玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(2)

2018年02月28日 | ゴシック論

 ヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』は、主人公アクセル・ドーエルスペールが最終幕で放つ「生きること? そんなことは召使いどもに任せておけ」というあまりにも刺激的な科白によって有名である。齋藤磯雄訳では「生きる? そんなことは下僕共がやってくれるさ」となっている。原文はこうだ。

 Vivre? les serviteurs feront cela pour nous.

 直訳すれば「生きること? そんなことは召使いどもが私たちのためにやってくれるだろう」というところか。
『アクセル』一編はこの科白に向かって収斂するように、緻密に構成されている。だからここだけ読んで『アクセル』を読んだということはできない。しかし、主人公アクセルのこの〝生きることへの否定〟はどこからやってくるのだろうか。
『アクセル』は形而上学的悲劇と呼べる作品であり、もっぱらその形而上学は主人公アクセルの科白によっている。アクセルの科白は極端に長く、長広舌とさえ言えるほどであるが、それを最もよく代表しているのが、従兄の勲爵士カスパル・ドーエルスペールとの決闘の場面である。
 カスパルはアクセルに対してその古城への蟄居をとがめ、「世の中に乗り出せ」と忠告する。そしてアクセルの父親が秘匿したとされる財宝のことに話題が及ぶと、アクセルは突然小姓に命じて剣を二本持ってこさせ、カスパルに対して決闘を挑むのである。
 この唐突さはカスパルにとって驚きであると同時に、我々読者にとってもまるで青天の霹靂のように受け止められる。このようなあら筋を聞くと時代設定は中世あたりに置かれているのかと思うかも知れないが、そうではない。この戯曲の時代設定は19世紀初頭であって、リラダンが生きた時代の少し前のことに過ぎない。
 アクセルはカスパルに対して唐突に次のように言う。

「先程あなたは、狎々(なれなれ)しい話をして私を侮辱しました。直ちにその償いをして頂きませう。あなたはもはや私の客人ではありません。決闘場として、この広間は絶好です、とりわけこの嵐の日には。」

 カスパルはこの言葉に納得しない。カスパルはアクセルに次のように返答する。

「なんだと! ドーエルスペール伯爵がたつた今襲はれた唐突な精神錯乱の発作などにさう易々諾々として応じられるものかい。」

 カスパルはアクセルの決闘の申し出を本気と受け止めていないのである。だからアクセルは説明しなければならない。カスパルに対してだけではなく、読者に対して説明しなければならない。
 だから、すぐにでも始まるはずの決闘が、ここから始まるアクセルの長広舌によって、先へ先へと引き延ばされていく。いつまでたっても決闘が始まらないのだが、それはリラダンがアクセルの怒りに表現を与えなければならないからである。
 決闘の勝敗などは初めから見えている。ここでアクセルが決闘に敗れて死ぬなどということは考えられないからである。だから読者の関心のおもむくところは、アクセルのカスパルに対する怒りと侮蔑の言葉ということになる。
 アクセルの科白を少し引用することで、この場でアクセルが考えていることを理解してもらえるだろう。たとえば……。

「他人のことを甚だ我儘勝手に《精神錯乱》と断ずる君が、良識の如何なる証拠を我々に示したといふのか!
(中略)
ところが逆に、君はみづから、《経験》豊かな、慧眼な、逞しき精神なりと自惚れてゐるのだな、さうだらう。そして、君には解し得ない思想を抱懐し、君には禁じられてゐる学問を研究しようとする努力、又その清澄にして厳粛なる美しさが、君には無益なものとしか思はれないので、君にとつては永遠に退屈であり、つまりは禁断のものであるやうな語らひをしようとする努力に対して、君は常に、得々として、嘲罵の一撃を加へ得るものと考へている。」

ヴィリエ・ド・リラダン『アクセル』(1975、東京創元社「ヴィリエ・ド・リラダン全集」第3巻)齋藤磯雄訳