かつてある人に、非常に丁寧なお礼の電話をもらったことがある。こんなしゃべり方だった。「この度はわたくしのために、過分なるご親切をいただきまして、誠にありがたく存じ上げます。ここに謹んでお礼を申し上げる次第でございます」。もう亡くなった方だから書くが、電話のあと、おかしくて仕方がなかった。
昔は、“言文一致でしゃべる”人がいたのだ。現在は、何かの式典の式辞でもなければ、こんな話し方を聞くことはできない。書き言葉と話し言葉は、ほっておくとどんどん乖離していくものだから、書き言葉で話すと、とても違和感を覚えることになる。
今、うっかり「違和感を感じる」と書こうとして、北原保雄先生の『続弾! 問題な日本語』のことを思い出した。北原先生によれば「違和感を感じる」は「馬から落馬する」などと同じ重複表現だが、「違和を感じる」では、かえって不自然になるという。
『続弾! 問題な日本語』では、ら抜き言葉についても分析されていて、五段活用の動詞以外は“ら”を抜くことができないことが示されている。しかし、テレビなどではほとんど、ら抜き言葉が標準になっていて、正しくしゃべる人はあまりいない。
ら抜き言葉には違和感を感じるが、自分でしゃべっていても、“ら”を入れるのか入れないのか分からなくなることがある。ここまでくると、いずれら抜き言葉が定着してしまい、“言文一致”で“ら”を入れて話す方に違和感を持たれる時代が来るかも知れない。
明治の初期に小説の世界で「言文一致」というものが唱えられたが、大変革命的であったことが想像される。現在も書き言葉と話し言葉は乖離を続けていて、私達は最早“言文一致”で文章を書いてはいない。いずれ新たな「言文一致」が唱えられるかも知れないが、とてもついていけそうもない。
(越後タイムス1月27日号「週末点描」)
昔は、“言文一致でしゃべる”人がいたのだ。現在は、何かの式典の式辞でもなければ、こんな話し方を聞くことはできない。書き言葉と話し言葉は、ほっておくとどんどん乖離していくものだから、書き言葉で話すと、とても違和感を覚えることになる。
今、うっかり「違和感を感じる」と書こうとして、北原保雄先生の『続弾! 問題な日本語』のことを思い出した。北原先生によれば「違和感を感じる」は「馬から落馬する」などと同じ重複表現だが、「違和を感じる」では、かえって不自然になるという。
『続弾! 問題な日本語』では、ら抜き言葉についても分析されていて、五段活用の動詞以外は“ら”を抜くことができないことが示されている。しかし、テレビなどではほとんど、ら抜き言葉が標準になっていて、正しくしゃべる人はあまりいない。
ら抜き言葉には違和感を感じるが、自分でしゃべっていても、“ら”を入れるのか入れないのか分からなくなることがある。ここまでくると、いずれら抜き言葉が定着してしまい、“言文一致”で“ら”を入れて話す方に違和感を持たれる時代が来るかも知れない。
明治の初期に小説の世界で「言文一致」というものが唱えられたが、大変革命的であったことが想像される。現在も書き言葉と話し言葉は乖離を続けていて、私達は最早“言文一致”で文章を書いてはいない。いずれ新たな「言文一致」が唱えられるかも知れないが、とてもついていけそうもない。
(越後タイムス1月27日号「週末点描」)