玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(2)

2021年02月01日 | 読書ノート

アルベール・ベガンは本書のエピグラフとして、ボードレールの書いたバルザック評価の一節を掲げている。

 

「バルザックのあの大いなる栄光は、彼が一観察家とみなされることにあったと知り、私はたびたび驚いたものである。かねてから私には、彼の主な長所は幻想家(visionaire)、それも熱情的な幻想家というところにあるような気がしていたからだ。

すべて彼の創造人物たちは、彼自身を燃やしている生命の熱を授けられている。貴族階級の最頂から平民の最下層にいたるまで、彼の『人間喜劇』の中のありとあらゆる俳優が生に対してどん欲であり、争闘のなかで積極かつ狡猾であり、悲運にあって忍耐強く、楽しみに飽くことを知らず、献身において天使のごときこと、現実世界の喜劇が呈している以上のものがある。

 要するにバルザックにあっては、どれもこれも天才を具有している。すべての魂はのど元まで意力のつまった魂なのである。」

 

 長い引用になったが、さすがボードレール、バルザックの作品に対してすべてのことを言い尽くしているではないか。ほとんどこの一節があれば、ベガンの本は要らなくなってしまう。ボードレールが第一級の詩人であったと同時に、第一級の批評家でもあったことは、この一説を読めば素直に理解できる。

 ここでなぜvisionaireが「真視の人」でも「幻視者」でもなく「幻想家」と訳されているのか理解に苦しむが、当然ここだって「幻視者」という日本語を当てたいと私なら思う。つまり、「幻視者バルザック」という言葉はベガンが言い始めたのではなく、すでにボードレールによって言われていたことだったのである。

「生に対して貪欲」は『あら皮』のラファエルや、『従妹ベット』のヴァレリーに当てはまり、「争闘のなかで積極かつ狡猾」は『浮かれ女盛衰記』のヴォートランの場合に該当する。「悲運にあって忍耐強く」は『谷間の百合』のモルソーフ伯爵夫人を、「楽しみに飽くことを知らず」は『従妹ベット』のユロ男爵を、「献身において天使のごとき」は『浮かれ女盛衰記』のエステルのことを念頭に置いているに違いない。

 ボードレールはここでバルザックの代表作を参照しているわけだが、それだけでもバルザックを「幻視者」と呼ぶ根拠となるのである。〝代表作〟というのは『あら皮』を除いて、超自然的な現象を扱っていない、一見社会に対する客観的観察によって書かれたように見える長編を意味するとすれば、ボードレールはここでバルザックに対する世評の誤解を解こうとしているのである。

 しかし、バルザックが幻視者であることを理解しやすい作品は、やはり『セラフィタ』や『ルイ・ランベール』などの作品であろう。ベガンもそこに力点を置いているのであり、私もそうした作品を通して、バルザックにもう一度挑戦しようという気になったのであるから。

 なおしかし、バルザックが『セラフィタ』のような初期の作品においてはロマンティックな幻視者であったが、その後社会観察者へと変貌していったなどということが決してないことは、『放浪者メルモス』から生まれたヴォートランの人間像を見ただけでも分かる。

 ベガンはそこにあるのは社会学ではなく、〝神話化〟であると言っているが、彼の言う〝神話化〟によって最もめざましい効果を上げているのはヴォートランの造形であろう。ヴォートランについては『浮かれ女盛衰記』の時に書いたから、バルザックの〝神話化〟が成功しているもう一つの事例である〝浮かれ女〟つまり娼婦のことについて触れてみることにしよう。