玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(3)

2024年01月23日 | ラテン・アメリカ文学

 イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』は、最終第6歌に出てくる「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように(美しい)」という一節によって有名であり、それがシュルレアリスムの先駆的な表現とみなされたのだったが、この部分の全体を読めば、それが奇態な直喩の連続の中にあって、最後のとどめを刺す役割を果たしていることが理解される。こうである。

「彼は美しい、猛禽類の爪の伸縮性のように。あるいはまた、後頸部の柔らかい部分の傷口における、筋肉の動きの不確かさのように。あるいはむしろ、捕獲された鼠によって絶えず仕掛け直されるので、この齧歯目の動物を自動的に際限なく捕らえることができ、藁の下に隠されていても機能できる、あの永久鼠捕り器のように。そしてとりわけ、解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように!」

 ここに見られる直喩の連投は、マルドロールの犠牲となる14歳と4か月の少年メルヴィンヌの美しさを形容しているのだが、人間の美しさとは全くかけ離れた、それどころか美しさ一般とは何の共通項もない比喩が執拗に積み重ねられ、比喩するものは比喩されるものからどんどん離れていく。そして「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というイメージが、少年美の概念を揺さぶりながら、comme(のように)という統辞によって着地に至るのである。
  直喩の連投は、この一節に極まっているが、奇態な直喩は『マルドロールの歌』の第1歌から第6歌までの至るところに仕掛けられている。たとえば、次のような第4歌の直喩を読んでみよう。

「しかしただちに夢のことに移るとしよう、こらえ性のない連中が、この種の話が読みたくてじりじりするあまり、妊娠した雌をめぐってたがいに喧嘩する巨頭マッコウクジラの群のように吠えはじめるといけないからな。」

 この直喩は情景に対する比喩として使われているのではなく、マルドロールがこれから変身の夢を語ろうとしているのに、いつまでもじらされて待ちきれない読者の苛立ちに対する比喩として使われている。一般的に直喩は人間の五感に与えられる情報を形容するために、それに直接関係しなくても、似たような情報を持ったものを持ち出してくることによって成立するが、ここではそうした一般的な慎みの範疇は越えられている。あらゆるものが直喩の対象となり、ありとあらゆるイメージが直喩のために駆り出されてくる。『マルドロールの歌』の基調はそうした直喩の上に成り立っている。いや、直喩だけでなく隠喩もまた直喩と共同して『マルドロールの歌』の独特の世界を形成していくのだが、隠喩についてはもう少し後で分析することにしよう。
 では、『パラディーソ』におけるレサマ=リマの直喩の使い方を見て行くことにしよう。

 


ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

2024年01月22日 | ラテン・アメリカ文学

 このような溢れんばかりの直喩と隠喩によって構成された、濃密でスピード感に満ちた文章世界を、私は既に経験している。それはラテンアメリカ文学においてではなく、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれ、13歳で父母の故郷であるパリに渡った青年イジドール・デュカスが、22歳から書き始めた散文詩『マルドロールの歌』の世界である。
 まず、デュカスの『マルドロールの歌』における特徴的な直喩表現についてみていこう。直喩の特異性はこの作品の冒頭からいかんなく発揮されている。第1歌(1)から引用する。

「踵を返せ、前進するな、母親の顔をおごそかに凝視するのをやめ、崇敬の念をこめて顔をそむける息子の両眼のように。あるいはむしろ、瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように。それは冬のあいだ、沈黙を横切り、帆をいっぱいに広げて、地平線のある一点に向かって力強く飛翔していくのだが、そこから突然、異様な強風が卷き起こる。嵐の先触れだ。最長老の、一羽だけで群れの前衛をなしている鶴は、それを見ると分別ある人物のように頭を振り、その結果くちばしも振ってかちかちと音を立て、嬉しくなさそうな様子を示すのだが(私にしても、この鶴の立場だったら嬉しくないところだ)、他方、羽根がすっかり脱け落ちた、三世代の鶴と時代を共にしてきたその老いた首のほうも、いらだたしげに波打って動き、いよいよ接近してくる雷雨の到来を予告する。経験を宿した眼で四方八方を何度か冷静に見回してから、慎重に、この先頭の鶴は(というのも、知力に劣る他の鶴たちに尾羽根を見せる特権をもっているのはこの鶴なのだから)、憂いがちな哨兵ならではの用心深い叫び声をあげると、共通の敵を撃退すべく、この幾何学的な図形(それはおそらく三角形と思われるが、これらの奇妙な渡り鳥が空間に形作っている第三辺は目に見えない〕の先端を、熟練の船長よろしく、面舵、取舵と、自由自在に方向転換しながら進んでいく。そして雀の羽と同じくらいにしか見えない翼を操って、この鶴は、なにしろ愚かではないのだから、こうして賢明な、より確実なもうひとつの道をとるのである。」

 ここに見られるのは、奇態な直喩と直喩の野放図な展開である。直接的な直喩は「瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように」の部分に明示されているが、この部分が比喩している比喩内容は、これから『マルドロールの歌』を読もうとする臆病な読者が、この作品から撤退していく有様である。しかし、鶴のV字形編隊の直喩は、まるで鶴の隊列そのものを描写していくかのような文章に引き継がれていく。
 前回引用したレサマ=リマの一節と同じように、どこからどこまでが比喩で、どこからどこまでが描写なのか分からなくなるという点において、この文章は一致している。言ってみれば、比喩表現において比喩するものが比喩されるものの束縛を離れて、自由にさまよい出るのである。これはほとんど小説における文章というよりも、詩における詩文の持つ特徴であって、詩人にしか可能ではないし、このような文章を自在に駆使したのは、19世紀のデュカスと、20世紀キューバのレサマ=リマだけかもしれない。
 そうした意味で、レサマ=リマの『パラディーソ』は20世紀ラテンアメリカ文学において、極めて特異な作品であると同時に、ブームの時代を代表するいくつかの作品に充分比肩し得る優れた作品であったと私は思う。『マルドロールの歌』は多くの詩人や作家に影響を与えたが、レトリックの面で正統的な後継作品を生んではいない。『マルドロールの歌』に近い作品がほとんど存在しないのだ。しかし、20世紀キューバにそうした作品が例外的に存在したということを私は言っておきたい。
 以下、私はそのことの証拠をいくつか挙げていこうと思う。


ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

2024年01月19日 | ラテン・アメリカ文学

「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」というキャッチコピーに乗せられて、キューバの作家、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を購入し、読んでみることにした。レサマ=リマがいわゆる「ブームの時代」より前の世代の作家であることも知らずに読んだのだが、読み進むにつれて、これまで読んできたラテンアメリカ小説の、どの作品とも似たところのない作品だということを了解した。
 私にとってのラテンアメリカ小説の代表作を挙げるとすれば、チリの作家、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』であり、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、メキシコのカルロス・フエンテスのゴシック長篇『テラ・ノストラ』であり、ペルーのマリオ・バルガス=リョサの歴史小説『世界最終戦争』であり、キューバのアレホ・カルペンティエールの『光の世紀』であり、といったところになるだろう。
 どの作品も長篇であり、得難い読書体験を与えてくれるユニークな作品であるが、『パラディーソ』の独自性には及ばない。『パラディーソ』には『夜のみだらな鳥』のような幻想文学的な要素は少ないし、『テラ・ノストラ』や『世界最終戦争』のような歴史小説的な要素もない。架空の村の年代記である『百年の孤独』のような、一族の歴史を語って南米の普遍性に迫るような小説とも明らかに違う。同じキューバの後輩作家、カルペンティエールの『光の世紀』のような端正な語り口などどこにもない。
 ではどこに『パラディーソ』のユニークさがあるかと言えば、それはレサマ=リマが根っからの詩人であること、生涯に残した小説作品がこれ一作しかないことに拠っているように思う。この作品はほとんど小説とは思えないような文章で書かれており、散文詩的な作品とさえいえるのであって、ラテンアメリカ文学を代表する多くの傑作に、このような作品はないと言ってもよい。読者はこの小説の第2章で、早くも次のような文章に突き当たるのである。

「ルーバがアルコールに浸した紙束を激情をこめて振るうので、アルコ?ル精気の微粒子は震える小鼻に打ちつけてかすかな刺激をあたえた。彼女のひとつひとつの動きに従って鏡の縁の動植物の配置が変化するように見え、まるでタペストリーに描かれた楽園の光景を激しく揺さぶる雹まじりの嵐のようだった。その腕は船客を桟橋に運ぶランチのように鏡の水面を横断していき、握りしめた紙の棍棒は、明暗法によるマホガニーの反映の間で草を食んでいるカモシカの尾にぶつかった。その勢いでルーバは腰をたわませて腕をアーチ状に掲げたまま後退したので、危険なほどベンチの端に接近するとともに、彫り物細工の枝葉の繁みの間から覗くような機動的な視角を得ることになったが、カモシカの尻尾を放したのでカモシカは岩の間を跳ねたり蹄でなでるようにスイレンに触れたりしながら姿を消した。彼女は体勢を持ち直してふたたび一歩前に進み、再度ナポリの朝の踊りのようなアーチを出現させ、ポケット版のヘレスポント海峡をあらためて横断しようとして、アルコールの浸透によって預言者のマントと化した紙束で海峡を覆いつぶしたが、それから額縁の岩からも手を放したので小川に突発的な大波が起きて、カモシカはもう二度と姿をあらわさなくなった。」

 この一節は使用人のルーバとトランキロが屋敷で二人きりとなり、一緒に掃除をする場面であり、ルーバ(女)がトランキロ(男)にすり寄って来るので、トランキロがシャンデリアの上の方へと逃げていく喜劇的な場面に過ぎないのだが、どこまでが描写でどこまでが直喩なのか、あるいはどこまでが隠喩でどこまでが描写なのか判然としないために、そこで何が起きているのか読者に理解する余裕が与えられないという性質を持っている。
 この一節を読んで、まだA5判9ポ2段組600頁の大冊の5%しか進行していないのに、私は「この小説は読み通すことができる」と確信するに至ったのだった。何が書かれているかよりも、どう書かれているかの方に比重がかかり、そこに文章を読んだ時の悦楽を見出すことができると判断したからである。
 著者が断続的に30年以上の歳月を費やして完成させ、そして訳者の旦敬介がこれも断続的に20年かけて翻訳した『パラディーソ』を超高速で読んでいくことができた。旦はこの小説にはゆっくりとした時間が流れていると言っているが、濃密でスピード感あふれる表現に溢れているのも事実であって、読者がそれにつられてじっくりとではなく、早いスピードで読んでいくのも流儀として認めてもらってもいいだろう。

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2022、国書刊行会)旦敬介訳

 


マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(3)

2022年02月22日 | ラテン・アメリカ文学

 この小説の背景にあるのは、1990年から2000年までペルーの大統領であった、アルベルト・フジモリの腐敗した政権である。ドクトルの名で登場する大統領の黒幕的人物は、ペルーの国家情報局顧問をつとめフジモリを補佐した、ブラディミロ・モンテシノスという実在の男である。フジモリの名は実名で出てくるのに、この男の実名を出さないのは、彼の黒幕的な性格を匂わせるためであろう。
 この小説で実は最も存在感が薄いのがこの男なのである。『チボの狂宴』(2000)では、権力の凶暴性を圧倒的なリアリズムで描いているし、他の小説でも政治権力が纏う恐怖感を描くのに成功しているのに対し、このドクトルはあまりに卑小で黒幕としての恐ろしさを感じさせない。ドクトルは、「デスタペス」の二代目編集長ラ・レタキータこと、フリエタ・レギサモンが乳房の間に隠した録音機の音声データの暴露によって失脚し、小説はハッピーエンド(?)に終わるのだが、権力の中枢にある策謀家が録音機の存在を疑わずに重大な発言をするなどということがあり得るだろうか。
 しかし、実在のモンテシノスもこの小説におけるような大失態によって、失脚しているのである。なんと自分自身が仕掛けた隠しカメラに映っていた買収の映像が暴露されたことによって、彼は職を失っている。実在の人物もまたへまで間抜けな男だったのである。
 このドクトルが代表しているものこそが、フジモリ大統領の行った恐怖政治なのであった。リョサは1990年の大統領選挙で、このフジモリと闘って敗れたのであったが、その選挙で彼がどんなに汚い手段を使ったか、リョサがどんなに屈辱的な思いを強いられたかが、1993年の『水を得た魚』に詳しく書かれている。フジモリは大統領就任後、議会をないがしろにし、テロリストとの闘いでは多くの人権侵害を行い(1996年の日本大使公邸占拠事件で、投降したセンデロ・ルミノソのメンバーが射殺されたことを思い出してほしい)、ジャーナリズムに対する脅迫や選挙での不正の数々を行った。そうした政治手法が国民の怒りを買い、フジモリもまた亡命を余儀なくされ、日本にまで逃げてきたことは記憶に新しい。
 リョサはフジモリに対する激しい怒りを持続させていて、彼の娘ケイコ・フジモリが2016年の大統領選挙に出馬した時、彼はスペインにあって、海外からペルーの国民にケイコに投票しないように呼びかけたことも、日本で報道された。リョサはケイコが当選した場合の、父親への恩赦と彼の影響力の復活を恐れたのである。ただし、2021年の大統領選では、「ケイコの方がまだまし」と、ケイコ・フジモリ支持の発言をしている。政治の世界は複雑である。
『シンコ・エスキーナス街の罠』は政治小説であると同時に、エンリケとその妻マリサ、エンリケの弁護士ルシアノの妻チャベスとの間の性的冒険を描いて、官能的というよりもポルノ的な小説でもある。彼らが代表しているのはペルーにおける上層階級であって、彼らの性的放縦がリョサによって肯定的に捉えられているわけではない。
 訳者の田村さと子は「上層社会を変革しかねないエロティシズムの制御不能な勢い」などと言っているが、むしろ私は彼らの性生活も戯画的に描かれているように思う。リョサの性描写は図式的で紋切り型であり、二人のレズビアン関係に男が参入していくところも、説得力もなければ必然性も感じられない。だから官能的というよりもポルノ的と私は言うのである。
 最後の第22章「ハッピーエンド?」に「?」が付いているのは、意味深長である。3人の関係にルシアノが新たに参加することになるのではないか、という予感を持ってこの小説は終わるのだが、そこにこそ新たなる火種が伏在し、新たなる不安定要素が生まれ、性における政治的要素の介入が始まるという予感を抱かせるのである。
(この項おわり)

 


マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2)

2022年02月21日 | ラテン・アメリカ文学

 話を『シンコ・エスキーナス街の罠』に戻そう。この小説のストーリー・ラインはおよそ4つある。一つは実業家エンリケ・カルデナスの妻マリサと、彼の弁護士ルシアノ・カサスベージャスの妻チャベラとのレズビアニズムと、それに巻き込まれて3Pの行為に至福の時間を過ごすエンリケの倒錯の世界。もう一つは二年前エンリケが騙されて参加した、娼婦たちとの乱交パーティの写真をネタに、彼を恐喝する「デスタベス」(暴露の意味)の編集長ロランド・ガロの動き。そして、ガロによってテレビの仕事を失い路頭に迷った、かつての吟遊詩人フアン・ペイネタのガロに対する怨恨。さらに、ガロを殺し、次の編集長フリエタ・レギサモンを利用しようとする、フジモリ大統領の側近通称ドクトルの暗躍。
 一見なんも関係もないとも思える4つのラインが交互に進行していって、最後に謎が解かれてそれらが複雑に絡み合っていることが判明するという構造は、推理小説的ということもできる。しかし、この方法はリョサが若い時から自分のものとしてきたものであり、『緑の家』(1966)や『ラ・カテドラルでの対話』(1969)などでもみられる方法なのである。
 このストーリーの多元性ともいうべき構造は、長編小説の基本であると同時に、政治小説には欠かせないものであって、時に通俗と紙一重になりながらも、『シンコ・エスキーナス街の罠』がかろうじて持ちこたえているのはそのためである。単純化していえば、権力の構造が多元的なストーリー展開の中で徐々に明かされていくのであるが、権力というものはあらゆる所にその食指を延ばしていくものだからである。
 第20章「つむじ風」は、私が「シャッフル」と呼んでいるリョサの若い頃の方法を久しぶりに再現して見せてくれている。めまぐるしく時間と空間が移動し、マリサとチャベラのレズビアンの描写の後に、何の断りもなくドクトルがフリエタ・レギサモンを脅す場面が続き、エンリケの乱交パーティの後に、何の説明もなくガロ殺しの容疑で捕まったフアン・ペイネタの場面が接続されるという具合になっている。
 リョサの初期の作品ではこうした手法が多用されていて、そのためにストーリーを追うのが困難になったり、いささかうるさく感じたりすることがあった。『ラ・カテドラルでの対話』や『パンタレオン大尉と女たち』などの作品では、全編にわたってこの手法が使われているために、その実験的な意義は認めつつも、どうしてわざわざ小説を分かりにくくさせるためにこんな手法を使うのかと、疑問さえ感じたのだった。
 映画でいうモンタージュに近いこの手法を、私は「シャッフル」と呼ぶことにしたのだった。それが小手先の手法に見えることもあることから、私はそう呼んだのである。しかし複数の出来事が同時進行する場面を、極めて強い緊張感のもとに描くことができるという効用もあったことは確かである。ただ、それが成功している時は良いが、失敗したらうるさいだけなのである。
 リョサは『パンタレオン大尉と女たち』を最後に、この手法を封印してきたから、二度とこれを使うことはあるまいと思っていたが、彼はおよそ40年ぶりにこの手法を復活させたことになる。ただし使い方は大きく違っている。初期の作品では、いたるところで、さしたる必然性もない場面でも、この方法をいわば乱用していたが、『シンコ・エスキーナス街の罠』では第20章に限定して使っているのである。
 この違いは私にとって、「シャッフル」の手法にまだ可能性が残されていたのかという感慨を抱かせるものであった。リョサは第20章にすべてのストーリーを集合させ、それぞれのラインの隠された謎の解明を一挙にやってのけているのである。久しぶりに目の覚める思いがした。

 


マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(1)

2022年02月20日 | ラテン・アメリカ文学

 マリオ・バルガス=リョサの作品については、邦訳されたものはそのほとんどを読んできた。20作品にも及ぶ小説だけではなく、文学論やエッセイ、自伝まで、ただ一冊『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』(1986)を除いてすべてを読んだ。この小説を除外しているのは、それが推理小説だからという理由であり、推理小説嫌いの私にはいっこうに食指が動かないからなのである。
 今回『シンコ・エスキーナス街の罠』(2016)を読んだので、2010年のノーベル文学賞受賞後の彼の小説3作も読み切ったことになる。しかし、ノーベル賞受賞後の彼の作品については、いずれもそれ以前の作品に比べて作品としての訴求力が弱いという感じを否めない。『つつましい英雄』(2013)はおそらく、リョサの作品の中で最も穏当で、精彩を欠いたものだったし、受賞第1作『ケルト人の夢』(2010)も、リョサらしくない作品だった。
『ケルト人の夢』は一月ほど前に読んだばかりなのだが、このアイルランド人の外交官で同性愛者であった、ロジャー・ケイスメントの生涯を追った作品を私はあまり好きになれなかった。リョサにはこうした実在の人物の生涯を追った作品がいくつかあるが、どれもあまり成功しているとは言いがたい。
『楽園への道』もそういう作品で、ゴーギャンとその祖母フローラ・トリスタンの生涯を交互に記述していくものだったが、どうにも喰い足りない小説である。おそらくリョサは、そういう小説の書き方に向いていないのだ。主人公に対する感情移入に弱さがあるし、弱ければ弱いでもっと突き放して客観的に書けばいいのだが、その辺のスタンスが中途半端でいけないのである。だから読者は主人公に対して強い共感を抱き得ないのだ。
『ケルト人の夢』もまさにそういう作品であって、読者は主人公ロジャー・ケイスメントの被植民者に対する共感と、植民者に対する彼らの抵抗に共感することはできても、彼の同性愛について同調してついていくことができない。だから私は『ケルト人の夢』について書くことができなかったのである。
『シンコ・エスキーナス街の罠』はリョサの一番新しい小説ということになるが、この作品でリョサは久しぶりにリョサらしさを取り戻しているように思う。〝リョサらしさ〟とは何かといえば、それは〝人間を政治的闘争の場において描く〟ということであって、処女長編の『都会と犬ども』(1963)から『チボの狂宴』(2010)までを貫く、一貫した姿勢ではないだろうか。
 主人公に対する大きな思い入れなどなくても構わない、それよりも人間を闘争の場において描くというスタイルこそが、リョサらしさなのである。そういう意味で彼の小説は基本的に政治小説なのだと言うこともできる。『ラ・カテドラルでの対話』もそうだったし、『パンタレオン大尉と女たち』(1973)もそうだった。
 特に『世界終末戦争』(1981)は、ブラジルのカヌードスの乱(1896-97)を描いて、政治小説の極致をなしている。戦争が政治の延長上にある暴力行為であるとすれば、戦争を描いた小説は政治小説を極端化したものに他ならないからである。しかもリョサは『世界終末戦争』にあっては、反乱軍の側に立つ登場人物たちに見事に感情移入し、一人一人の人物像を極めてクリアに描き分けることに成功している。
 私がリョサの作品の中で『世界終末戦争』をもっとも高く評価するのは、以上の理由による。それは集団のドラマであると同時に、一人一人の個人のドラマでもあるという相当な困難事を成し遂げているのである。

・マリオ・バルガス=リョサ『シンコ・エスキーナス街の罠』(2019、河出書房新社)田村さと子訳

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(23)

2018年06月21日 | ラテン・アメリカ文学

 寺尾隆吉は次に「魔術的リアリズムの新展開」として、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』を取り上げていくが、その語り口はルルフォやガルシア=マルケスを論じるときほど滑らかとは言い難い。
『夜のみだらな鳥』のあらすじ紹介(この小説のあらすじを書くことにどんな意味があるかということを、寺尾自身が知っていながらもなお)に終始し、この小説の構造についての分析に至らない。苦し紛れに『夜のみだらな鳥』における方法のことを「負の魔術的リアリズム」などと呼んでみせるが、そんなものがあり得るとは私には信じがたい。
 寺尾が言うところの『夜のみだらな鳥』への評価を見ると、ことごとく『百年の孤独』とは逆方向を向いていて、それでも「魔術的リアリズム」を言い立てるなら〝負の〟という形容詞を付加するしか仕方がないのである。

「『百年の孤独』の語り手が物語と一体化するのに対して、ムディートは自分の作り出したカオスに飲み込まれて自己崩壊する。前者は線上に前進する小説の動力に乗ることで物語の進展と共に自己を形成するが、ムディートは小説の動力に逆らって物語の形成を妨げる。」

あるいは

「ここまで支離滅裂な言葉を発して物語を紛糾させるケースは珍しい。自分の発する言葉が物語を形成しそうになるたびにムディートはこれを壊さずにはいられず、断続的に「すべてはでたらめ」、「自分は存在しない」、「こんな人物はいない」などの言葉を発して、芽生えかけた物語を覆す。『百年の孤独』が小説の動力を正方向に利用するのに対して、『夜のみだらな鳥』はこれに逆らうところから生まれる負の力で作品世界を作り上げている。」

 このような文章を読んで、私は寺尾が素直に『夜のみだらな鳥』は魔術的リアリズムによる小説ではない、と結論づけたら楽になれるだろうにと、心底思う。私はラテンアメリカ文学をむやみに魔術的リアリズムで括る必要はないと考えているので、寺尾の議論に賛成できないのだ。
 では、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』には」何があるのか? それこそが私の今回のテーマであって、これまで23回にわたって書き継いできた原動力になっている。まとめて言えば次のようになるだろう。
『夜のみだらな鳥』は閉所恐怖と相続恐怖を特徴とするゴシック小説であり、二つの恐怖を極限にまで推し進めた、ラテンアメリカ文学最大のゴシック小説である。一方『夜のみだらな鳥』は、執拗な繰り返しと取り替え可能性の偏在、そして多くの矛盾を孕んでいる。
 それはこの作品が伝統的な小説のディスクールによって書かれているのではなく、むしろ詩のディスクールによって書かれているからである。小説のディスクールは表象を必要とするが、詩のそれは表象を拒否するのであるから。
 だから『夜のみだらな鳥』は幻想小説ですらない。それはドノソ自身の分裂症的気質がもたらす多くのオブセッションに形を与えようとする妄想の物語である。畸形とはそのようなオブセッションに与えられた表現形に他ならない。
『夜のみだらな鳥』の大きな特徴は、歴史や社会からの逸脱であり、そのことによってこの小説を律するものが魔術的リアリズムなどではないことも理解される。ドノソはラテンアメリカ文学の中でも最も社会性の薄い作家であったかも知れない。
 しかし、『夜のみだらな鳥』のもつ世界観や歴史認識というものはこの小説の言葉の中に歴然と刻み込まれている。そのようにしてドノソは歴史や世界というものに近づこうとする。それは、ある意味文学の宿命でもある。

『夜のみだらな鳥』の終盤で「毒々しい色の小さな椅子に腰かけて、音楽の刺戟にも、訴えにも、嘆きにも無感動な客を相手に、ローリング・ストーンズが泣きわめいている」との一節がある。『夜のみだらな鳥』が完成したのが1969年だから、ここで流れているストーンズの曲は同年のアルバムLet It Bleedに入っているMonkey Manではないかと思われる。ジャンキーを歌った曲で、歌詞は自虐的、まさに泣き叫ぶという感じの曲だ。『夜のみだらな鳥』に最も相応しい曲である。ドノソと親密だったカルロス・フエンテスの『脱皮』という小説にも、カーラジオからストーンズの曲が流れてくる場面がいくつかある。ドノソもフエンテスもストーンズが好きだったに違いない。
 最後に畸形たちのイメージを示しておこう。ローリング・ストーンズの1972年のアルバムExile on Main Streetのジャケット写真である。このアルバムジャケットを見て、ホセ・ドノソがにやりと笑わなかったはずがない。


(この項おわり)

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(22)

2018年06月20日 | ラテン・アメリカ文学

 寺尾隆吉が次に取り上げるのは、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』である。『ペドロ・パラモ』はメキシコ革命の混乱を「生者と死者が混交し、現実と過去が交錯する」幻想的な物語として描いた作品である。寺尾は〝『ペドロ・パラモ』と死の共同体〟ということに触れて、「魔術的リアリズムの特質は、非理性的視点が個人レベルを越えて、一つの共同体を作り出すところにある」と書いている。
『ペドロ・パラモ』における非理性的視点とは、まさしく墓の下で眠る死者の視点そのものであり、それが個人レベルを越えて、死の共同体を作り出すのだと寺尾は言いたいのだろう。
 寺尾の言う「魔術的リアリズム」は定義が多すぎて、適用範囲がむやみと広がってしまう傾向があるが、たとえば「小説の虚構性を前提に、架空の物語に説得力を与えるためにリアリズムを用いる」というような定義ならば受け入れることができる。
 この定義は幻想文学の虚構とリアリズム(表象性)をめぐる定義にも近づいていて、『ペドロ・パラモ』はまごうことなき幻想文学の傑作でもあるから、それを適用できるし、さらにはガルシア=マルケスの『百年の孤独』にも適用できる。
 しかし、『ペドロ・パラモ』もまた『夜のみだらな鳥』とどのような共通性を持つというのだろう。『ペドロ・パラモ』には『この世の王国』に見られるような、土俗的信仰に対する盲目的な讃美もなければ、楽観的な政治主義もない。しかし、『ペドロ・パラモ』がメキシコの現実と歴史とを描き出していることは紛れもない事実であり、ドノソの『夜のみだらな鳥』にそうしたものを見ることはとてもできない。
 前に言ったように『夜のみだらな鳥』は現実や歴史からの逸脱を示しているのであって、参画を示しているのではない。『ペドロ・パラモ』が幻想文学的手法をもって、メキシコの現実や歴史を描いたのだとすれば、それこそ「魔術的リアリズム」と呼ばれるべき方法であって、ほかの定義など必要ないのではないか。
 ガルシア=マルケスの『百年の孤独』もまた、幻想文学的手法をもってコロンビアの現実と歴史を、ひいてはラテンアメリカ全体の現実と歴史を描いたものだと言えるだろう。そこに〝語り〟の問題が、ルルフォの場合もガルシア=マルケスの場合も絡んでくることになり、それが魔術的リアリズムにとって重要な要素となることは間違いないが、その〝語り〟とドノソの『夜のみだらな鳥』における〝語り〟が同質のものだとは、私は思わない。
 寺尾隆吉は『百年の孤独』について、魔術的リアリズムと関連させて次のように言う。

「『百年の孤独』の最大の特徴は、共同体の建設と「歪曲」された視点の獲得が、物語自体の動力のなかで、新たな登場人物の絶え間ない参加とともに実現されてくる点にある。」

 この文章で「共同体の建設」というものと「「歪曲」された視点の獲得」というのが、寺尾の言う「魔術的リアリズムの二本柱ということになるのだが、いかにも苦しげな定義である。もう少し分かりやすい文章を引けば、

「ルルフォとまったく違った仕方ではあるが、ガルシア・マルケスも、超自然的(とされる)事象の発生を可能にする独自の視点を、物語の進行と共に無理なく完成させることに成功した。これによって、架空の世界であることを意識させぬまま、マコンドの共同体全体を読者に受け入れさせることができるのである。」

 いいだろう。これで魔術的リアリズムをめぐって、フアン・ルルフォとガルシア=マルケスを結びつけることができる。しかし、『百年の孤独』と『夜のみだらな鳥』の間に、どのような共通項があるというのだろう。
『夜のみだらな鳥』は最初のアスコイティア一族の物語の部分を除いて、超自然的事象を扱うことはないし、それを読者に〝あり得ること〟と説得させることもない。ましてやコマラやマコンドのような架空の共同体(それはそこに住む住人の時間的、空間的帰属意識の共同性を前提とする)が、『夜のみだらな鳥』のどこにあるというのだろう。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(21)

2018年06月19日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』が含まれる水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズの編者である寺尾隆吉が、この作品の解説を書いている。その中で寺尾はドノソのこの作品をガルシア=マルケスの『百年の孤独』とともに「魔術的リアリズムを代表する二作」と規定している。しかし、私にはこのドノソの『夜のみだらな鳥』が「魔術的リアリズム」を代表する作品とはとうてい思えないのである。
 寺尾隆吉自身の著書『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』によれば、魔術的リアリズムの原型はキューバの作家アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』に求められるという。そのことは私自身の読書体験からしても素直に頷ける事実である。
カルペンティエールの『この世の王国』には、マニフェストとしての序文が付いている。それは彼がこの小説の舞台となったハイチを訪れたときに、それまでパリで暮らしシュルレアリスムの影響下にあった自身に訪れた、認識の転換点について述べたものである。
「驚異的なものを捉えるには、何よりもまず信じることから始めなければならない」とし、それがないところには衰弱したシュルレアリスムしかあり得ないと、カルペンティエールは言う。配置には未だヴードゥー教も生きている。それを信じること、そうしなければ驚異的なものを作品化することはできない。そしてハイチだけでなく、ラテンアメリカ世界は驚異的なものに溢れているのだ。
『この世の王国』はハイチの黒人の視点に立って、ヨーロッパの白人に対する抵抗や反逆を描いた。それも超自然的現象がまるで史実であるかのように描いた。カルペンティエールはフランス人の父とロシア人の母のあいだに生まれた、れっきとした白人で、『この世の王国』での方法には様々な矛盾があり、すぐに行き詰まってしまうのだが、それはまた別の話である。
 魔術的リアリズムの原型として『この世の王国』があるということは、それが西欧世界と対立するラテンアメリカ的価値観によっていること、そしてラテンアメリカ世界にあっては現実そのものが魔術的であること、さらにはそこに現実変革的な意志が存在するということを意味している。
 いったいホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』のどこに、カルペンティエールの『この世の王国』と共通するものがあるというのだろう。故国チリの現実に嫌気がさして国を出て放浪したドノソには、ラテンアメリカ的価値観を至上とする考えもなかったし、『夜のみだらな鳥』で魔術的な現実世界を描いているわけでもない。ましてや政治的には無関心を貫いたドノソに、革命への志向などあり得るはずもなかった。ドノソは自作について次のように言っている。

「『夜のみだらな鳥』は迷宮とも分裂症とも言えるような小説で、そこでは現実と非現実、睡眠と覚醒、夢と幻覚、これまでの体験とこれからの体験など、様々な局面が混ざり絡まりあって、何が現実なのか決して明かされません。(……)私としてはただ、何度も手を加えて直したいくつかのオブセッションやテーマや記憶を小説化する可能性を模索しただけです。最も手に負えものにまで絶対的な現実性を与えることで、三五とも八〇とも言える数の現実を生み出す分裂症の世界を小説化したわけです。」

 このドノソの言葉は『夜のみだらな鳥』発表直後のインンタビューに答えた内容で、寺尾隆吉の『魔術的リアリズム』殻のまた引きである。
 確かにドノソの語っているとおりで、そこには分裂症的な要素がたくさんあるし、むしろ、ドノソ自身の分裂症的気質のただ中から生起してくるオブセッションに形を与えようとした作品と言うべきだろう。だからカルペンティエールの作品が持っているような、社会性もなければ政治性もない。
 魔術的リアリズムの原型が『この世の王国』にあり、その後メキシコのフアン・ルルフォやコロンビアのガルシア=マルケスに受け継がれていくのだとしたら、さらに『夜のみだらな鳥』の方法に相応しくないものと思わざるを得ない。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(20)

2018年06月18日 | ラテン・アメリカ文学

 そのような自伝的記述もおそらくは虚構ではない。時に『夜のみだらな鳥』の中に現れるそうした部分は、この小説全体が持っているある性質をかいま見せるものとなっているように思う。
 この小説全体を貫く幽閉のイメージ、より詳しく言えば、自分自身の内部に閉じこめられていくイメージは、決して虚構ではありえない。この小説は最後に、老婆たちによって包みの中に縫い込められていく《ムディート》の場面で終わっているが、その執拗さと衝迫力はそれがホセ・ドノソ自身が自分自身に対して抱くイメージに還元されることを示している。
 近いうちに取り壊しになるであろう修道院の喧噪の中で、《ムディート》は包みにされていながらも、ひとたびは平静を回復し、安心を得る。

「もはや誰もいない。おれは無傷のままの明晰さを回復した。おれの思考はふたたび秩序だったものになり、透明な意識の底へと下降して、その光によって究極的な不安を隠蔽された曖昧なものをあばき出す。」

「このなかにいれば、おれは安全なのだ」と《ムディート》は考え、自分には外部などは存在しないと思うのだが、と近くで咳の音や息遣いが聞こえてくる。《ムディート》は好奇心に駆られてあがき始める。

「なんとしても見たい。ぜひ、ぜひ見てみたい。だが、この欲求と一緒に恐怖も生まれる。すぐ横で呼吸をし咳をしているその影の顔を見たいという欲求。視覚と外部とを回復したいという欲求。おれは歯を立てる。口をふさいでいる袋を噛む。外部にいるその影の表情を見るためにかじる。かじり続ける、太い糸を、結び目を、当て布を。ロープに歯を立てる。おれは引き裂く。だが、それで終わりということはない。さらに別の袋がある。征服するのに百年、貫通するのに千年はかかりそうな層がある。」

 自己閉塞のさなかにあっても外部への好奇心は消え去ることはない。それがドノソ自身の歴史への認識であるかのように。あるいはまた、人間にとっての自己意識はそれぞれ外部というものを持たず、孤独の中に閉じこめられているにも拘わらず、外の誰かを求めて閉塞の袋を食い破ろうとするのだという、ドノソの世界認識のように。
 しかし、ようやく出口を求め、袋から抜け出すことができると思われたその時、別の手が……。

「もう一度、穴を開けるのだ。おれの爪は出口を求めて、袋の地層を掻きまわす。爪が割れる。指から血が流れる。指先が裂け、節が赤く染まる。もう一枚、もう一枚、そしてもう一枚、やっと穴が開く。ところが外の手が、おれという包みをひっくり返し、ひとことも口をきかずに、再び口を縫いふさぐ。」

 再び《ムディート》を袋に閉じこめようとする〝外の手〟とはいったい誰のものなのだろうか。ここで〝外の手〟は象徴性を帯びてくるが、もともと老婆たちによって包みに縫い込まれる《ムディート》の存在自体が象徴的なものであった。
『夜のみだらな鳥』全体は、それを事件の連鎖としてではなく、そのような象徴性のもとで読まれなければならない。それはホセ・ドノソ自身の自己意識と抜き差しならぬ形で絡み合っていて、この小説を異常に内向的で内面的なものにしている。
 小説全編は悪夢のような閉塞状態に置かれた自己意識が、妄想の中で外部をデフォルメし、内部をデフォルメし、人間をデフォルメする、グロテスクな世界と化す。バルガス=リョサが言うようにホセ・ドノソは、ラテンアメリカ文学ブームの中にあって、もっとも〝文学的な〟作家であった。〝文学的〟ということの意味はそこに求められる。