玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

セサル・アイラ『文学会議』(2)

2017年09月22日 | ラテン・アメリカ文学

 アイラはアンデス山脈の山小屋に、クローン製造器を設置して万全の計画を立てる。カルロス・フエンテスの細胞を手に入れるために、クローンのスズメバチを飼い慣らし、スズメバチにフエンテスの頸のあたりから細胞を取ってこさせようというのである。
 細胞採取に成功したアイラは、後はただ待っていればよい。クローン製造器がすべてを自動的に完遂してくれるだろう。アイラは彼が書いたアダムとイヴの劇が上演される空港に向かうバスの中で次のように思いをめぐらすのである。

「計算間違いでなければ、その日の晩に私のクローン製造器はその仕事に終止符を打ち、〈天才〉が卵の殻を突き破って生まれてくるはずだった。今頃はもう創造の外皮はパンパンにふくれあがっているはずだ。夜明け時には山の頂上からカルロス・フエンテスのクローン完成版が下りてくるはずだった。」

 このグロテスクきわまりない計画は、さらにグロテスクな光景によって打ち砕かれることになる。フエンテスのクロ-ンのかわりに山頂から下りてきたのは、長さ300メートル、直径20メートルもの巨大なうじ虫の群れであったのである。
 まちはパニックに陥り、まるでSF怪獣映画のような場面が描かれていくが、明らかにこれはSF映画やホラー映画のパロディであって、アイラは大まじめでこんなことを書いているわけではない。
 で、アイラは何を間違ったのかというと、スズメバチがフエンテスの体の細胞ではなく、フエンテスが締めていた絹のネクタイから蚕の細胞を採取してきたのであった。フエンテスのかわりに下りてきたのは、巨大化した蚕の群れであったのだ。
 巨大化したのはアイラが「天才モード」で機器を作動させたからという説明が付いているが、そんなことはどうでもいい。我々はこの作品の徹底した破天荒ぶりを楽しめばよい。
 この作品はSFでいえば、マッド・サイエンティストもののスラップスティックということになろうが、これほどにばかばかしくも壮大なスペクタクルを、単なる冗談から導き出してくるのは、セサル・アイラの才能でなくて何であろう。
 ところでアイラは本当にカルロス・フエンテスを揶揄したのだろうか。実際にフエンテスもこの作品に登場していて、パニックに陥ったまちから空港に逃げてくる群衆の一人として描かれている。そのことを根拠にアイラがフエンテスをおちょくっているのだと考える人もいるだろう。
 しかし、スズメバチが間違えることなく、フエンテスの体の細胞を持ち帰っていたとしたら、山から下りてくる無数のフエンテスの姿が描かれていたはずで、これこそフエンテス本人にとっては耐えがたいものとなり得たであろう場面である。
 文学者のクローンとは一体何を意味することができるかということを考えてみるとよい。小説を書くクローンは小説を量産するのではなく、まったく同じ小説を複数書くことができるだけである。これではクローンの意味がない。肉体を使って仕事をする人間のクロ-ンなら、多くの仕事をこなせるだろうが、作家のクローンはそうはいかない。もともと作家フエンテスのクローンというものは無意味なのである。
 またその場面でフエンテスの体が巨大化していたとすれば、これはもうフエンテスに対する冒涜ともなり得たであろう。アイラの世界征服計画はスズメバチの犯した間違いによって、フエンテスに対する侮辱の意味を免れるのである。

 カルロス・フエンテスは天才であったと私は思う。セサル・アイラは1949年生まれで、私より2歳年上にすぎない。アイラもきっとわたしと同じ世代の感覚でフエンテスの作品を読んできたのに違いない。
 フエンテスは短編「アウラ」や「純な魂」によって偉大であった。また長編『澄みわたる大地』や『脱皮』、『遠い家族』や代表作『テラ・ノストラ』(半分まで征服した)によって偉大であり、天才であった。
 そしてフエンテスはラテン・アメリカ文学を世界の舞台に乗せるという文学的政治力によっても偉大であった。さらに創作に行き詰まっていたチリの作家、ホセ・ドノソの面倒を見、『夜のみだらな鳥』を完成させる陰の力になったことにおいても真に偉大な人であった。