玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

靉光とエルンスト

2007年04月21日 | 日記
 市議会議員選挙戦の取材をさぼって、例年のように東京八王子へ。そこでの日本自費出版文化賞第二次選考の仕事もはしょって、どうしても見たかった東京国立近代美術館の「生誕百年靉光展」へ。
 靉光展の最後の展示は、旧日本軍兵士である靉光こと石村日郎がつかっていた飯盒なのだが、これを上海から持ち帰ったのが柏崎の串田良方であることはよく知られている。そのことよりも、靉光展の強烈な印象について書いておきたい。
 靉光の作品については《眼のある風景》と、眼のない《自画像》しか見たことがなかった。どちらもすごい絵とは思っていたが、靉光の作品の全貌を知ることもなかった。
 靉光は、暗くて重い画家と思っていた。ところが、靉光二十七歳頃の作品は、漫画のようなユーモアをたたえたもので、意外な思いがした。昭和十六年に描かれた緻密な線で構成されたサイバーパンク的な作品にも驚いた。
 同時期に描かれた雉のある《静物》には、もっと驚いた。その縦長の作品は、上方に死んだ雉が、そして雉の死骸から静脈と動脈のようなものが垂れ下がっていて、そこにつながれた心臓のようなアケビが描かれ、その下方には、夢で見るような植物と、それとは逆に極めて写実的な果実が描かれている。
 そのグロテスクな形象と構図は、ドイツの画家・グリューネヴァルトの作品を思わせ、同じくドイツ人のシュルレアリスト・エルンストの幻想的絵画を想起させた。夢の中に繁茂する植物と奇怪な動物や虫の取り合わせは、エルンスト独自の世界で、日本人画家でここまでの影響を受けている人がいることを知らなかった。
 今、ろくに予備知識もなしに見た靉光展への驚きの気持ちを整理しているところで、詳しいことは書けそうもない。タイムス同人の一人が近日中に書いてくれることになっている。

越後タイムス4月20日「週末点描」より)



番神の歴史

2007年04月21日 | 日記
 岬館は、番神堂詣での信者のための茶屋から始まったということを、秋山文孝妙行寺住職の発言で初めて知った。番神海岸の恒久的浜茶屋建設に反対する署名簿提出の際に、秋山住職が会田市長に伝えた言葉の中に、そんな知られざる事実があった。
 そのことはものの本に記されてあるのだそうだが、そこまでは知らなかった。さらに、番神海岸を含めた一帯が、すべて番神堂の所有地であったことも、秋山住職の発言で知った。番神の歴史は、番神堂の歴史そのものであったのだ。
 そうした歴史を踏まえ、秋山住職は市の支援も受けず、自力で番神堂の裏山に遊歩道を整備し、日蓮聖人の銅像を建立した。今や全国から信者が団体で訪れる聖地となっている。秋山住職は柏崎の観光に大きく貢献してきたのだ。
 一方、番神浜茶屋組合の藤谷三郎組合長と話をする機会があった。永久建築の浜茶屋建設で、「こういう問題が起きると思わなかったのですか」と聞いた。藤谷さんは「こんなことになるとはまったく思わなかった」と言う。浜茶屋経営者で地元の人のことを“地玉”というのだそうだが、海水浴の衰退で、地元の人が浜茶屋の権利を外の人に売ってしまい、“地玉”がほとんどいなくなっているのが現状だ。
 藤谷さんも“地玉”ではない。だから、番神の歴史を知らなかったのも無理はないが、“地玉”の減少が今回の問題の背景にあることを表している。それにしても、番神という地名が番神堂に由来すること、そして番神堂が七百五十年もの歴史を積み重ねてきたことに対する深い配慮が関係者に欲しかった。
 東側のログハウスの建設も始まってしまった。これからどうなるにしても、景観百選を標榜する柏崎市にとって恥ずかしくない結果になることを期待している。

越後タイムス4月13日「週末点描」より)