玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

高橋源治さんの思い出

2008年06月27日 | 日記
 十一日に、元柏崎商工会議所会頭の高橋源治さんが九十五歳で亡くなった。源治さんの経済人としての姿については、ほとんど知らない。知っているのは文学や美術を愛する文化人としての源治さんだけだった。
 源治さんからは、いろいろなものをいただいた。タイムス紙を愛読されていて、気に入った記事があると、いつも電話をくださって、感想を話していただいた。「話しに来い」というので、何度もご自宅にお邪魔した。
 絵の話で気が合うと、故山田龍夫さんのスケッチを惜し気もなくくださったし、自分で気に入った本があると、まとめて何冊か買って、「読んでみろ」と言って、本を何冊もいただいている。
 民芸運動の創始者で知られる柳宗悦の思想に共鳴しておられて、水尾比呂志の評伝『柳宗悦』や、柳の周辺にいた浅川巧の本もいただいた。いただいた本のすべてを読んだわけではなく、そのことを申し訳なく思っている。
 最後の思い出は、伊藤整のことを書いたら、チャタレイ事件と柏崎の公安委員会の話をしてくださった時のことだ。源治さんの記憶はものすごくしっかりしていて、五十年も前のことを正確に話してくださった。その話は十八年八月二十五日号と九月一日号に書かせてもらった。
 生きておいでのうちに「いろんなことを聞いてみよう」と思っていたが、忙しさにかまけていて実現できなかった。そうこうしているうちに中越沖地震が源治さんの自宅を襲い、ガレージを改造した仮設暮らしを強いられることになった。
 葬儀で長男の信彦さんが、「地震がなかったら、もう少し長生きできただろう」と挨拶されたのが印象的だった。地震は多くの人の人生を変えてしまった。

越後タイムス6月20日「週末点描」より)



さまざまな瞽女唄

2008年06月27日 | 日記
 どうしたわけか、短い時間のうちに、さまざまな瞽女唄に触れることになった。まずはタイムス社が主催した木下晋展の合間に聴いた、木下さん出演のETV特集のビデオに登場する小林ハルさんの唄。野太い声で、しかもなまりがあって、土の臭いのする重厚さがあった。普通の歌とは全く違う発声法に、“怖さ”を思わせるものを感じた。
 次は木下展のギャラリートークの前座をつとめてくれた東京で活躍する民謡歌手・月岡祐紀子さんの唄だった。小林ハルさんの直接の指導も受けたという月岡さんだが、声が澄んでいて伸びがあり、民謡を聞いているようだった。
 月岡さん自身「まだ若いので味が出ないけれど、年をとれば味が出てくるのではないか」と話していた。昔の瞽女さんだって、年寄りばかりではないのだから、若々しい瞽女さんの唄声だって響いていたのではないだろうか。
 その次は、ふるさと人物館の「こどもにもよくわかるごぜのはなし」の展示会場で流されていた刈羽瞽女・伊平タケさんの唄だった。こちらの方は、小林ハルさんと違って、明るくて艶っぽいイメージで聞かせるものだった。
 最後は、八日、東本町一の常福寺で開かれた「柏崎瞽女唄公演」での葛の葉会のメンバー四人による瞽女唄だった。それまで聞いてきたものと全く違うのは、それが標準語で唄われていて、よく唄の意味が聞き取れたところだった。
 最後の演目「出雲節謎かけ」は、「松竹梅とかけてなんと解く」「風呂屋の番頭さんと解く」というので、その心は「ぬるい時は“タケ”、熱い時は“ウメ”、お客さんを“マツ”のが風呂屋さん」というのだった。瞽女唄は、テレビもラジオもない時代の“娯楽”そのものだったのだ。

越後タイムス6月13日「週末点描」より)