玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(5)

2024年01月27日 | ラテン・アメリカ文学

『マルドロールの歌』には、様々な動物が登場するが、とくに海洋生物が多く直喩や隠喩のために動員されている。リストを挙げれば、タコ、オットセイ、マッコウクジラ、サメ、シュモクザメ、エイ、アザラシ……ということになる。それらすべてが喩のために動員されているわけではないが、タコとサメが特に重要な役割を果たしている。第2歌で、マルドロールは「自分に似た者」あるいは「自分の生き写しの存在」としてのサメと海中で交合するのだし、同じ第2歌で彼は、タコに変身して「四百の吸盤をやつの脇の下にぴったり押しつけて、恐ろしい叫び声をあげさせ」るのである。ここで「やつ」とは〈創造主〉のことを意味している。
 デュカスはマルドロールのサメとの交合や、タコに変身して神を締め上げる様子を〝描写〟しているのだが、誰もそれを単なる描写とは読まないだろう。サメが「自分に似た者」であるということは、サメがマルドロールの隠喩として召喚されていることを意味しているのだし、タコの悪魔のような姿が、〈創造主〉と対峙するのに相応しい存在であるがゆえに、それもまた隠喩として呼び出されているのである。
 レサマ=リマの『パラディーソ』にもまた、様々な動物が登場し、その中で海洋生物が占める割合は『マルドロールの歌』の場合よりもかえって多いかもしれない。『パラディーソ』のボリュームは、『マルドロールの歌』の数倍はあるので、動物の種数も多くなり、海洋生物の数も多くなる。したがってリストは、イルカ、サケ、マナティ、タチウオ、クジラ、タツノオトジゴ、小ザメ、イカ、アザラシ、イソギンチャク、キノボリウオ、ハゼ、タコ、ウミヘビ……のように長くなる。これらが『マルドロールの歌』の場合と同じように直喩や隠喩のために動員されるのである。
 ホセ・セミーが軍人だった父親の面影を求めて、カバージョの要塞の軍馬に思いを馳せる場面がある。その部分は夢とも幻想ともつかぬ奇怪なシーンに満ちているのだが、ここで海洋生物が直喩と隠喩の素材として動員されてくるのだ。

「馬たちは要塞内を駆けめぐりはじめ、兵士たちと混じりあい、すると兵士たちはバロック的な水盤で手を濡らしてから彼らをなでさすった。膨れあがっていく四匹の小魚は、イルカほどの大きさになって四頭の馬を乗りこなしていた。その四頭の馬は、魚たちが膨張を続けてついには破裂してしまうのを避けるために、タツノオトシゴに変容しなければならなかった。 最後には湾の中央で、一頭のクジラが、植物的な鈍速でのたうちまわるのが見えた。」

 海洋生物で『マルドロールの歌』の場合と『パラディ-ソ』の場合で共通しているのは、そう多くはなく、タコとサメくらいなものなのだが、タツノオトシゴに関しては複数回登場するので、レサマ=リマのこだわりが強く感じられる。馬がタツノオトシゴに変身するのは、スペイン語でタツノオトシゴがcaballo de mar(海の馬=英語でもseahorseという)というからで、変身は語の類縁性から来る隠喩の役割を果たしているのである。このことも『マルドロールの歌』における変身の持つ意味との共通性を窺わせる。
 ここで直喩と隠喩のもたらす、それぞれの結果について触れておかなければならない。直喩はいかに奇態なものであれ、「~のように」という指標によって、比喩するものは比喩されるものの方向へと回帰していくが、隠喩の場合はそうではない。隠喩は比喩の指標を持たないために、比喩するものが比喩されるものから離れたきり帰ってこないこともある。比喩するものの遠心力が一定程度より大きければ、それは比喩するものの重力から逃れていくことができる。その例としてマルドロールの変身や『パラディーソ』における馬の変身を挙げることができるだろう。

 


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