玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

うれしい贈り物(2)

2017年08月05日 | 玄文社

 第2章は「おお 水よ」で、この章が直接的に洪水をテーマとする。追記に言う。

「哄笑が爪弾く。わが五十嵐川の洪水史は氾濫だらけである。花子も赤ん坊も消えた近代および現代にも五十嵐川は破堤を繰り返した。」

 いきなり「哄笑が爪弾く」ときた。洪水でなく〝哄笑〟なのだ。この章に収められた詩編は、冗談や駄洒落、地口、言葉遊びを総動員した戯れ歌なのだ。
 洪水のような哄笑、哄笑のような洪水。不謹慎である。しかし、これこそが経田さんの真骨頂であろう。あの吉岡又司論のずっと前から、経田さんはこんな詩を書いていたのだ。

 ほむらたつ草むら
 村の女たち 阿亀たち眠る
 火魔羅たつ肉むら
 火吹き男たち眠る    (Ⅰ 発端は雨だった)

また、卑猥で卑俗な表現も頻出する。

 川があふれ
 土手を越える
 肥えた土手を越える
 女たち 夏を笑って
 腹を叩き合う
 土手が切れたぞ!
 男たち土手を走った
 踊る男根 縮む金玉    (Ⅱ 洪水たち)

 かと思えば、見事なエロティックなイメージ。

 花子の
 はった乳房の丘から
 空を撃つ白い噴水
 アアッ流れ星! ひとつ!
 髪がくねるいびつの丘よ
 痩せた丘を谷を荒れた髪が長くはう  (Ⅱ 洪水たち)

 さらには土俗的な村人たちの方言まで。

 おとと、どこら
 手探りすらんだろも
 闇が深っこうて
 おととがいねえ
 燃えて燃えて燃えて燃えて
 おらぁ眠らんねえんだてばァ
 おらを灰にしてくらっしゃい      (Ⅱ 洪水たち)

 花子とは誰か? 「花子も赤ん坊も消えた近代および現代」とあるから、それは近代以前の村落共同体の母系的心性を意味しているのだろうか? あるいは豊饒の大地のイメージを?
 しかし、花子も赤ん坊も洪水によって流され、大地に帰る。そして村人たちは花子を捜しに森に入り、牧場の塩の窪に赤子を発見するのである。
 この物語が何を意味しているのかはっきりとは分からない。しかし、少なくとも前近代的な村落共同体の死と再生のイメージを持っていることは感じ取れる。経田さんは洪水を通して五十嵐川流域の地誌を書いたのだと言える。
 しかし、地誌が戯れ歌やファルスになってしまう、あるいは意図的に戯れ歌やファルスとして地誌を書こうとすること自体、経田さんの前近代的なものへの距離の取り方を示しているように思う。でなければもっと真面目にそれは書かれなければならない。
 その距離の取り方のあり方はこの章の「序詩」に示されている。最終5行を引く。

 少年よ いでよ
 夏の舌もつ声もって
 美しい災厄あってこそ
 光の世界が到来する
 ああ 八月の夜の空が
 闇にふるえて

「美しい災厄」などというものはあり得ない。災厄はいつでも酷薄で、残酷で、酷い。しかし災厄が夏の舌もつ少年の声で語られるとき、それが美しいもに姿を変えるということはあり得る。そこには現実と語られる現実との間の表現論的な背理がある(しかし語られない現実とはいったい何なのか?)。
「夏の舌もつ少年」たる経田さんは三条の洪水の歴史に代表される災厄の表現において、光と闇の背理の実践に賭けているのである。