玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(19)

2018年06月17日 | ラテン・アメリカ文学

 ツヴェタン・トドロフは『幻想文学論序説』で、詩と虚構ということについて次のように言っている。

「詩と虚構の対立にあっては、その構造特性がディスクールの本性そのものにかかわっている。つまり、ディスクールが表象的であり得るか、ありえないかという対立なのである。」

 詩と虚構とはディスクールの表象性において対立する。虚構のディスクールはテクスト以外のものを表象するが、詩はそうではない。トドロフはそこのところを次のように言う。

「表象的性格は、文学のうちでも、虚構という用語で示すのが適当な部分を支配するのに対し、詩と呼ばれるべき部分は、何らかの対象を喚起し表象するというこの能力を拒否している。」

 幻想小説について言えば、幻想小説は表象的な虚構なしには成り立たない。それは幻想小説というものがリアリズム小説以上に、幻想の生起する場というものを現実的に設定しなければならないということ意味している。
 幻想の生起する場と言うよりも、怪奇と驚異が生起する場と言った方がいいだろう。たとえば幽霊屋敷譚を書くとすれば、その屋敷のリアリティ、出現する幽霊のリアリティ、あるいは幽霊に遭遇する者の恐怖のリアリティは、確固としたものになっていなければならない。それが幻想小説における虚構のディスクールが果たすべき役割である。
 しかし詩にあっては事情はまったく違う。〝幻想詩〟というものを想定するとすれば、それは用語矛盾であって、詩は虚構と対立するが故に幻想的ではあり得ない。詩は言葉の表象作用によって、虚構のリアリティを生成していく必要がない。詩はテクストそのものを表象すればよいのであって、虚構であることもできなければ、幻想的であることもできない。
 私は『夜のみだらな鳥』は虚構でさえないと言ったが、その意味するところは以上のようなものである。『夜のみだらな鳥』はありもしない虚構に満ちているではないかと言われるかも知れないが、そうではない。『夜のみだらな鳥』には明らかに、虚構のリアリティを補完するようなディスクールがない。
『夜のみだらな鳥』に虚構があるにしても、その虚構に真実性を与えようとする意図が、ドノソにはまったくない。私がそれを妄想小説と呼ぶ理由である。しかし、真実性を与えられない、もっと言えば表象性を欠いた虚構などというものはありえないのであって、だから『夜のみだらな鳥』には虚構というものがないのである。
では、ドノソの妄想とは何か? 私は妄想的であることを幻想的であるということよりも、劣ったものと見なしているわけではない。ドノソが虚構の真実性などというものをまったく意図的に放棄しているのは明白なことであって、幻想小説にいたり得ぬものとしての妄想小説があるのではなく、積極的に妄想小説であろうとする姿勢がそこにはある。
 そして注目すべきなのは、『夜のみだらな鳥』には、ホセ・ドノソの自伝的要素がたくさん出てくることである。ウンベルトの青年時代における父親との関係、学生時代にいきつけのバーの女との付き合い、作家としての読書体験まで書いてある。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(18)

2018年06月16日 | ラテン・アメリカ文学

 さらに、妄想の非論理とは何か? 
・意図的あるいは意図せざる矛盾……前に触れた《ムディート》のペニスとドン・ヘロニモのペニスとの解きがたい矛盾。聾唖になったりそうでなかったりする《ムディート》の矛盾。《ヒガンテ》の仮面をかぶったヘロニモがイリスに対して不能に陥るのを《ムディート》が見ることができるかという矛盾。第10、第11章のヘロニモの視点から語られる取って付けたようなリアリズム的叙述の矛盾。ドン・ヘロニモの畸形の館構想の矛盾。60歳を過ぎてなお月経のあるイネス夫人の事実としての矛盾。《ボーイ》を産んだはずのイネス夫人が、その後気配を消してしまうことの矛盾。聖なる子を産むはずのイリス・マテルーナがいつまでも子供を産まず、いつの間にかインブンチェにされた《ムディート》が置き換わっていることの矛盾。5日間外へ出ていただけの《ボーイ》が、何もかもを知り、あろう事かヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』まで読んでしまうことの矛盾。
 以上のように、妄想の非論理性はいくらでもあげることができるが、非論理的妄想の典型的な場面がこの小説にはあって、その部分を読むと私などは「ああ、これだったんだ」と思わず膝を打ってしまうのである。それは修道院に帰ってきたイネス夫人が老婆たちとドッグ・レースのゲームをやっているとき、彼女の常勝の黄色い犬が、突然荒野を走り出す場面である。

「黄色い牝犬は、ほかの犬に追われながら逃げる。銀色に輝く月夜に土煙だけを残して駆け抜ける。復讐の念に燃えた騎手たちに追われて逃げる。毛の脱けた皮膚をひっ掻く茂みのなかに身を隠す。水たまりや湖を、何百年もの歳月や川を渡る。しかし、胃が痛くなるような飢えを満たすことはできない。口にする残飯や、かじる骨が十分ではないのだ。苦労して盗んだ餌をくわえて、しょっちゅうそんな目に遭っているが、どやされないうちに逃げ出す。共犯者の星が指さす方角に向かって逃げる。山を駆けのぼり、谷に駆けおりる。」

 こんな調子で一頁半続くのである。ゲームの犬が本当に動き出す。それは詩的想像力の論理によっているのであって、妄想の非論理性とは、すべて詩的想像力の論理を意味していることがここで理解されるのである。
 この黄色い犬は最初のアスコイティア一族の乳母の身体である、黄色い牝犬のイメージ、イネス夫人と《ムディート》が交わる夜に出現する黄色い犬のイメージを孕んで、想像力の荒野を走り抜けるのである。
 私がたくさんあげた執拗な繰り返しも、詩に特有の表現形態であり、イメージの増殖もそうだ。取り替え可能性とは、観念連合の中にあるものを隙あらば結びつけようとする、詩的論理を意味しているし、ふしだらと聖性のようなまったく逆の観念を逆転させるのも、詩的表現でしか可能にならないものだ。
 そして多くの矛盾。小説はそれを許容しないかも知れないが、詩はそうしたものを創造の領野において乗り越える。そんなことはイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を読んでみればすぐに分かることだ。近代詩やシュールレアリスム詩では当たり前であった、隠喩の飛躍がここでは小説の言語として導入されているのである。
 つまり『夜のみだらな鳥』の説話の構造は、詩の領域のそれを利用しているとも言えるし、詩における説話の構造を小説として成立させようとしているとも言える。『夜のみだらな鳥』は幻想小説ではなく、詩の説話構造を借りた妄想小説なのである。
 そしてツヴェタン・トドロフは詩を幻想文学の世界から除外する。なぜなら「幻想は虚構の中でしか存続しえない。つまり、詩は幻想的ではありえないのだ」から。『夜のみだらな鳥』は虚構ですらない。それはホセ・ドノソ自身の内実を詩的妄想として構築したものに他ならないからだ。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(17)

2018年06月15日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』の中で幻想文学的と呼べるのは、最初のアスコイティア一族の物語のみである。この物語は典型的な恐怖譚であり、トドロフの言う「幻想文学」の枠組みを堅持している。それは魔女のもたらす災禍の物語であり、アスコイティア一族の父親もその九人の息子たちも「娘も魔女、乳母も魔女」という噂話を決して信じようとしない。彼らは超自然的な現象を信じるほど蒙昧ではないからである。
 しかし、ひとりの作男の讒言によって「黄色い犬と化け物」を探しに出掛け、農園に帰ろうとする黄色い犬を発見し、娘の部屋で父親は何かを目にするのである。しかし、ここで父親が見たものについて語られることはついにない。なぜそれが語られないのかと言えば、それが「怪奇」でもなく、「驚異」でもなく、その境界域にある「とまどい」をもたらすものであることを、読者に納得させるためである。
 アスコイティア一族は黄色い犬(魔女の身体である)を捕まえ、木に縛り付けて川に流し、海へと放擲するのだが、その途上で魔女にまつわる「現在の、過去の、そして永遠の恐怖すべきものについて」語り合う。そこに出てくるのがインブンチェの話である。

「魔女たちの狙いは、娘をさらって、そのからだの九つの穴を縫いふさぎ、インブンチェ(アラウコ族の俗信で生後半年の赤児をさらい、洞窟の中で怪物に変えるという妖怪)という化け物にしてしまうことだった。」

 とあるが、これも伝聞であって、真偽の定かならぬ物語である。この真偽が定かでないということもまた恐怖譚の重要な要素であって、幻想文学はそのようなものをこそ素材として成立する。
 またアスコイティア一族の物語には後日談があって、兄弟の数が九人ではなく七人、いや三人だったという話や、本物の黄色い犬は逃げ延びたはずだという話、あるいは父親が娘を隠すことによって、罪を乳母の一身に負わせようとしたのだという話が追加されてくる。こうした説話の曖昧性もまた、出来事の自然的現象への還元としての「怪奇」と超自然的理解としての「驚異」とのどちらにも付くことのできない、「とまどい」として、「幻想」の要素を強化していく。
 しかし、幻想文学と言えるのはそこまでであり、自余はこの幻想譚をめぐる《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサの妄想に他ならない。しかもその妄想は膨大かつ執拗きわまりないものであり、壮大な実験と言いたくなるほどの性質を持っている。
 幻想の論理とは違う妄想の論理とは何か。しかしそれは言葉の矛盾であろう。我々は『夜のみだらな鳥』の中に妄想の非論理をこそ、探さなければならない。いや、探す必要などない。それらはすべてそこに顕わにさせられている。幻想の論理がいつでも隠されてある(恐怖譚の中ではプロットの論理的構造はいつでも隠されている。そうでなければ恐怖は発生しない。)のとは逆に、すべてはそこに露見している。
・執拗な繰り返し……閉鎖する、閉じこめるということへの執拗な言及。ドン・ヘロニモが誕生した《ボーイ》に初めて合う場面はほとんど同じ文章で、少なくとも三回繰り返される。イネス夫人と《ムディート》の性行為にまつわる回顧的言及は十回以上繰り返される。インブンチェのイメージもまた、包みに縫い込まれるイメージを含めて、最初から最後までオブセッションのようについて回る。黄色い犬もイネス夫人のゲーム、ドッグ・レースにまで絡んで数回登場する。
・取り替え可能性=互換性……イネス夫人と最初の物語の娘イネスとの。イネス夫人の乳母ペータ・ポンセと娘イネスの乳母との。イリス・マテルーナと聖女イネス(最初の物語の娘イネスを聖女とみなすのはイネス夫人)との。《ムディート》とドン・ヘロニモとの。《ムディート》の能力とドン・ヘロニモの不能との、あるいは逆に《ムディート》の不能とドン・ヘロニモの能力との。娘イネスのふしだらと聖性との。イリス・マテルーナのふしだらと聖性との。《ムディート》と《ボーイ》との。エンカルナシオン修道院とリンコナーダの屋敷との。


 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(16)

2018年06月14日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』は、一般的には幻想小説の一種とみなされていて、ゴシック小説が幻想小説の一ジャンルだとするなら、そういうことも言い得るのかも知れないが、現実的には必ずしもそうではない。ゴシック小説が幻想小説というものを一部として取り込んでいる場合もある。
 ゴシック小説のすべてが幻想的であるわけではない。私が「ゴシック論」で取り上げた作品群のいくつかは、幻想的な性格を欠いているし、世の中にはメアリ・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンが書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』のような、社会派サスペンスと言われるような作品さえある。
 ならば幻想小説とは何か、ということを『夜のみだらな鳥』に即して考えていったらどうなるのか? 『夜のみだらな鳥』に幻想的な場面がたくさん出てくることは確かである。しかしそれは現実にはありそうもないこと、あるいは現実とは思えない怪異なことがそこでは起きているということを意味しているに過ぎない。
 たとえば《ムディート》がアスーラ博士の手術によって、血液や臓器を摘出され、体の80パーセントを失ってしまう場面、これを現実にはあり得ないことであるから〝幻想的〟と呼ぶことに一理はありそうである。しかしその手術を《ムディート》もアスーラ博士も事実として受け止め、誰もそのことを疑っていないとしたらどうだろう。
 それを〝幻想的〟と呼ぶことは可能だろうか。作中人物の誰もがそれを事実として受け止めているものを〝幻想〟と呼ぶことはできない。だからリンコナーダの屋敷の物語は〝幻想的〟な要素からまったく除外される。
 いかに現実には存在しないような畸形たちがたくさん登場しようが、《ボーイ》がそこで王子のように育てられていくという話がいくら現実離れしていようが、ドン・ヘロニモがそこで奇態な死を遂げようが、作中人物達にそれらの事実に対する〝疑い〟がなければ、それは〝幻想的〟と呼べるようなものではない。だから『夜のみだらな鳥』の主要な部分は幻想小説から除外されてしまう。
 幻想文学に対して斬新な定義を行ったのは、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』である。トドロフはこの本の中で、「幻想」とは「怪奇」と「驚異」との境界域にあるものだと述べている。「怪奇」は超自然というものがあることを認めず、起きた出来事を自然的現象へと還元する認識であり、「驚異」は超自然的現象を認め、起きた出来事を超自然に由来するものと判断する認識である。「幻想」はその二つの認識の境界域にある「ためらい」にあるというのがトドロフの議論である。
 だからあらゆる恐怖小説(あらゆると書いたが正確ではない。肉体に対する暴力への恐怖をテーマにした小説は除外する。しかし、それが対象とするのはhorrorでなくterrorではないのか)は、幻想小説であると言える。ある奇怪な出来事に対して、作中人物はそれを自然的現象に還元したらいいのか、超自然的現象と受け止めたらいいのか、判然としなくなるが、そこにこそ〝恐怖〟が生まれてくるのだからである。
 一方怪奇小説という概念がより恐怖小説と対立的なものであると想定した場合(実際にはそうではないが)、作中人物(特にその事件の謎を解く人物)が超自然的と思われる現象をさえ、自然的現象に還元するのだとすれば、それはミステリー(推理小説)につながるジャンルとなっていくだろう。
 作中人物だけではなく、読者もまたそこで重要な役割を果たさなければならない。つまり幻想小説にあっては、読者も作中人物と同時に「怪奇」と「驚異」との境界域にある「ためらい」のうちに留まっていなければならないということである。読者もまた作中の事件に対して、それを自然的に解釈したらいのか、超自然的に解釈したらいいのか、判断できないという状況に置かれていなければならないのだ。
『夜のみだらな鳥』においてはどちらの要素もないし、したがってその境界域にある「幻想」さえも存在しないと言わざるを得ない。またここでは作中人物と読者とは立場を異なるものにしている。作中人物は『夜のみだらな鳥』の中で生起する事件に対して疑いを持っていない。つまりは超自然的現象を超自然的なものとして受け止めているのに対して、読者は『夜のみだらな鳥』自体を〝虚構〟としか受け止めることができない。作者が「これは虚構に過ぎない」といっている以上それは当然のことで、そこにもこの小説が〝幻想小説〟としての条件を満たさない要因がある。
 小説の最後に《ムディート》が老婆たちによってインブンチェにされ、それによって彼女たちが聖なる存在としてのインブンチェに救いの奇跡を求める場面でも、老婆たちはそれを奇怪な行動とも考えないし、それによって起きるであろう奇跡を驚異なものとも考えていない。彼女たちに〝ためらい〟はない。
 老婆たちには奇怪な出来事を自然的現象に還元する認識もなければ、超自然的なものとする認識もない。まるで近代以前の超自然譚を読むかのようにである。一方読者の方はどちらの位置からもずれた場所に立たされている。それが『夜のみだらな鳥』の説話的構造であり、それがトドロフの言う「幻想文学」に該当しない原因となる。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(15)

2018年06月12日 | ラテン・アメリカ文学

 生きることへの興味を失った《ボーイ》は、アスーラ博士の手術を受けてリンコナーダの屋敷の外にいた五日間の記憶と、父親の記憶を消去され、再び冥府へと帰っていくだろう。「いまでは、ぼくは何でも知っているんだ」と言った《ボーイ》は再び無知の暗闇の中に戻っていく。
 リラダンの戯曲『アクセル』の主人公アクセルの言葉が、生への拒絶と現実世界の否定を意味しているならば、それは生と死の価値の転倒でもあって、リンコナーダの物語全体は退嬰と転倒の物語としての姿を現すのである。
 しかしそれは本当にドン・ヘロニモによって計画され、転倒の美学と教育方針によって実践され、失敗に終わるという物語なのだろうか。エンペラトリスによれば、それはヘロニモの考えではなく、ウンベルト・ペニャローサの考えによっていたというのである。

「私は欺されません。ここを作ったのはヘロニモの考えじゃないわ。間違いなく、あのウンベルトの思いつきよ。ウンベルトは自分だけのサーカスを持って、わたしたちをおもちゃにしたくなったのよ。このイカサマにヘロニモは気づかなかったらしいけど、ウンベルトはそのサーカスの人間のひとりに彼を、ヘロニモをちゃんと入れていたのよ。そう言えばヘロニモは、みんなの中でもいちばん化け物みたいですものね。でも、あれね。種類のちがった残酷な人間たちの世界が外にあることを《ボーイ》に知らさないという、いちばんの目的はいまも果たされているわ。あとはどうでもいいことよ。みんな、あの大嘘つきのウンベルトが思いついたことよ。」

 エンペラトリスのように考えればつじつまが合う。ドン・ヘロニモは「調和の美の模範」とさえ言われた存在であり、前から言っているように彼が怪異の美学を打ち立て、それに則ってリンコナーダの屋敷を設計したと考えることには無理がある。ウンベルトが、小説家であるウンベルトが、畸形たちの集団を妄想し、ヘロニモの力を借りてそれを現実のものにしたのだと考えてもよい。
 しかもヘロニモを「いちばん化け物みたい」だとすることは、《ボーイ》によって化け物のように見られるヘロニモの姿を予兆している。畸形たちにとっては「調和の美の模範」ほどに自分たちと違う化け物はないからだ。
 またヘロニモを畸形たちの仲間のひとりとすることは、ヘロニモの詩を予見することにもつながる。ヘロニモを事故死に至らしめたのは直接的には《ボーイ》だが、間接的にはウンベルトであったとも言えるからだ。
 リンコナーダの物語も、エンカルナシオン修道院の物語も、すべてはウンベルト・ペニャローサの妄想の中で生起する。なぜならリンコナーダではウンベルトと呼ばれ、修道院では《ムディート》と呼ばれる彼こそは〝小説家〟なのであるから。
 そして〝小説家〟こそは〝大嘘つき〟と呼ばれるべき存在に他ならない。ウンベルトも《ムディート》も小説家であるホセ・ドノソ自身の退嬰的で、転倒した妄想から産まれた存在であるのだから。
 ウンベルトはドン・ヘロニモの秘書として、リンコナーダの記録を書き残す役目を負わされていた。しかし一字も書くことはなかった。書きたいことは頭の中に入っていたらしい。エンペラトリスはそれについて直接に分析する。

「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏み込んでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗り込められたその迷路の方が、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった……そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと……」

これはもうホセ・ドノソによる自作解説以外のものではない。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(14)

2018年06月11日 | ラテン・アメリカ文学

 しかし逆に、そこにこそドン・ヘロニモの不徹底と、すべてを他人まかせにする不遜があったと言うべきであろう。ドン・ヘロニモはそのことに対する罰によって事故死することになるのだ。それはまたリンコナーダの屋敷が崩壊していく物語でもある。
 ウンベルト・ペニャローサはアスーラ博士によるドン・ヘロニモとのペニス交換手術から逃れるために、リンコナーダの屋敷を脱出する。秘書であるウンベルトの逐電を知ったヘロニモは「すべてを精算しよう」とするが、五歳になった《ボーイ》の「心を占めている冥府的な状態」(つまりは外部というものを持たず、畸形と正常という概念すらないリンコナーダの屋敷が強制する無知)に満足して考え直す。
 ヘロニモはウンベルトの代わりに、彼の従妹エンペラトリスとアスーラ博士に「万事をゆだねる」ことにする。しかしそのことがエンペラトリスに嘘に嘘を重ねた報告を、ヘロニモにするようにし向けていく。崩壊の始まりである。次は《ボーイ》自身の逐電。《ボーイ》は五日間屋敷の外をさまよって帰ってくるが、「いまでは、ぼくはなんでも知ってるんだ」
とまで言うようになっている。
《ボーイ》を冥府の状態に止めておくという計画はすでに破綻している。《ボーイ》の帰還を知って、ドン・ヘロニモは息子に会うために、リンコナーダの屋敷にやってくる。しかしエンペラトリスの心もすでにヘロニモから離反している。エンペラトリスはヘロニモに面と向かって次のように言う。

「わたしたちの畸形に盛り立てられて、それであなたの子どもも、王様でいばっていられるのよ。わたしたちはただの道具、極彩色の垂れ幕、書き割り、ボール紙のお面、仮面なのよ。」

 また「あの父親は、ただ創造したというだけの理由で世界の王だと信じている」とも思っている。ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷においては造物主でさえあったわけだが、しかし怠慢な造物主であった。世界を造ったばかりで、その維持管理のすべてを他人任せにしてきたからだ。
《ボーイ》はついに父親の裸の姿を目撃することになる(《ボーイ》と面会する者はすべて裸になることを義務づけられている)。その後に起こることはファルスと言うにはあまりにも残酷な事態である。父親の正常な姿態が《ボーイ》の目には、世にもおぞましい畸形と映る。《ボーイ》の反応はこうだ……。

「《ボーイ》は、回廊の突き当たりのヘロニモの姿を認めると、十歩ほどへだたった場所まで彼の方へ進んだ。そして、この化け物を喰い入るような目で見つめながら、しばらく冷静に観察した……まさか! 考えられない。……《ボーイ》は顔を蔽った。くるりと後ろを向き、困惑と苦痛の叫びをあげながら屋敷の奥まで逃げこんだ。奴を連れだせ! ここに置くな! エンペラトリス、あの化け物は、いったいなんだ?」

 このようにドン・ヘロニモは彼自身が打ち立てた怪異の美学、そして《ボーイ》に対する教育方針そのもののしっぺ返しを喰らうのである。
 この場面に続くヘロニモの一人称で語られる長いパッセージは、『夜のみだらな鳥』の中でもとりわけ緊張感に満ち、いくつかある頂点のひとつとなっている。ドン・ヘロニモの優越感や誇りが、畸形たちによって惨めに打ち砕かれていく場面が、池の水鏡や仮面舞踏会のイメージを伴走して続いていき、ついにヘロニモは、ディアナ神(これも畸形の像であるほかはない)の池で水死を遂げる。

 これは畸形たちによる造物主殺しの物語に他ならない。そこで《ボーイ》が主役を務めるのであればそれは神殺しであり、父親殺しの物語でもあるということになる。これでドン・ヘロニモの位置が《ボーイ》によって確定されたものと考えるがどうか。
《ボーイ》はその前に、五日間の放浪の記憶と、父親の記憶を消去する手術を、アスーラ博士に頼むのだが、彼歯生きることへの興味を失ってしまっているのだ。

「外に五日間いて、ぼくは生きることへの興味を失った。ある詩人が言っているよ。『生きる? 生きるだと? なんだ、それは? そんなことは代わりに召使いにやらせておけ、』って。あんたたちはぼくの召使いだ。あんたたちは、ぼくが生きることを拒絶したものを生きるんだ。現実を知ったいまでは、ぼくは人為的な世界にしか興味がない。」

 ある詩人というのはヴィリエ・ド・リラダンのこと。『アクセル』の項で紹介した有名な言葉である。こんなところで出てくるとは思わなかった。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(13)

2018年06月10日 | ラテン・アメリカ文学

 ドン・へロニモのこのような〝美学〟は、そのままホセ・ドノソの〝美学〟として読まれる必要がある。それを〝美学〟と名付けてよいならの話だが。しかし、醜悪を怪異と次元の違った概念のもとに置き、怪異を美と対立しながら拮抗する概念とみなすというような議論はどこかで聞いたことのあるものだ。
 ゴシック小説に影響を与えたとされるエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』での議論がそれである。バークは彼の時代まで混同されていた崇高と美の観念を峻別し、崇高の観念を畏怖や恐怖と結びつけて捉えた。バークによれば〝醜の美学〟のようなものさえ成立可能である。バークは次のように言う。

「私はまた醜が崇高の観念と充分に両立しうると想像する。しかし醜それ自体は、それが強い恐怖を呼び起こす性質と結びつかぬ限り崇高な観念であると私は思わない。」

 この議論をドノソ風に言うならば、醜悪はそれ自体崇高とはまったく別のものであるが、それが恐怖と結びつくときに、それは怪異という形で崇高なものとなると。そして崇高と美とは、バークの議論の中では対立しつつ拮抗する観念なのである。バークの〝崇高〟という言葉はドノソでは〝怪異〟と言い換えられているが、言わんとするところは同一である。
 ところでドン・ヘロニモがこのような異端の美学を唱えているということには、どうしても違和感が残る。ホセ・ドノソはドン・ヘロニモに代表されるアスコイティア一族のブルジョア的精神に対して批判を繰り返しているのに(それはウンベルト・ペニャローサのドン・ヘロニモに対する敵愾心として表現されている)、なぜ『夜のみだらな鳥』の中でももっとも怪異かつ崇高な美学を体現している、リンコナーダの屋敷の設計をドン・ヘロニモに負わせなければならないのか。
 ましてや《ボーイ》の教育方針についての徹底した転倒ぶりも、ドン・ヘロニモの考えに則っているのである。それは次のようなものである。

「ところで、《ボーイ》の世話や教育にあたるあのエリート、一級の不具たちを相手に、ヘロニモがしなければならない微妙な仕事があった。それは、異常な畸形であることが他人の侮蔑や同情の対象となるべき劣等な状態ではないことを、彼らに納得させることだった。」

 そしてドン・ヘロニモは、次のようなほとんど高邁とも言うべき畸形の美学を打ち立てるのだが、それはドノソの批判にはまったく晒されてはいない。ヘロニモはそこで、ブルジョア的俗物として振る舞うのではなく、ドノソ自身の思想の中で思考している。

「正常な人間が反応できるのは、ただ、美から醜にまでわたる通常の階梯で、これは言ってみれば、同じひとつのものの微妙なニュアンスの差でしかない。ところが畸形はちがう、とドン・ヘロニモは、その信念で彼らを鼓舞するつもりか、熱をこめて主張した。畸形は、素朴なカテゴリーとしての美や醜の観念を排除する独自の権利と規範を持った、特権的な別の種である。怪異とは本質的に、上のふたつの性質が合一させられ、最大限にまで高められたものだからだ。」

 リンコナーダの屋敷の物語を、ドノソのブルジョア社会に対する風刺に満ちた批判だとする評者もいるが、私はそうは思わない。ここにはドノソの既存の美学に対する徹底した戦略的転倒があり、そのような転倒によってこそドノソはブルジョア社会に対峙する。
 でドン・ヘロニモの位置が気になるのである。これだけの転倒の美学を打ち立てながら、ヘロニモはどうしてリンコナーダの屋敷を、ウンベルト・ペニャローサ(そこでは彼は《ムディート》と呼ばれない)に任せて近づこうとせず、年に一回の報告を受けるだけにすませてしまうのだろうか。

 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(12)

2018年06月08日 | ラテン・アメリカ文学

 一体この小説では何が事実なのであるか? 26章の冒頭にこんな一節がある。

「ウンベルト・ペニャローサなる者は存在しない。虚構である。生きた人間ではなく、単なる作中人物なのだ。」

 このような文章を読ませられて、読者はどう反応すればいいのだろうか。これと同じような言い方が、ドノソのもう一つの代表長編『別荘』には繰り返し出てくる。『別荘』では作者自身が物語に介入して、「この話は作り話に過ぎない」ということを何度も繰り返す。
 こうしたものの言い方は伝統的なゴシック小説における、物語の真実性を保証しようとする姿勢に真っ向から対立するものである。ゴシック小説や怪異譚には「この物語は私が体験したことであるから事実である」というような断り書きがよく出てくるが、18、19世紀の読者には必要であり、有効であったかも知れないそんな保証も、20世紀、21世紀の読者には必要でもなければ有効でもない。
 たとえば『夜のみだらな鳥』を読んで、ウンベルト・ペニャローサ、つまりは《ムディート》が現実に存在すると考える読者がいるはずがない。『夜のみだらな鳥』が全くの虚構でないと考える読者もまた、いてみようがないのである。
 我々は『夜のみだらな鳥』をホセ・ドノソの想像力の全面展開として読み、その奇怪な想像力に動揺させられるという体験を楽しめばいいのである。この小説の中でもグロテスクの白眉とも言うべき、リンコナーダの屋敷の物語はそのように読まれるほかはない。
 ドン・ヘロニモが畸形の息子の誕生に際して、どのように反応したかについてはすでに読んだ。ヘロニモは上院議員であり、「調和の美の模範」とまで言われる人物である。そのヘロニモが《ボーイ》のために、リンコナーダの屋敷に国中から畸形者たちを集めて隔離するなどということを行うのは、彼の生き方にとって矛盾してはいないだろうか。ドノソが嫌うブルジョワにそのような奇態な行動を起こさせていいのだろうか。
 一瞬そんな疑問にとらわれるが、しかし、リンコナーダの物語は有無を言わせぬスピードを持って展開していく。ドン・ヘロニモはリンコナーダの屋敷から「外の世界を暗示させる家具、壁掛け、書物、絵などのすべて」を運び出させ、「外部に通じるドアや窓をすべて閉め切らせた」。
 リンコナーダの屋敷は外部のない世界、「畸形が例外ではなく常態である世界」と化す。それは《ボーイ》が自分が畸形であるということを認識できない世界に他ならない。そこには正常な人間がいてはならないし、中庭の石像もまた畸形の人間の姿に作られている。
 そこでは畸形という概念もなければ、正常という概念もない。もし正常者しかいない世界があるとすれば、そこでは畸形という概念はあり得ない。そんな世界を裏返したのがリンコナーダの屋敷なのである。
 ドン・ヘロニモの基準とは次のようなものである。

「ドン・ヘロニモは細かいことまで指図した。《ボーイ》を取り巻くものは、醜かったり、賤しく下品だったりしてはならない。醜悪と怪異とはまったく別のものである。後者の意味するものは美のそれと対立しながら対等である。したがって怪異は、やはり美と対等の特権を与えられなければならない。デン・ヘロニモ・デ・アスコイティアがその誕生の日から息子の与えたいと願ったのは、ただひとつ、怪異なるものだった。」

そして

「鼻も下顎もゆがみ、黄色い乱ぐい歯がむき出しになった畸形。巨人症の男たち。亡霊のように肌が透きとおっている白子の女たち。ペンギンの手足とコウモリの耳を頂戴した少女たち。彼らの肉体的血管はもはや醜悪の域を超えて、怪異という、あの高貴な範疇にまで達していた。」


 

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(11)

2018年06月07日 | ラテン・アメリカ文学

 ドノソの退嬰的なものへの偏愛はまだまだ続いていく。特にリンコナーダの屋敷でアスーラ博士の手術を受け、80パーセントの血と臓器を摘出され、その上ヘロニモとの間でペニスの交換手術を受けるその前に逃げ出した《ムディート》を待っているのは、エンカルナシオン修道院の老婆たちである。《ムディート》は彼女たちの優しい呼びかけを聞く。

「いらっしゃい、ここへ。みんな待ってるのよ。迎えに来てるのよ。わたしたちは、何もくれなんて言わないわ。ただ、あんたの面倒がみたいだけ。やさしくしてあげたいだけ。あんたを暖かく包んでやりたいだけよ。この袋を見て。あんたを入れて運ぶために持ってきたのよ。」

 手術を受けて20パーセントの大きさの人間へと変貌するということ自体、赤ん坊への先祖返りを意味している。まさにそのように、《ムディート》はダミアナがイリスと老婆たちの赤ん坊ごっこの対象にされたのと、まったく同じ扱いを受けることになる。しかしダミアナにはペニスがないが、《ムディート》にはそれがある。

「ちぢこまったおれのペニスが老婆たちの目にさらされる。彼女たちは、それが《ムディート》のペニスだと信じている。ところが違うのだ。それは《ムディート》のおとなしいペニスをよそおっているだけなのだ。子どものおチンチンらしく見えるように、イリスの命令で毛が剃られているが、ドン・ヘロニモよ、これはあんたのだ。彼女に触れたあんたのものだ。おれは、アスーラ博士が交換手術にかかるその前に、まんまと逃げおおせたのだから。老婆たちはペニスをつかみ、スポンジで洗う。いやらしい、こんなものをあれして悦ぶ女が、よくいるわね、などと言いながらパウダーをまぶす。おいしいご馳走か何かで、これからむしゃぶりついて呑みこもうとするように。」

 ここでも少し補足が必要だ。ドン・ヘロニモのペニスが触れた〝彼女〟というのはペータ・ポンセのことで、前に紹介したイネス夫人と《ムディート》が交わる場面で、ドン・ヘロニモは間違ってペータ・ポンセと交わることで、不能に陥るのである。だからドン・ヘロニモは《ムディート》を罰するために、アスーラ博士にペニスの交換手術を命じるのである。
 ここには事実誤認がある(この小説に事実というものがあるとしての話だが)。交換手術を行っていないのなら、不能のペニスはまだドン・ヘロニモに付いているはずで、《ムディート》は健常なペニスを持っているはずだから、「これはあんたのだ。」というのはおかしい。また交換手術が行われていたのだとすると、《ムディート》にはドン・ヘロニモの不能のペニスが付いておいるはずで、これもおかしい。この小説にはこのような誤認がたくさんあるが、人物だけでなく性器もまたいつでも交換可能性のうちにあるということにして、許しておこう。
 とにかく老婆たちの慰みものとしての赤ん坊を演じる限り、ペニスは本来の大きさであってはならない。それは〝ちぢこまった〟〝おとなしい〟〝子どものおチンチン〟のようでなければならない。老婆たちは念のために《ムディート》のペニスを繃帯できつく縛るだろう。

「老婆たちはぼろ切れで作った繃帯をぐるぐる巻いて、おれを包みにし始める。まず足の先に巻く。そのあと脚に巻いて動けないようにする。性器のところまで来ると、まるで危険な動物か何かのように、きつく縛る。幼な児のそれをよそおってはいるが、おれの思いのままになることを見抜いているみたいだ。おれが隠しているものに気づかないことを祈ろう。おれの性器に繃帯を巻き終わった老婆たちは、それを太腿に縛り付ける。」

 このように《ムディート》は赤ん坊として、イリスに与えられる。赤ん坊《ムディート》は老婆たちにとっては人形のような可愛い愛玩物であるが、イリスにとってはそうではない。《ムディート》は本当の父親を親身になって捜してくれない冷たい人間であり、イリスは《ムディート》を虐待して言うことを聞かせようとする。
 しかしそれもイリスの本当の赤ん坊が生まれるまでのこと、本当の赤ん坊の代替物にしかすぎないのだ。ところが最後にとんでももないことが待っている。イリスに赤ん坊のことを聞かれた老婆たちは言う。

「赤ちゃん? 何を言っているの。あの《ムディート》が長いあいだ待ってた子どもじゃないの。ずいぶん昔のことで、この修道院じゃあ、それがいつのことだったか、覚えている者もいないくらいよ。」

 一体この小説では何が事実なのであるか。

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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(10)

2018年06月06日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』は以上のようにゴシック小説として定義することができるが、ジャンル分けすることにどんな意味があるのかと問う声が聞こえてきそうだ。しかし私は、ゴシック小説の定義を与えることが、『夜のみだらな鳥』の空間恐怖と相続恐怖の構造を明らかにすることにつながると考えているし、この小説のほかの要素もこの二つの恐怖に緊密に結びついていると指摘することができると思っている。
 ほかの要素とは何か? それはこの小説の基調をなしている〝退嬰〟のイメージであって、それは『夜のみだらな鳥』の至るところに出現して、この小説のイメージを決定づけている。
 まずは妊娠したイリス・マテルーナが、父親が死刑の判決を受けて刑を執行されたらしいということを知らされて動揺し、雨の降る中庭をさまよって倒れ、老婆たちに介抱される場面から見てみよう。介抱者の中に新参のダミアナという老婆がいて、彼女は赤ん坊の真似をしてイリスの母性本能を呼び覚まそうとするのである。

「イリスは小さな腕を伸ばして、ママ、ママと言っている、恐ろしく年を取ったその赤ん坊を見つめる。無心な目で笑いながら赤ん坊は、抱いて愛撫してくれとせがむ。母親に抱かれて愛撫を受けるのが赤ん坊は好きなのだ。子どもを抱いて愛撫するのが母親は好きなのだ。ダミアナは、血管が浮いた脚――その先は節くれだっていて、まめだらけだ――をばたばたさせる。皺くちゃの汚い顔で愛撫を求める。きれいなよだれ掛かけの上に、年寄りくさいよだれを垂れる。」

 こんな調子で赤ん坊ごっこが始まり、イリスはダミアナの求めに応じて歯のないダミアナの口に乳首を含ませたり、おしめを替えたり、皺だらけの性器を拭いたり、パウダーをはたいたりする。ほかの老婆たちも一緒に嬉々として赤ん坊ごっこに耽るのである。
 この集団的退嬰行為の描写を読んで、あまりのおぞましさに吐き気を催す読者もいるだろう。ホセ・ドノソはそんなことは承知の上で描写を進めていく。その後イリスがかたわの子どもを産むのではないかという議論が始まって、ダミアナは〝かたわの子どもの現実的効用〟を説くに至るのだが、《ムディート》はそんなダミアナを内心で非難する。

「家族、母親、父親、子ども、家、扶養、食事、苦労……いいだろう、ダミアナ。そういうものを、信じたければ信じつづけるがいい。あるふれた幸福の、日々の悲しみの物語を練りつづけるがいい。一方おれは、集まって個体と化していく湯気で、無秩序な自由から生まれるあるものを形づくる。おれがそのひとりである老婆たちの意識は、そうした自在な働きをするのだ。」

これは《ムディート》の言葉であると同時に、ドノソの表現論ともなっている。ドノソは日常性におもねることなく、無秩序な自由から生まれるものに形を与えていく。ドノソが描く退嬰行為は日常性に回帰することなく、醜いものは醜いまま、おぞましいものはおぞましいまま、挑発的なあるいは暴力的な退嬰行為と化す。
 ドノソの退嬰は日常的あるいは社会的にはマイナスの価値しか持たないし、この作品をまったく社会性を欠落させたものとして、もっと言えば歴史からの退行的逸脱として位置づけることになるだろう。しかし、ドノソはそんなことにはたじろがない。ドノソはひたすらに〝無秩序な自由から生まれるあるもの〟に形を与えつづけるだろう。
 世界中から畸形たちをあつめて隔離するリンコナーダの屋敷もまた、退嬰的なイメージに染め上げられている。それもまた歴史からの退却と呼ばれなければならない。しかし、ゴシック小説というものがもともと、歴史からの退行的逸脱として、あるいは歴史からの退却として開始されたジャンルだったことを忘れてはならない。

 

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