玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

詩人のなかで

2006年09月16日 | 日記
 三条市の館路子さんの詩集『螢、探して』(書肆山田)と新潟市の鈴木良一さんの詩集『母への履歴』(玄文社)合同の出版記念会が新潟市であった。『母への履歴』の発行者として、ずいぶん久しぶりに出版記念会なるものに参加した。
 参加したのは二十二人。うち二十人は新潟県詩人会に所属する詩人で、二人だけ非詩人。その一人は、新潟市のシネ・ウィンド社長・齋藤正行さん。もう一人が私。大勢の詩人に混じって居心地が悪いことといったらない。
 しかも、参加者全員が二冊の詩集について、一人ずつ順番に批評を加えるといった大変厳粛な会なのだった。二十人の詩人たちはお互いの出版記念会で馴れているようだが、こちらはちっとも馴れていない。二時間の宴席の一時間半以上を批評に費やすという恐るべき会に、すっかり面食らってしまった。
 というわけで、詩人でない二人だけ仲間はずれのようにして酒を酌み交わした。齋藤さんのシネ・ウィンドはもう二十年以上も続いていて、頭の上のダイエーは撤退しても、シネ・ウィンドは頑張り続けているのだ。しかも、齋藤さんは「新潟県映画館史」という大著述を構想し、資料集めをやっておられる。
 資料は膨大なもので、その保管のために事務所を一室借りねばならぬほどの量だという。柏崎の柏盛座の話題も、柏崎シネマの話も出た。ちゃんと小熊三郎さんの『柏崎活動写真物語』も読んでおられて、随分詳しい。さすがだ。
 しかし、前人未踏の「新潟県映画館史」には気の遠くなるような作業が必要だろう。さて、鈴木良一さんは、シネ・ウィンドの“座付詩人”という肩書きも持っているが、こちらは「新潟県現代詩史」をライフワークとし、柏崎の詩人たちのことを私などよりはるかによく知っている。
 二人の遠大な計画に圧倒されながら、元気をもらって新潟市を後にした。

越後タイムス9月15日「週末点描」より)



越後の歌びと

2006年09月16日 | 日記
 短歌新聞社から長岡市の大星光史氏の新著『越後の歌びと』が送られてきたので、紹介しよう紹介しようと思いながら一カ月が過ぎてしまった。短歌や俳句に関してはあまりよい読者ではなく、知識もほとんどないから、批評することもはばかられるのである。
 大星氏は新潟県出身の歌人八人を取り上げている。會津八一、相馬御風、遠山夕雲、松倉米吉、平出修、内藤〓策、西方国雄、宮柊二である。それぞれ評伝と歌論の要素を兼ね、簡便・的確にまとめられている。
 中にはその歌名が埋もれてしまうことの懸念される歌人もいる。明治二十一年長岡市生まれの内藤〓策がその人である。激しい性格で、厳しい生き方をした人だ。十三歳で母校の代用教員となったというから、神童と言ってもいいだろう。しかし内藤は歌に入れ込んで両親の期待を裏切り、二十六歳で処女歌集『旅愁』を出して評価されるが、その後は歌壇で注目されることはなかった。
 東京で出版社を興し、石川啄木、与謝野晶子、斎藤茂吉、北原白秋、若山牧水の歌集等の出版を手がけたというが、戦後は病気がちで窮乏のうちに暮らした。歌がものすごい。たとえば「なきがらをきりきざみては〓策の胃の肺の脳のと言はすべからず」。あるいは「乗合の兵士が気が狂って私をきりころすかも知れない、入日」。
 自らの死に対する妄想にも近い想像が、内藤自身を責め苛むかのようだ。こんな激しい歌が、多くの人に受け入れられるはずもない。晩年の飢えをテーマにした作品も、この人の深い孤独を窺わせる。“文学で身を持ち崩した”歌人の一人と言っていい。
 ところで大星先生も、長岡高校での教え子の一人によると、随分な奇行の持ち主だったようで、授業中に居眠りをよくされていたという(教え子がでなく、教える方が)。前の日の勉強のしすぎによるものだったのだろうか。

越後タイムス9月8日「週末点描」より)