玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』(3)

2020年01月30日 | 読書ノート

 ここで〝病気〟というのは、夫モルソーフ伯爵の精神病のことを言っている。彼の病気はおそらく、双極性障害(躁鬱病)のようなもので、鬱状態が続いたかと思うと、突然他者に対して攻撃的になったり、陰湿な皮肉を繰り返したりする。モルソーフ伯爵は他人にとって苦痛にしかならない存在なのである。フェリックスとモルソーフ夫人とは二人で、この扱いの難しい病人の世話を続けるなかで、愛を育んでいく。どんな障害があってもそれは、二人の愛を高めることにつながっていくというわけである。

 しかし、こうした障害があるということと、それによって二人が四六時中緊張を強いられていたために、彼らの愛が肉体的なものに発展しないで済んだとも言えるのである。あるいは逆に、それが肉体的なものとならなかったがために、二人は二人ながらにその欲望を禁じられ、愛の発露を失ってしまったのだとも言える。

 この小説には最後に、書簡としてのこの小説自体が宛てられた、ナタリー・ド・マネルヴィル伯爵夫人からの返信が添えられている。この手紙が実に意味深なもので、フェリックスが愛した二人の女、ひとりはもちろんモルソーフ夫人、もうひとりはイギリス女で、モルソーフ夫人とは正反対に活動的で享楽的な、ダッドレイ侯爵夫人のことを一刀両断に切り捨てているのである。

 フェリックスの新しい恋人としてのマネルヴィル夫人の手紙の趣旨は、モルソーフ夫人の貞淑もダッドレイ夫人の閨房術も持ち合わせていないというのに、そんな二人と比べてもらっては困るという、至極もっともなものであり、その手紙によって彼女はフェリックスに別れを告げることでこの小説を締めくくる。

 いったいフェリックスがこれほど長く、縷々女性への想いを綴ってきたことはいったいなんのためだったのか。そのことの意味がマネルヴィル夫人の手紙によって、一挙に相対化されてしまう。昔の女のことをくだくだと賞讃したり、批判したりすることが、現在の恋人にとって苦痛以外のものではないということ、そのことをフェリックスが理解していなかったことは別としても、この手紙は単なる蛇足ではありえない。

 一面では〝純愛小説〟とも言うべきこの小説を、読者の苦痛をも省みずに、おそらく必要以上に長々と綴ってきたことの意味を、バルザックは最後の手紙によって一挙に自ら相対化の淵に葬り去るのである。

 ここに私はバルザックの良心を見る思いがすると言っておこう。モルソーフ夫人のロマンチックな神格化も、フェリックスの彼女への崇拝も、ここでとどめを刺されるのだ。バルザックの主人公や登場人物たちは、極めてロマンチックな存在ではあるが、作者が必ずしもそれを是認しているわけではないということが、この最後の冷徹な手紙によって明らかになる。

 バルザックはこのように、最後の最後にこの〝純愛小説〟を相対化してみせるのであるが、私なら別のやり方でそれを相対化せずにはいないだろう。それはモルソーフ夫人がフェリックスとダッドレイ夫人との関係に嫉妬するあまり、衰弱して死んでしまう直前に口走る譫言に関係している。

 モルソーフ夫人もあの時、つまりはフェリックスが冒頭で夫人の裸の肩にむしゃぶりついた時に、彼に対する愛に目覚めていたのであるし、本当は何もかも捨てて、フェリックスとの愛に走りたかったのである。彼女がそうした欲望をすべて押し殺してしまったことに、彼女自身の不幸もまたその原因をもっている。

 つまり、フェリックスのようなうら若い青年の性的欲望を禁じてしまったら、彼がダッドレイ夫人のような女にいかれてしまうのも無理はないのであり、その要因を作ったのはモルソーフ夫人自身だったということである。さらにはモルソーフ夫人の死に至る病もまた、自らが招いた結果でしかなかった。

 だから、モルソーフ夫人の死の場面で、彼女の娘マドレーヌが、すべての責任がフェリックスにあると考えて彼を許そうとしないのは、間違った認識によっている。すべての責任はフェリックスにあるのではなく、モルソーフ夫人にこそある。それがこの〝純愛小説〟を相対化する私なりの読み方である。

(この項おわり)