玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Orikuchi Shinobu The Book of the Dead(1)

2017年03月27日 | ゴシック論

二上山

 3月13日、14日、15日と古都奈良の旅を楽しむことが出来た。今回の目的は當麻寺である。今年度の読売文学賞を受賞したジェフリー・アングルスさんが、折口信夫の『死者の書』を翻訳し、本が昨年12月に出版されたので購入し、ジェフリーさんの序文を読み始めたのだが、何せ英語の本なのではかどらない。
『死者の書』の舞台となっている當麻寺を訪ねてみれば、刺激になってくれるのではないかと思ったのである。文学作品の舞台を訪ねるなどという趣味はまったく持ち合わせていないのだが、今回は奈良の叔父さんの運転・ガイド付きだったので大変良い機会だったのである。
 當麻寺は雄岳、雌岳の二上山(にじょうざん、古くはふたかみやま。折口もふたかみやまと読ませている)の東の麓にあり、目的地に近づくにつれて、連なる二つの山が見えてくる。折口の『死者の書』では中将姫をモデルとする藤原南家郎女(ふじわらなんけいらつめ)が、この二つの山の間に出現する巨大な〝阿弥陀ほとけ〟の姿を幻視するのである。
 長い参道を歩いて仁王門をくぐると、いきなり国宝の梵鐘が姿を見せる。こんな田舎のお寺に国宝が7点、重文が四天王像を4点と数えれば10点以上ある。中でも中将姫が蓮の繊維で撚った糸で織り上げたという伝説を持つ(『死者の書』もこの伝説を踏襲している)「當麻曼荼羅」が有名だが、本物はここにはなく、室町時代に転写された「文亀本當麻曼荼羅」(これも重文)が曼荼羅堂に収められ、ご本尊となっている(ちなみに蓮の繊維ではなく、絹だそうである)。

曼荼羅堂


 

中将姫の像

中に入って見るのだが、照明がなく、金網が張ってあるので、よく見ることが出来ない。私は別に中将姫の伝説に興味があるわけではなく、このお寺の雰囲気を味わうことが出来ればそれでいいので、しつこく見ることはしなかった。
 従って、ジェフリーさんが写真に撮っている中将姫の足跡(中の坊という庭園の一角にあるらしいが、もちろん本物であるわけがない)や、中将姫の墓塔も見つけることが出来なかった。

書影


 ところでこの本The Book of the Deadをゴシック論で取り上げるのは、それがJapanese Gothic tale of loveとして紹介されているからである。しかし、ジェフリーさんがJapanese Gothicの作家として挙げているのは、黒岩涙香、泉鏡花、村山槐多、江戸川乱歩であり、私の考えているGothicとは少し違うように思う(ジェフリーさんによれば、折口は乱歩の愛読者であったそうである)。
 折口の『死者の書』はいきなり、墓の下の死者が目覚め始め、「した した した」という水の垂れる音を聞く場面から始まる。『死者の書』は一回読んだくらいでは日本人でもよく理解出来ない作品だが、この最初のオノマトペの特異さによって強烈な印象を残す。
 となれば、ジェフリーさんがそこをどう訳しているか気になるところである。ジェフリーさんは最初、オノマトペについては説明抜きでその音を忠実に再現しようと思ったという。しかし、オノマトペというものがほとんど存在しない英語圏の読者には、何のことかさっぱり分からなかったらしい。
 したがって、原文ではただ「した した した」となっているところを、ジェフリーさんは"A barely audible sound-shhh-followed by something that sounded like punctuation-ta. shhta shhta shhta."と訳す。あくまでも英語圏の読者を想定しての翻訳である。ここにはジェフリーさん独自の解釈が含まれてしまうわけで、本来の翻訳のあり方ではないかも知れない。
 日本人にとっては「した した した」で十分であり、それが「したたる」という言葉や、私の住んでいる地方の方言で「したっぽい」(湿っぽい)という言葉を連想させるから、それが水の垂れる音であることは説明抜きで分かる。日本語は豊富なオノマトペ表現を持っているのであり、そのことを我々は喜ばなければならない。
 ジェフリーさんは「した」をdownという英語に対応するものとしているが、「した」が「下」、「したたる」が「下垂る」であるならば、それは正しい見方と思う。ただし、先の翻訳はshhhtaを分離させて捉えているので、ちょっと日本人の感覚とは違うような気もする。しかし、英語圏の読者を想定しての苦肉の策であるので、よしとしよう。
 また、ジェフリーさんは折口のオノマトペの翻訳について次のように書いている。

  My approach tries to bring the "strangeness" of the Japanese original into English so that it is not entirely effaced by the process of translation.

 折口の使うオノマトペの〝特異性〟を、翻訳によって消し去ってしまわないように英語に活かしたいと考えた。だからジェフリーさんは、「した」という音はそのままにし、読者の理解を得るために解釈を付け加えたのである。この作品には多くの特徴的なオノマトペが使われているが、後の方に出てくる「つた つた つた」や「あっし あっし あっし」等をどう訳しているのか、見ておかなければならない。

Orikuti Shinobu The Book of the Dead (2016, University of Minnesota Press) translated by Jeffrey Angles