玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ベス・ハート、ライブ(4)

2018年12月18日 | 日記

 8時が近づいてきたので、もうそろそろ会場も開いたのではないかと思い偵察に行ってもらうと、すでに開いていて観客も入り始めたとのことで、わたしたちも腰を上げる。いよいよである。会場に入るとホールの扉も開いていて、観客が席に着き始めている。まだ40分もあるが早いに越したことはない。私は9月12日から宝物のように大切にしてきた、スマホ上のチケットを係員に見せて席に着いた。
 やはり小さなホールでステージも小さい。巨大なホールだと後ろの席では、アーチストが豆粒くらいにしか見えないから、思わず「しめた!」と思った。これならベス・ハートの顔だって見えるだろう。ライブは臨場感が命なので狭いに越したことはない。
 時間があるので周りの観客の人たちを見回す。思った通り中高齢層がほとんどである。ベス・ハートの曲はブルースが基調であり、ヴィジュアルな派手さはないから若者向けというわけにはいかない。だから若年層はほとんどいない。彼女は1972年1月24日生まれだから、現在47歳。私自身もそうだがどう見ても彼女より年上の観客が多い。それは彼女の曲が〝大人の音楽〟であって、それが年上のファンを掴んで放さないからである。
 しかしあの伝説のライブ、2005年のLive at Paradisoでは、ずいぶん若い観客もいたではないか。当時彼女は30歳そこそこで、凶暴なエネルギーを発散していたから、彼女より年下のファンも多くいたのだろう。あれから15年経って、彼女も変わった。よれよれのジーパンを穿いて、寝っ転がって歌ったり、たばこを吸いながらステージ上をうろついたり、片足を台の上に上げ股を開いてキーボードを演奏するような、行儀の悪さは影を潜め、今ではドレスにハイヒール姿である。

Live at Paradiso


彼女が大人しくなって保守化していると批判する人もいるが、私は必ずしもそうとは思わない。第一に彼女が作る曲は当時より現在の方がブルージーな深みと重さがあるし、歌い方も直線的なパワーから、より複雑な情感を表現できるようになってきていると思う。〝円熟の境地〟とは言わないが15年の間に彼女は確実に進化していると思うからである。
 8時45分になって出てきたのはベス・ハートと彼女のバンドではなくて、男性3人組のバンドであった。「前座だ」と思い、2~3曲で終わるだろうと思ったが、いつまでも終わらない。結局30分以上の演奏で、待たせること! ちなみにこのバンドは、ドラムにKris Batring Bandと書いてあったのでそれだと思うが、ネットで調べても分からない。近視で見間違いかな。
 本命が登場したのは9時30分であり、私どもがサン=ジェルマン=アン=レーに着いてからすでに6時間30分も経っていた。やはり約一年間待ち続けてきたライブを見るというのは格別の思いがあり、緊張しないわけにはいかなかった。しかし、一曲一曲はあっという間に終わり、何も噛みしめることができないまま時間は過ぎていく。以下はその時考えたことではない。ライブの間私はほとんど何も考えることができなかった。
 ただ、私には一つ期待していることがあった。最近の彼女は髪をアップにして、後ろで束ねていることが多い。事実今年初めの頃のライブ、Front and Centerのステージではポニーテールでドレスにハイヒールというスタイルを見せているが、そうではなく私は髪を下ろした彼女の姿が見たいのだ。

Front and center

 Paradisoでのライブを見るまでもなく、彼女に最も似合っているのは、長い髪を振り乱して熱唱する姿であって、涼しげに歌う姿ではない。Paradisoの時のようにワイルドでなくてもいいから、鬱陶しいだろうが髪の毛だけは下ろしてステージに立ってほしいと思うのだ。幸いこの日のライブでは、ベス・ハートらしく長い髪を下ろしたまま登場してくれた。しかもドレス姿ではなくパンツにジャケットという露出の少ない姿だった。

 ところで会場を見渡すまでもなく、観客はほとんど白人で、フランス人が大方だったのだろう。向こうはこんなところにアジア系の人がいると思って奇異な目で見ていたのだろうが、日本人はおろかどこにでもいた中国人も見当たらなかった。極東の小国から来たのは私らしかいなかったのは確かだ。とにかくベス・ハートは日本ではまったく知られていないし、CDも国内版が出ていないから、すべて輸入盤に頼っているのである。このブログをきっかけに日本で少しでもファンが生まれてくれればいいと思っている。
 

 


ベス・ハート、ライブ(3)

2018年12月17日 | 日記

 改札口でS夫妻と待ち合わせ、サン=ジェルマン=アン=レーの駅を出ると、目の前にそれほど大きくはない城がそびえ立っている。まずこの城の見学がサン=ジェルマン=アン=レーでの目的のひとつであった。
 この城こそサン=ジェルマン=アン=レー城で、地名はここからきている。12世紀から続く古城であり、17世紀に建て直されるが、ルイ14世がヴェルサイユに移るまで、王の居城のひとつであった。現在は国立考古学博物館になっていて、夥しい数の考古学的遺物が展示されている。


サン=ジェルマン=アン=レー城

 展示室は2階と3階にあって、これをじっくり観ていたら半日はかかるだろう。私は考古学的遺物に対してそれほど興味はないし、コンサートが始まる前に会場を見つけておかなければならなかったので、1時間くらい見学して城を後にした。しかしここは考古学好きの人にはたまらない魅力を持ったところだろう。ぜひパリ観光の延長に加えていただきたい。
 さて街に出て会場のアレクサンドル・デュマ劇場を探さなければならない。持っているのはGoogleの地図だけである。地図というものは上が北になっているが、現地に立ってみるとどちらが北かすぐには判断できない。地図に載っている通りの名前等を頼りに探さなければならない。
 城からそう遠くないところにデュマ劇場はあるはずなのだが、どこをどう歩いても見つけられない。通りにたむろしている学生がいたので、地図を見せて聞いてみるがさっぱり要領を得ない。言葉はほとんど通じないから彼らが分かっていても、言っていることが分からない。分かったふりをしてMerciとか言うが、内心では「自分で探すしかないな」と思っている。
実はもう一か所行きたいところがある。サン=ジェルマン=アン=レーは作曲家ドビュッシーの生地であり、その生家がドビュッシー博物館として公開されているので、そこを見学したかったのである。ドビュッシーのほうを先に探すことにして、地図を頼りに歩くのだが、さっぱり分からない。駅前にタクシーが停まっていたので、S氏が流暢な英語で(彼は英語がぺらぺらなのだ)聞くのだが、運転手も知らないという。地図を見せても分からない。
 ドビュッシーのような偉大な作曲家の生まれた地で、その記念館のありかをタクシーの運転手に聞いても分からないなどということがあるのだろうか。日本ならそんなことはあり得ないだろう。地元の人がドビュッシーの名前さえ知らないのだろうか。もう一度地図を見直そうということになり、地図を右に少し傾けてみると通りがだいたい符合しているのに気づく。やはりどちらが北か判断できないと地図があっても迷うばかりなのだ。
 デュマ劇場の方が近いので、そちらへ先に。城のと目と鼻の先に目的の劇場はあった。鉄柵に囲まれた公園の内部にそれがあることを確認し、今度こそドビュッシー博物館へ。さっきから2回は通った道を3たび通り、地図を頼りに進んでいくとMaison Claude Debussyの表示があった。やっと見つけた。普通の住宅と何ら変わりのないところで、独立した建物ではなく探しづらいのも無理はない。一階は観光案内所、2階3階がドビュッシーの生家跡である。
 ドビュッシーの遺品や写真などを中心に展示されているが、ドビュッシーについて詳しくもないので展示品についてよく理解できない。まあ、ドビュッシーが吸っていた空気が吸えればそれでいいのではないか。記念館というものはそんなものだ。ただ一階の中庭にあった井戸だけは印象に残った。ドビュッシーはこの水を使っていたのだろう。


 さて音楽といってもこちらはクラシックではなく、ブルース。ベス・ハートのコンサートはネットでは午後7時からと書いてあったり、8時からと書いてあったりした。安全のために1時間前の6時に会場に行くとしてその前に食事を済ませよう。
 近くのレストランに入って注文するが、4人とも重いものを食べられる状態でなく、オードブルと飲み物だけを注文。しかし、これが大変美味しい。パリに来て一番の味であった。これまで入ったレストランは席が窮屈で荷物を置く場所もなかったが、ここはゆったりしている。「席の狭いレストランよりも広いレストランの方が美味しい」という法則を発見した。
 6時に会場の前に行くが、ドアは閉ざされている。1時間前なら開けても良さそうなのに。では8時の開演なのか? 本当に今日は11月15日なのか? 不安になってくる。しかし鉄柵のところにあったポスターを見ると、なんと8時45分開演と書いてある。ヨーロッパでのコンサートは開演が遅いとは聞いていたが、そんなに遅いのか、日本なら終演の時間だなどと考えながら、カフェで暖かいものを飲みながら時間をやり過ごすことにした。

 


ベス・ハート、ライブ(2)

2018年12月13日 | 日記

 さて、アンヴァリッドを出て正面を見渡すと、広い通りの向こうの左右に大きな建物が見える。地図と照らし合わせてみると、橋を渡って左にグラン・パレ、右にプチ・パレであるらしい。どちらも1900年のパリ万博の時に建てられた建物である。それを過ぎるとシャンゼリゼ大通りに突き当たって、左に折れてまっすぐ進むと凱旋門に到達すると分かった。
 とにかく歩いてみようということで、相当時間はかかるだろうが、パリの街を満喫するためにもひたすら歩くことにした。20分ほど歩くとアレクサンドル3世橋にさしかかる。やたらと装飾彫刻の多い派手な橋で、悪趣味きわまりない。

 

アレクサンドル3世橋

  橋を渡って左のグラン・パレに到達。巨大な建物でこれも派手な建物だが、アレクサンドル3世橋ほど金ぴかではないので救いはある。あまりに建物が大きすぎて入り口がどこか分からない。正面にミロ展の巨大な懸垂幕があった。これは観たいと思ったが、行列ができていて1時間くらい待たされそうなので断念。ミロ展の入り口を探すだけでも一苦労だったのに。

グラン・パレ(入り口右にミロ展の懸垂幕が見える)


 グラン・パレの内部にも興味があったが、正式な入り口がどうしても分からないので、あきらめて正面のプチ・パレを覗いてみることにした。確かにグラン・パレよりは小さいが、これのどこが〝プチ〟なのかと思うくらい、これも大きな建物である。ここではつい先頃まで伊藤若冲展をやっていたことを聞いていた。

プチ・パレ


 若冲展は日本からの企画で実現した「ジャポニスム2018」の一環で、大変な人気だったらしい。なんと4時間待ちの行列ができたという。ちなみに私がパリ初日の12日に観たArt Brut Japonais Ⅱも「ジャポニスム2018」の一部であった。とにかく印象派の時代からフランス人は日本文化が大好きだったのだ。

プチ・パレ内部


 プチ・パレでは企画展はやっていなくて、無料の常設展だけであったが、それだけでも建物と展示作品は見応えがある。これでプチ・パレならグラン・パレの方はどんななんだろう、もう一度来てみなければと思った。
 シャンゼリゼ大通りはすぐそばである。さあ、どんなところなのかゆっくり歩いてみよう。とにかく道幅が広い。20メートルくらいあるのだろうか。向かいの商店の様子などほとんど分からない。ひたすら凱旋門に向かって左側の歩道を歩いていく。ただ宝石店だとか、ブティックだとか私には縁のない店が多い。お昼を過ぎていたので昼食をと思うが、どの店も高そうで敷居が高く足が止まらない。
 ピザレストランがあったので、ここなら高くはないだろうと思い入店。ピザ・マルゲリータとコーヒーを注文し、二階の窓から下の通りを観察する。いろんな人種が行き交っている。白人、黒人、アラブ系、イスラム系、中国人等々。アメリカほどではないだろうがフランスもまた多民族共生の社会なのである。
 その中で中国人だけは旅行者で、集団をなして歩いている。彼らは観光バスで移動するので地下鉄では姿を見ない。ただ18日に体験することになったが、セーヌ川の遊覧船は乗客の95パーセントが中国人であったことにびっくりした。
 歩いて、歩いてようやく凱旋門に到達。凱旋門にはそれほど興味はなかったが、ここからRERでサン=ジェルマン=アン=レーに向かわなければならない。しかし、13日に購入したミュージアム・パス(パリ中の60カ所くらいの施設をこれひとつで見学できる)があったので、中を覗いて門の上まで登ってみることにした。
 前日の14日にはノートル・ダム寺院で、400段の螺旋階段を登り切って、高さ46メートルの塔の上まで行っているから、凱旋門の階段など何ほどでもない。中の展示物も観たがそれほど面白いものでもなく、すべて忘れた。門の上からの展望もとうていノートル・ダム寺院の塔の上からのそれに比べようもない。
 20日に日本に帰った直後にシャンゼリゼ封鎖、凱旋門でデモ隊暴徒化のニュースが流れたのには驚いた。燃料税引き上げに反対する市民達の反マクロンデモということだが、ホテルでテレビを見たときに例の黄色いベスト運動のことを報道していたのを思い出した。フランス語は聞き取れないが、何か不穏な動向があることだけは分かった。
 デモが少し早ければシャンゼリゼはおろか、土日には閉鎖された主要な観光施設を観ることができなかったかも知れない。しかし、テレビの報道では彼らがそれほど暴力的な行動に出るような人々には見えなかっただけに、よほど腹に据えかねているのだろうと思わざるを得なかった。
 ちなみに、デモ隊はフランスの国旗に1789、1968,2018と書いているが、1789年はフランス革命の年、1968年はパリ5月革命の年である。フランス人は元から過激だったのである。2018年も革命の年としたいのである。マクロン政権を退陣に追い込み、新たな政権の樹立につながるかどうか?

凱旋門の股ぐら


 とにかくシャンゼリゼも凱旋門も早々に切り上げてRERのシャルル・ドゴール・エトワール駅からサン=ジェルマン=アン=レーに向かう。車窓からの景色はどこにでもある都市郊外のそれで、パリの通勤圏内にあるのだろう、集合住宅が目立つ。集合住宅といっても高層マンションはなく、4~5階建てのアパルトマンがほとんどである。
 しかし、サン=ジェルマン=アン=レーに近づくにつれて、一戸建ての住宅が増えてくる。ここはフランス有数の高級住宅地の町なのだ。フランス人の夢はパリにアパルトマンを経営し、その収入で郊外に家を建てて遊んで暮らすことなのだそうである。サン=ジェルマン=アン=レーというところはそんな町なのであった。


ベス・ハート、ライヴ(1)

2018年12月11日 | 日記

 以上のようにして私は妻と二人でパリへ出かけ、ベス・ハートのライヴ当日15日の朝を、オペラ座近く、地下鉄のグラン・ブールヴァール駅から歩いて3分という絶好のロケーションにある、ホテル34bアストテルで迎えたのである。
 パリ滞在は飛行機での移動時間を除いて、12日から19日までの8日間であり、その間主要な観光地はたいがい訪れた。13日にはヴェルサイユ宮殿も見学したが、この日は少なくとも4時間は歩いた。ヴェルサイユは宝物や美術品、豪華な建物をこれでもかという感じで見せつけるので、腹一杯になる。こんなことしていたらギロチンで処刑されるのも当然というべきか。
 パリは東京と違って範囲が狭いので、たいていのところは歩いていける。ということで15日も相当に長い距離を歩くことになった。以下は15日のベス・ハートのコンサートまでの全記録である。
 朝はホテル近くのパン屋で朝食を摂る。朝7時頃から開いていて食べるスペースも確保されている。たいていクロワッサンとコーヒーで済ませる。クロワッサンはばかでかくて日本のものの倍はあるから、一個と少しあれば済む。コーヒーは基本的にエスプレッソで、きついときはカフェ・アメリカンを注文する。これが日本のコーヒーに該当する。
 15日は友人のS夫妻と現地サン=ジェルマン=アン=レーの駅で午後3時の待ち合わせだから、充分観光に費やす時間はある。しかし、予定をきちんと決めていなかったので行き当たりばったりの行動を取ることになる。

マドレーヌ寺院正面

 前日ノートル・ダム寺院を訪れて深い感動を憶えたので、教会を観たいと思い、まず地下鉄でマドレーヌ駅に向かい、マドレーヌ寺院を見学することにした。マドレーヌ寺院はまるでギリシャ建築のような建物で、「これでも教会か?」と思ったが、内部は教会そのもので、巨大なパイプオルガンが設置されているのに驚いた。
 入り口付近にはいろいろなコンサートのチラシやポスターが貼ってあり、ここはパリ市民のクラシック・コンサート会場として利用されていると分かる。正面の扉に十戒をテーマにしたレリーフがあって、気に入ったので写真に撮ったはずだが、ない。
 マドレーヌ寺院は街の雑踏の中にある。正面から通り越しにコンコルド広場の塔が見える。後で聞くところによると、50年ほど前にはこの通りの両側には、観光客目当ての街娼がずらりと並んでいたそうで、彼女らは当時公娼であったらしい。それにしても寺院の前で客引きとは罰当たりな。

マドレーヌ寺院からコンコルド広場を望む

コンコルド広場の噴水

 コンコルド広場までは歩いて15分くらいかな。ここはフランス革命時にルイ16世とマリー・アントワネットがギロチンで処刑された場所で、しかしそんなことを偲ばせるものは何もなく、エジプトのルクソール神殿から運んできたという「クレオパトラの針」と、どこかオリエンタルな雰囲気の噴水がそれを挟んで一対あるのみ。
 殺風景なのと、中国人の団体に寄付を強要されて不愉快だったので、早々に切り上げて隣のチュイルリー公園に。ここも11月の寒空に木々の葉も落ちて殺風景きわまりない。公園の向こうに前日訪れたルーブル美術館が見える。
 園内には、オランジュリー美術館がある。妻はせっかく来たんだから観ようと言うが、私はモネが好きではないのでパス。パリに来てモネを観ずに帰る日本人も少ないだろう。出口で騎馬の警官隊に出くわす。今時馬で、と思うと同時に、糞はどうしているんだろうと思う。案の定近くに馬糞がボツボツと落ちている。誰が始末するんだろう。
 私は少年時代、まだ荷馬車が往来を通っていた頃、道の真ん中に点々と馬糞が落ちていたことを思い出した。パリもまた馬車しか交通手段がなかった時代には、道路に大量の馬糞が落ちていたことだろう。そんなことは18・19世紀の小説を読んでもどこにも書いてないが、それが当たり前の風景であり、意識するようなことではなかったということなのだろう。
 サン=ジェルマン=アン=レーに向かうために凱旋門の下にあるシャルル・ドゴール・エトワール駅からRER(郊外高速鉄道)に乗ることにしていたが、まだ時間がたっぷりあるのでもう一か所行こうということで、地下鉄でアンヴァリッド駅に向かう。

アンヴァリッド

 アンヴァリッドがなんなのか調べていなかったので、遠目にドームが見えたときには、これも由緒ある教会なんだろうと思った。歩いて近づいていくとドームの前に大きな建物が横たわっている。Musée de l'Arméeと書いてある。教会でなく、軍事博物館かと思ったが、建物の向こうにあるドームが気になる。博物館は観ないでドームの方へ。
 ここは全体がアンヴァリッド(廃兵院)で、そこにナポレオンの柩を収めたドーム教会があり、軍事博物館も併設しているということなのだ。後で調べたらそこにはレジスタンス記念館もあったらしい。見学してもよかったな。

ナポレオンの柩が収められたドーム教会


近況報告(2)

2018年12月07日 | 日記

 今回のパリ行きの最大の目的はそんな文学的なテーマではなく、アメリカのブルース・シンガー、ベス・ハートのヨーロッパツアーを追いかけて、11月15日にパリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーで彼女のコンサートを聴くことにあった。
 そのための準備を私はパリ行きの計画を決めた今年初めからやっていた。フランスでは今年5月にパリのPalais des congrèsでコンサートを行っているが、本格的なツアーはフランスでは11月に入ってストラスブールから始まって、リヨンまで7カ所を回るというものだった。
 パリに行くのだからパリから最も近いサン=ジェルマン=アン=レーがいいだろうとあたりをつけ、オフィシャルHPでチケットの売り出しを待ったが、いつまで待ってもbientôt disponibleの表示が出るだけで、サン=ジェルマン=アン=レーの直前のリールや直後のツールのチケットはとっくに売り出しになっているというのに、埒が明かない。
 とにかく日課のように毎日オフィシャルHPを開いて、11月15日のところを覗いてみるのだがまったく変化がない。次第に不安になってくる。サン=ジェルマン=アン=レーがだめなら、13日のリールのチケットを確保しておかねばならない。
 そうこうするうちに7月の入院前に、ついにチケットが売り出しになった。と思ってよく見ると、会場となるアレクサンドル・デュマ劇場の会員先行販売であって、一般売り出しは9月11日午後1時と書いてある。
 さあどうする。会員販売で売り切れたらどうする。あるいは会員になって特典を受けるのもいいが、二度とサン=ジェルマン=アン=レーになど行くことはあるまい。ここはどうしてもリールのチケットを確保しておかなければならない。と考えて迷いつつもViagogoというチケット販売会社からオンラインでチケットを買った。
 幸い、行けなくなったら買い戻しもしてくれるようなので、意を決したのである。オンラインでチケットを手に入れる場合、パソコンやスマホにコンサートの2~3日前に送られてくるということだが、ここにも大きな問題がある。居住地の近くならいいが、海外の場合、デスクトップのパソコンに2~3日前に送られてきたら、すでに目的地へ向けて出発した後ということだってあり得るではないか。これも困った。
 リールの場合は幸い1週間前ということで、出発が11月10日でコンサートが13日だから間に合いそうである。しかしリールはパリから新幹線で1時間くらいのところにある都市で、帰りの新幹線はあるのだろうか。
 調べてみると11時過ぎにはもうパリに戻る新幹線はない。安全を考えてリールに泊まった方がいいだろう。そんなことも考慮に入れて、入院前に旅行社に飛行機とホテルの手配をお願いに言った。準備万端怠りなし。
 しかしリールはあくまでも保険であって、本命はサン=ジェルマン=アン=レーであることに変わりはない。今度は入院中のチケット手配ということになるから、病室にデスクトップを持ち込むわけにもいかないし、携帯をスマホに替えるしか方法がない。これも即座に決断してショップへ。
 7月24日に入院して9月11日までは長かった。それまでスマホの操作に馴れておかなければならない。また時差があるから気をつけなければいけないと思いつつも、11日午後1時(パリ時間)には、鎮痛剤の催眠効果で寝てしまい、起きてもボーッとしていたため挑戦は12日に持ち越した。
 アレクサンドル・デュマ劇場のHPを開いて、ベス・ハートのところを選択し、会場の見取り図の中から気に入った席を選ぶ。リールの場合は15,000円くらいのS席が取れたのだが、デュマ劇場は小さなホールで席数も少なく、よい席は予約済みだ。しかし中央後列に席を確保し、メールアドレスと暗証番号を打ち込み、クレジットカードの決済をすれば完了である。
 チケットはQRコードつきですぐにスマホに送られてきた。2~3日前というのはどうした? とにかくこれで生まれて初めて海外のコンサートのチケットを買うことができた。
 期待は膨らむばかり。もちろん退院後リールのチケットは売りに出した。
 売れた。
(この項おわり)

 

 


近況報告(1)

2018年12月06日 | 日記

 6月21日にゴシック論の『夜のみだらな鳥』を終了し、7月10日に「出水市からのはがき」を書いて以来、このブログから遠ざかって半年が経とうとしている。実は7月24日から9月26日まで2カ月の入院生活を強いられ、その後も後遺症のためにものを読んだり書いたりすることができないでいた。
 病気はあの渋澤龍彦の死の病と同じ。しかしこちらは早期発見であったため、手術はせず放射線治療だけで一応完治した。今年に入って喉に違和感が続き、地元の医院で看てもらったが発見できず、長岡市の赤十字病院で見つけてもらった。
 もしかして転移が進んでいるのではとも思ったが、不思議と楽観的で37回の放射線照射と、抗ガン剤の併用で9割方治ると言われて「そんなもんだろう」と納得は早かった。入院は2カ月だが土日は外泊もOKだった。
 最初抗ガン剤の点滴をするときに、「重篤な副作用も稀にある。皮膚が乾いて全身にニキビのようなものができる。口内炎になってものが食べられなくなる」などと脅されたが、最初の点滴は何事もなく終わった。薬は計7回投与したが、顔がかさかさになったり、背中が痒くなったりする程度の副作用で済んだ。
 放射線の方は「15回目くらいから喉が痛くなってきて何も食べられなくなる」と脅されたが、20回を超えてもほとんど副作用はなかった。その後相当に喉の痛みを感じるようになったが、普通に食べることができた。医者には「我慢強いね」と言われたが、そうではなく鈍感にできているんだろう。
 しかし30回目くらいになって突然食欲が失せた。何を食べても砂を噛んでいるようで、まずいと言うよりも食べることが苦痛になってしまうのだ。味覚障害である。退院までに一度だけ食欲が復活したが、すぐまた元に戻ってしまった。むしろ退院後の半月くらいが味覚障害で苦しんだ時期だった。
 退院したら美味しいものを食べようと思っていたが、味が分からないのだから食べても失望を繰り返すばかり。卵掛けご飯と納豆ばかり食べていた時期もあった。
 ところで、今年の初めから11月にパリに旅行することに決めていた。友人のS氏がその頃2ヶ月間パリに滞在するので、いくらでも案内してくれるというのだ。ありがたい話だったが、本当に行けるんだろうかという不安はあった。
 しかし、パリ行きを目標に2ヶ月間の入院も乗り越え、味覚障害もある程度まで回復に漕ぎつけた。退院は9月26日でまるまる2カ月だったのだが、土日は家に帰っていたから正味は1カ月半であった。
 その間ガイドブックでパリの観光名所を調べたり、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読んだり、出口裕弘の『ロートレアモンのパリ』を読んだりして、事前準備に怠りはなかった。
『パサージュ論』はパリに18世紀に造られたガラス屋根付きの商店街、パサージュ(今で言えばアーケード商店街)をモチーフに展開した都市論であり、歴史論でもある。
 これを読んでおいて、パリに行ったらパサージュを歩いてみよう。できることならベンヤミンのようにそれを時代について考察する起点にしてみようと思っていたのだが、この目論見は完全にはずれた。
 20世紀初頭の激動の時代に亡命のようにしてパリに滞在し、パサージュを散策するのと、21世紀になっていかにもレトロな雰囲気を増大させた居心地のよいパサージュを歩くのとでは大違い。ほとんど生産的な思考など湧いてくることはなかったのである。
『ロートレアモンのパリ』の方では、ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスが書いた『マルドロールの歌』の第六歌最後の場面、マルドロールがヴァンドームの円柱の上からマーヴィン少年を詰めた袋に紐を付けて振り回し、投げ飛ばして殺害する場面を思い出し、できればその円柱くらいは見たいものだと思った。
 出口裕弘はデュカスの住んだ居所についても詳しく追跡しているが、私には作家の旧跡を訪ねるというような趣味がないので、読んでもみな忘れてしまった(後で重要なことに気づくことになるが)。


まだ生きられる!

2017年04月12日 | 日記

 腸閉塞の大手術をしてから10か月が経とうとしている。昨年6月末から10月初めまで3か月の入院生活を強いられ、その後も小腸ストーマをつけていたために、自宅療養の苛酷な3か月を過ごした。半年棒に振ったのである。
 退院後、私が腸閉塞の手術で入院していたと話すと、いろんな人に〝脅し〟とも思われる言葉をかけられた。いわく「知人で腸閉塞の後、癌を併発した人がいる」「腸閉塞は癖になるから悲惨だ」「腸を何回も切って、切るところがなくなって死ぬ」「手術に耐えられなくて死んだ人を何人も知っている」等々……。
 決して〝脅し〟のつもりで言っているわけではなく、「大変だね」というつもりで病気を気遣って言ってくれているのだということは承知している。しかし、思いやりのつもりが、相手によっては〝脅し〟になってしまうこともある。
 こういう話をされると、先の不安に駆られて恐怖に陥ってしまう人も多いだろうが、私はそのような話をわりと平気で聞き流していた。10年前に腹膜炎で死に損なっているし、今回も腹膜炎を併発して、一週間の間に3回の手術を施され、死の淵まで行っていたことを自覚していたからだ。
「死ぬときは死ぬ」という覚悟は出来ているから、そんな話をされても怯えることはなかったのである。多分私は腸閉塞を再発させて、何度か手術を繰り返した末に死ぬことになるだろうと諦めていた。それまでどのくらい猶予があるのかは分からないが、それは既定の事実であると思い込んでいたのだ。
 それには理由があって、担当医が私の妻に対して「またこういうことがあるかも知れませんね」と呟いていたと、妻から聞いていたからである。客観的な現実は、私がそんなに長生き出来ないという事実を示しているように思われた。
 12月に小腸ストーマをはずす手術を行ってから、私の恢復にはめざましいものがあった。一時は49キロまで落ちていた体重も(手術前は62キロあった)、どんどん元に戻って、3月には59キロまで回復し、ほぼ手術前の生気を取り戻すことが出来た。
 そして3月中旬には奈良へ旅して、3日間の間に約20キロも歩いて平気だったので(万歩計をつけた叔父が同行していたので、これは正確な数字である)、健康に対する自信も取り戻すことが出来たのである。
 そうなると欲が出るし、楽観的な期待が大きくなっていく。私にはまだやり残したことがあるし、棒に振った半年を何倍にもして取り戻せるかも知れないと思うようになった。
 しかし、一週間ほど前から便通が思わしくなくなり、何度もトイレに行って少しずつ排便をするという状態になってきた。私は、これはもう腸閉塞の再発に違いないと思い、すぐに病院に行って担当医の診察を受けることにした。
 こういう時ためらったり、我慢したりしてはいけない。我慢しすぎて手遅れになることがある。誰だって手術は恐い。あるいは、場合によっては癌の宣告を受けるかも知れないが、それも恐い。
 しかし、私は既に5回も手術を経験しているし、それがそんなに怖ろしいものではないことを知っている。全身麻酔をかけられるときに、麻酔医に「20数えてください。そうしたら何も分からなくなります」と言われて、私は12まで数え、その後はまったく覚えていないのだ。
 気がつけば、手術の痕の痛みを感じながら、ベッドに寝ている自分を発見するだけだ。手術後に目覚めることがなければ、それは即死を意味するが、そうやって死ねたらどんなに幸せだろう。本人も楽だし、身内の人間にとっても看護の負担がなくていいではないか。
 ということで私は昨日、最初の時のように即入院、即手術という宣告をされることを覚悟で診察を受けに行ったのである。「レントゲンを撮って」と言われてレントゲン室に行っても、そんなに不安は感じなかった。再発なら再発でしょうがない、死ぬときは死ぬのだという覚悟がもう一度戻ってきたのであった。
 担当医はレントゲンを見て、「閉塞はありません。大丈夫です」と言ってくれた。正直嬉しかった。ただし、もう一つ不安があった。私は担当医に「再発しやすい病気のようですが、徴候をどう見極めればいいのですか」と訊ねた。すると担当医は「腸が短くなっているから再発のおそれはほとんどありません」と言うのだった。
 ということで私は今、一人で祝杯を挙げているのである。まだ生きられる! 先生、もっと早く言ってくれればいいのに。


長期入院と幻覚(16)

2016年10月31日 | 日記

 以上長々と書いてきたが、私が手術直後に見た幻覚と夢である。本当はまだまだあって、全部書いておきたいのだが、まとまりがないから読んでも面白くないだろう。少しだけ補足するならば以下のようになる。

「冷凍装置に拘禁」
 新潟県知事選のただ中である。私は6月の段階で新潟県の知事選に関心を持っていたらしい。選挙運動に参加している友人達がいる一方、私は興味はありながらも体が言うことを聞かない。仲間で新潟市に来ているのだが、私はなぜかある韓国人を候補に押している。日本国籍がなければ立候補など出来ないことを知らないのだろうか。
 何らかの結論が出たのかどうか知らないままに、会議が終わり、新潟市から柏崎市に帰ることになり、みんなで集まっていた建物の外に出るが、私は出口にあった冷凍装置に捕捉されてしまう。手足を固定されて十字架のように縦に拘禁されている。誰も私を助けようとしてくれない。

「病室の転移」
 病院内に居酒屋があって、しかもその居酒屋が病院内にありながら県外にもあるという背理に満ちた夢のことを書いたが、これもそれに近い。
 病院は越後湯沢かどこか県内の温泉地にあって、施設はまるでホテルである。私の病室は現在地から飛んでいって、そのホテルの一角に部屋ごと嵌められるのである。外を見ると雪が積もっていて、除雪車が出動している。まだ雪のシーズンには早いのにと思うのだが、ここの方が観光地で病院としても楽しいと思うのだった。
 ただし、ここも同じ病院の敷地内と意識されている。私が入院している病院は市町村の隔たりを乗り越えるくらいに大きいのだ。そのことに何の矛盾も感じないでいる。
 ロビーに行くと、近隣の施設の案内が掲示されている。ロープウエイや公園の案内の中に混じって、エロチックなショーのポスターが張り出されている。しかもそれは旅館の支配人をはじめとする男性だけのショーで、彼等は裸でポスターに写っている。「なかなか進んでいるな。さすが温泉地だな」とわたしは思うのだが、見に行く気は毛頭ないのだった。

 こんなところで、終わりにしよう。書いてしまったら、幻覚や夢の強度がいささか落ちてきたようで、私の中での再現性が薄れてきた。

 

(この項おわり)

 


長期入院と幻覚(15)

2016年10月27日 | 日記

「両手手袋」のつづき
 両手手袋の夢をもう一つ見ている。こちらもなぜか親戚が絡んでくる。親族や親戚にすがろうという私の気持ちがよくでているように思う。
 私は合掌の状態で両手手袋をはめられ、ベッドに寝ながらあちこち救いを求めて出歩いている。親戚の女性を訪ねてその家を訪れるが、玄関先でいくら呼んでも女性は出てこない。とにかく拘禁状態で何も出来ないので、携帯電話で妻に連絡する。どうして両手が動かせないのに携帯電話をかけられたのかは不明である。どうやって移動しているのかも不明で疑問の対象とはならない。
 出てきてくれない。妻にも連絡が取れない。ここは諦めて、医院の看護師をしている女性のことを思い出したので、その医院を目指して移動する。
 医院に着くと受付で「手袋を外してくれ。何にも出来ない」と訴えるのだが、なかなか看護師の女性は出てきてくれない。ようやく奥の方から出てくると、私に向かって冷たく、「ダメです」のひと言。
 それはないだろう。こちらはベッドのまま病院を抜け出して来ているのに、手袋を外すくらい造作もないことではないか。医者も奥から出てきたので、手袋の件を訴えるが、どうも医者には権限がないらしく、私の訴えをよく理解出来ない風である。この医院の実権は医師ではなく、看護師が握っているらしい。
 待合室に入ってまた携帯電話で妻に来てくれるよう頼む。妻は「直ぐ行く」とのことで、妻には感謝しなければならない。待合室で、仰向けに寝ながら妻を待つ。だが、看護士の女性は見て見ぬふりをしている。
 この間の息苦しさといったら夢とはいえ、あるいは夢だからこそ、耐えられないほどである。私は手袋による拘禁の苦しさと、看護師のつれなさの両方に耐えていなければならない。
 とにかくここは妻が手袋を外してくれたので、私は解放される。しかし私は、私がなぜ両手手袋をはめられているのか、理解はしている。つまり、手術の傷跡を自由な手で引っかき回さないようにとの配慮からなのである。
 でも妻には感謝しなければならない。私は決して手術跡を掻きむしることなどしないからと言って、感謝の気持ちを表すのであった。

 


長期入院と幻覚(14)

2016年10月25日 | 日記

「両手手袋」(拘禁夢2)
 たくさんの拘禁夢を見たが、一番不快だったのは「両手手袋」の夢であった。この夢は合掌した状態で両手にひとつの丈夫な手袋をはめるもので、言ってみれば手錠と同じである。手袋をはめられると両手だけでなく全身が動かなくなるから不思議で、実に効率的な拘禁具なのであった。
 私は病院のベッドから、街の中の地下室のようなところに連れて行かれて、身柄を拘束されている。私を拘束しているのは言うまでもなく女性である。それがどんな女性なのか私には分からない。彼女の手下の女性は直接私に接しているが、私を拘束している女性は姿を現さない。
 地下室に寝ていると、「親戚の人がお墓参りに来るからその時は起こして、解放してやろう」と担当は言う。私の家の墓は柏崎の街のど真ん中にあるから、現実を反映している。だから解放ということも真に受けて、おとなしく指示に従っているのであった。
 しかし、親戚が来る時間になっても解放される気配はない。「騙したな!」と私は思うが、なぜか地下室から 出て行くことが出来ない。そのうちに、私は両手手袋の刑に処せられてしまうのだった。
 十字架にかけられたような感じで、手袋だけなのに全身が動かせなくなる。革製ではなく布製のようだが、意外と頑丈で、どんなにもがいても外れない。この不快さは決定的で、私は思いっきりあらがうことになるのだが、いくらあらがっても手袋は脱げないし、「手袋を外してくれ」という私の叫びを聴いてくれる者はいない。
 私は直立した状態で手袋をはめられて、まるでこれから処刑を待つ殉教者のような姿で拘束されている。私を助けてくれるはずの妻や親戚もお墓参りに行っていて、私のことなど忘れているのだろうか?
 助けてくれるはずの人達に見捨てられているという認識がいかにも苦しい。その苦しみは解決の道がないため、永遠に続きそうである。しかも、私が本当は病院のベッドに寝ているのだということを意識出来ないために、この苦しみを合理的に納得することも出来ないのであった。
 両手手袋の苦しさは何とも言い様のないもので、私はもう一つの夢でもこの両手手袋に苦しめられるのであった。