廃墟」〟をめぐって(二)」で、連載を再開しています。日本で初めて建築論に〝廃墟〟という言葉を導入した立原の議論を追究。今回のキーワードは〈建築体験〉。精神的体験としての建築の問題を言語芸術との関連から考察しています。
 鎌田陵人の「サピエンス・モノ・コトバ」は、昨年ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に触発されて書かれたもの。結局は人間の問題は言語の問題に収斂されていくということを言っています。言語によってのみ可能な〝否定命題〟が中心的なテーマ。
 柴野毅実の「ロベルト・ボラーニョと恐怖の旅」は、2003年に50歳の若さで亡くなったチリ生まれの作家、ロベルト・ボラーニョの最後の作品『2666』についての批評。エピグラフとして掲げられた、ボードレールの「旅」の一節「倦怠の砂漠のなかの 恐怖のオアシス」を手がかりに超大作を読み込んでいます。
 今号の寄稿は山内あゆ子訳、スティーヴン・マクドナルド作の戯曲「ノット・アバウト・ヒーローズ」の第一幕。第一次世界大戦時のイギリスを代表する戦争詩人、シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの詩を通した友情を描いた作品。二人の日記や書簡をもとに、二人の友情を克明に描きます。本邦初訳。
 先日、玄文社からハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述書『シェイクスピア・優秀な劇作家から偉大な劇作家へ』を上梓した、大井邦雄の次の対象は『マクベス』。グランヴィル=バーカーの「役者のためのシェイクスピア」シリーズの一冊「『マクベス』序説」の訳述です。
鈴木良一が書き継いでいる「新潟県戦後詩史」も、先号から現在も活躍中の詩人たちが登場してきて、俄然興味深さを増しています。今号は1966年から1970年までの後半。
 今年7月に私が刊行した『言語と境界』について、徳間佳信が詳細な解説と批評を書いてくれた。題して「言語――「精神」のありか」。『言語と境界』は決して読みやすい本ではないが、その言わんとするところを余すところなく、徳間は紹介し、論じています。この文章があれば私の『言語と境界』はなくてもいいほどです。
 福原国郎の「文平、隠居(下)」は古文書から読み解く地方史であり、人物伝でもあります。古文書の読み込みに関しては他の追随を許さない福原の独壇場。江戸末期の農村経済が手に取るように分かります。
 このところ凄い小説を連発している新村苑子の「花束」は、テーマを老人介護と思わせておいて、実は団塊の世代の夫婦のあり方にテーマをおいている。小品ではあるが、主人公の人物像がくっきりと浮かび上がってくる佳品です。
 魚家明子の「眠りの森の子供たち(三)」がラストです。連載三回目でいよいよ小説は佳境に入っていきます。かんたの母親の書いた長い文章がこの小説の中のもう一つの物語となって、これ以降のスト-リーを先導していく予感を感じさせます。魅力的な人物が沢山登場してきます。

目次を以下に掲げます。
館 路子*地に這うものへ謝辞を込め/大橋土百*薔薇の精/米山敏保*沢の螢/徳間佳信*閻連科との公開対話会 『愉楽』(《受活》)はどう読まれたか/霜田文子*立原道造の〝内在化された「廃墟」〟をめぐって(二)/鎌田陵人*サピエンス・モノ・コトバ/柴野毅実*ロベルト・ボラーニョと恐怖の旅--大長編『2666』について--/榎本宗俊*歌について/スティーブン・マクドナルド 山内あゆ子訳*ノット・アバウト・ヒ-ローズ --シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの友情--/ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述*『マクベス』序説(1)/鈴木良一*新潟県戦後詩史 隣人としての詩人たち〈10〉/徳間佳信*言語--「精神」のありか 柴野毅実『言語と境界』のために/福原国郎*文平、隠居(下)/新村苑子*花束/魚家明子*眠りの森の子供たち(三)

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