玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(9)

2016年03月12日 | ゴシック論

 また、エミリーが自分の部屋の中に発見する、階段へとつながるドアは、寝る前にはかんぬきが壊れていてよく閉まらなかったのに、朝起きてみるとちゃんと施錠されているという超自然的な謎も仕込まれていて、『ユドルフォの謎』はどんどんゴシック小説らしくなっていく。
 ある夜、そのドアから何者かが侵入してくる。幽霊の出現だろうか。ゴシックの古城に幽霊が現れるというのは、ウォルポールの『オトラント城奇譚』以来極めてありふれたものだが、ラドクリフは超自然的なものを超自然的なものとして描くのではない。そこにラドクリフの新しさを見ることも出来る。
 侵入者は、突然ヴェニスから姿を消したモントーニとエミリーを、怒りに駆られて追ってきたモラーノ伯爵なのであった。モラーノ伯爵はエミリーに、モントーニがエミリーを"金銭で売ろうとしていた"ことを伝え、彼の犠牲になるよりは、今すぐここから一緒に逃げようと迫るが、エミリーはそれを拒否する。激情に狂ったモラーノはエミリーに"モントーニを愛しているのか?"とさえ疑う。
 騒ぎを聞きつけたモントーニがエミリーの部屋にやって来て、モラーノと口論となり、剣を抜いての乱闘となる。モラーノは瀕死の重傷を負い、エミリーにこれまでの強引さを謝罪し、「貴女のことを諦める」と誓う。
 エミリーはこうしてモラーノの重圧から解放されるわけだが、モントーニの支配からはまだ抜け出すことは出来ない。しかも傷ついたモラーノが、モントーニの"もう一つの殺人"を仄めかした言葉に、不吉な予感はさらに募るのであった。
 モントーニは血も涙もない徹底した悪漢として描かれている。エミリーに対して有無を言わせぬ強権を振るうモントーニは、家父長的権威の象徴であり、ユドルフォ城はモントーニの邪悪な意志が投影された恐るべき幽閉装置なのである。
 ここでクリス・ボルディックが、アン・ラドクリフに始まる女性ゴシック作家について言っていたことを思い出さなければならない。ボルディックは次のように書いていた。
「女性がゴシック小説をこのように忍耐強く書き続けるのは、なぜか。その理由が、ポスト専制体制の権利として男どもが享受した経済的、法的、個人的安寧を、現代社会が女性に対しては、相対的に見れば確保できていないことに関係している確率は、かなり高い」
 つまり女性の方が、家父長的権威に代表される社会的抑圧を男性よりも多く受けているのであり、そのことが女性作家に連綿とゴシック小説を書かせる要因となっているのである。
 ラドクリフが荒唐無稽な小説を書いたにすぎないとしても、彼女がそうした作家達の鏑矢であることに間違いはない。だから今日、ラドクリフの作品をフェミニズムの視点から評価し直そうというような議論も行われているのである。
 もう一つボルディックが言っていたことに「文学におけるゴシックは、実は反ゴシックである」ということがある。いかにゴシックの古城を舞台とし、それにsublimeなものを感じとろうが、ラドクリフはそうしたゴシックの強圧的権威に抵抗する女主人公を描いているので、ゴシック的なものを良しとしているわけでは決してない。
 しかし私はそのようなフェミニズム的議論に与するつもりはまったくない。ゴシック的心性はボルディックの言っている要素を持ってはいるだろうが、それだけでは片づけられない部分がある。反ゴシックといえども、ゴシック的なものがオブセッションとして作家の内に胚胎されていなければ、決してゴシック小説は書かれ得ないということは前にも書いた。
 そうした意味でラドクリフの作品には、そのような衝迫力が欠けていて、陳腐な印象を免れない。結局フェミニズム的な思想が小説に現れているかどうかというようなことは、小説の評価に直接関わる部分ではない。小説が小説としていかによく書かれているかということ以外に、小説作品を評価する重要な基準はない。
 だからこれからも『ユドルフォの謎』について、読み進めながら作品の欠陥を指摘していくことになるだろう。ただ英語にも慣れてきたことだし、少しスピードを上げないといけない。

 

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